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第5回浪速地域

2024年9月1日

ページ番号:634484

浪速地域の地図
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座談会

地域の皆さんにお話を伺いました

浪速地域座談会語り部のみなさま
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【参加者】
(左から)丸井栄子さん、北口武司さん、幡多区長、浅居明彦さん、渡辺実さん、交野満さん

中・近世の「渡辺村」

区長

 浪速地域の歴史と言えば、やはり何といっても「渡辺村」ですね。

渡辺さん

 昔、1616(元和2)年から1624(寛永元)年までの間に、今の幸町1丁目のあたりに1つの役人村がつくられました。その役人村が1701(元禄14)年から6年かけて、今の浪速地域の一角に移ってきました。それが「渡辺村」です。

 そのもっと前の1098(承徳2)年の地図をみると、今の天満のあたり、大川の間に「北渡辺村」「南渡辺村」という表記があります。そこに「渡辺党」という武士団がいて、皮革の仕事と坐摩神社の清めをしていました。

浅居さん

 「渡辺村」が幸町にあった1624(寛永元)年に役負担を命ぜられた頃に、皮問屋の免許(革製品を商いできる権利)をもらいました。それで西日本一円から皮を集めてきて、皮問屋として莫大な財産をつくりました。

 「渡辺」の語源は、川の渡るあたりと書きます。全国の「渡辺」さんの発祥の地です。中央区の坐摩神社の住所は「中央区久太郎町4丁目渡辺」です。これまで数回、テレビでもとりあげられましたが、全国でもめずらしい、地番表記に個人の氏姓が書いてあるところです。坐摩神社の裏門のところにその地番表記があります。


 2月の節分の日に、全国で「鬼は外、福は内」ってやりますけど、やらない姓があります。それは「佐藤」「鈴木」「山本」「渡辺」のうちのどれでしょう。


 答えは「渡辺」です。


 なぜかというと、坐摩神社の神官の渡辺さんはもともと渡辺党の党首、つまり武士で、鬼退治をしたような家だから、そんな家で「鬼は外」みたいな、なまっちょろいことはする必要がないので、「渡辺」という姓の家はそういう風習がない。そういったこともテレビでよく紹介されます。

渡辺さん

 源頼光の四天王に渡辺綱(わたなべのつな)という人がいて、大江山で鬼退治をしました。都島区に「渡辺綱の馬止まりの跡」という石碑が建っています。

浅居さん

 「渡辺」の当主は、綱(つな)からはじまって、代々名前は一文字です。この人も「渡辺実(みのる)」というので「俺は末裔や」と本人は言っています。

渡辺さん

 坐摩神社の今の宮司は48代目の「渡辺」さんです。

浅居さん

 神社は摂津の国の一の宮で、神社の中に大阪の神社庁の本庁があります。ここの浪速神社は坐摩神社唯一の境外末社です。ですので、祭りも7月21日、22日と同じ日で、本社からも必ず来てくれます。

区長

 昔の祭りは大変にぎやかだったと伺いました。

渡辺さん

 20年くらい前にインターネットで見つけたんですが、西浜(注)のふとん太鼓がポストカードになっています。大正時代のものだと思うのですが、「なにわ名物、西浜のふとん太鼓」と書かれています。浪速区史にも「西浜のふとん太鼓」の絵が載っています。

(注)「渡辺村」の地名は明治時代に「西浜」に変更された。


西濱のふとん太鼓の絵(大阪市立図書館デジタルアーカイブより)

区長

 「なにわ名物」と紹介されてポストカードになるくらいですから、大阪を代表する豪華なふとん太鼓だったんでしょうね。

 ほかに、浪速地域の「渡辺村」のエピソードはありませんか。

交野さん

 江戸時代、薩摩藩(今の鹿児島)の仲覚兵衛がこの村に着いたとき、岸部屋六兵衛の手助けで獣骨を持ち帰って、それを肥料にしたことで、薩摩藩の農業が発展したそうです。そのことを取材に来た方から教えてもらいました。

浅居さん

 世界で初めての骨粉肥料です。薩摩藩ではシラス台地であまり作物が育たず、財政的に厳しかったんですが、そのおかげで一気に生産量があがって、仲覚兵衛は名字帯刀を許されることになりました。私たちはそのことを全然知りませんでしたが、鹿児島県の知覧に行くと大きな石柱が建っていて、渡辺村の岸部屋六兵衛と取引をして、と書いてありました。


渡辺さん

 2003(平成15)年に「ちちんぷいぷい」という番組でも紹介されました。

区長

 農業を発展させ、藩の財政にも大きく貢献したんですね。

 ところで、今の大国地域のあたりは昔、「木津村」と呼ばれていましたが、「渡辺村」は「木津村」の隣村だったんですか。

浅居さん

 いいえ。「木津村」が本村で、「渡辺村」はその枝村でした。浪速神社の前の道は本村に通じる唯一の道でした。あそこの地形は300年以上前から変わっていません。制度的には「渡辺村」は「木津村」の枝村なんですが、皮革産業が発展して、村がどんどん広がっていきました。江戸時代の最盛期には「渡辺村」の人口は5,000人を超えるところまで増えましたが、もともとあった狭い場所だけでは住めませんので、今の浪速町(注)全体にまで広がりました。

(注)「渡辺村」の地名はその後「西浜」、「浪速町」と変更され、現在は「浪速西」「浪速東」となっている。

渡辺さん

 でも、それ以上に広がらなかったのは鼬(いたち)川が流れていたからです。

浅居さん

 今の芦原橋駅の前のところに鼬(いたち)川が流れていたんです。芦原教習所の北側から斜めに流れていました。ガード下のところに「鼬川橋りょう」と書かれています。



今も残る「鼬川橋りょう」の表示

 ちなみに、浪速神社の隣の浪速西公園には「あしはらばし」と書いた石の欄干があります。鼬(いたち)川には昔、「芦原橋」という橋がかかっていて、川が1951(昭和26)年頃に埋め立てられるときに、その欄干をこちらに1つだけ持ってきたんです。


「あしはらばし」の欄干(浪速西公園)

地域の教育は、地域の力で

区長

 皮革産業により、「渡辺村」はどんどん大きくなり、やがて明治時代を迎えます。それからほどなく浪速地域では、村人の手で小学校を作ったんですね。

北口さん

 昔は金持ちがたくさんいました。徳浄寺というお寺があって、そこを仮の校舎にして今の栄小学校のもととなる学校をつくりました。その後、近くに校舎を建てたんですが、それも個人の寄付などによるものです。

区長

 最初の小学校ができた徳浄寺は、どのあたりにあったのでしょう。

渡辺さん

 浪速神社の道路を隔てた前あたりです。大阪で2番目に早くできた学校でした。

 2期目の校舎は浪速神社のところにありました。3期目は1928(昭和3)年に「リバティおおさか」のあった場所にできました。

浅居さん

 3期目の小学校を大阪市に譲渡した時は、14町区の名義でした。でも、その前はみんな個人の名義でした。たぶん税金の関係とか色々あってのことと思います。最終的には12町会の所有となり、大阪市に寄贈しました。

 戦後50年のとき、韓国では光復50年のイベントが開催されたのですが、それが終わったら旧朝鮮総督府の建物を潰すと知り、まだある間に行こうということになって、小学校4年と6年の息子を連れて行きました。建物は博物館になっていたんですが、入り口に立った時、「あれ?俺が卒業した栄小学校によく似てるな」と思いました。中に入ったら、階段も回廊式で石造りで、「あれ?栄小学校の大きい版やな」と思いました。で、日本に戻ってリバティの学芸員に話をしたら、設計者が同じだと言われました。だから同じようなものを作ったんですね。設計者はドイツ人です。すべて地域がお金を払って設計させてつくった学校です。

区長

 浪速地域では、1911(明治44)年に、私立の有隣小学校という学校もできたそうですね。

浅居さん

 有隣小学校は今の浪速第1保育所のところに、ニッタ株式会社の創業者である新田長次郎さんが作った学校です。昼間、働いていて栄小学校に行けない子どもたちのために、見かねて私財を投じ、夜間学校としてスタートしました。新田さんは、自分の名前を売るために作ったんじゃないからと言って、開校式には出席しませんでした。でも、その後で学校の様子を見に行ったら、教科書もノートもなにもなくて裸足の子もいたので、「これはあかん」といって、また教科書やノートを寄付されたそうです。すごい人だと思います。 

 今ある芦原自動車教習所も、ニッタさんが経営されています。そこには以前、新田さんのお屋敷がありました。

 現在の教習所の西南に塀がありましたが、阪神淡路大震災で全てが倒れかけました。ニッタの当時の会長が昔の歴史をとても大事にされていて、残せる部分はぎりぎりいっぱいまで耐震化をして残しました。今もガード下の方から見えます。

 特別支援学校が今の場所に移ったときに、敷地の一番西側の塀はニッタさんの塀だったので、当時の会長に「オープニングの時に挨拶に行ってあげてくれませんか」と声をかけたところ、「わかった。喜んで行く。うちの会社が使っていた塀をそのままにしてくれてありがとう」って。そんな人でした。今もご存命だと思いますが、インターネットで調べたらもう、名誉会長も退いておられるようです。

 ちなみに新田長次郎さんが会社を独立する前は、大国町にもあった吉備産業さんともう1社、どこだったか忘れましたが、3社の合資会社でスタートしました。その後、「もう、1本立ちでいかせてもらいます」と言って、出してもらった資本金を返して、革を使ったベルトの会社を創業されました。今はゴムを使った製品が主ですけどね。

区長

 大きな工場もあり、また新田さんも浪速地域の人たちも地域のこどもたちを大切にし、教育に熱心なまちだったんですね。

 またこの地域では明治の時代、自由民権運動の活動も盛んだったと伺いました。

渡辺さん

 明治時代に中江兆民がここに住んでいて、1890(明治23)年の第1回衆議院議員選挙でトップ当選しました。

浅居さん

 中江兆民は東雲新聞の主筆をしていた人で、東洋のルソーと言われた人です。正宣寺が中江兆民の選挙対策本部をしていました。もともと高知の人だから立候補しようとしたら、こっちに住所をもってこないといけないし、このまちの金持ちがみな、選挙資金も含めて段取りました。東雲新聞では、渡辺村大円居士というペンネームを使っていました。

区長

 正宣寺は、今もこの地域にあるのですか。

丸井さん

 以前は芦原病院の隣にありましたが、大国町のほうに移転しました。

浅居さん

 正宣寺も徳浄寺も今は敷津西にあります。

戦時下の浪速地域

区長

 浪速区は太平洋戦争で区域の約93パーセントが焼失しますが、戦時中のエピソードがあれば教えてください。

交野さん

 もと青少年会館のあった場所に陸軍の倉庫がありました。今、こども相談センターを建てているところです。

渡辺さん

 母から聞いた話ですが、そこに爆弾が落ちました。軍の倉庫には食糧を備蓄していましたから、みんなで缶詰を取りに行ったそうです。

浅居さん

 昭和20年3月の大阪大空襲では、浪速区は約93パーセントが焼けましたが、浪速町(注)では約97パーセントか98パーセントが焼けました。残ったのは栄小学校くらいです。なぜ浪速区が集中的にやられたのか。リバティの学芸員の話では、木造家屋が密集していたからだそうです。

 もう亡くなられましたが、あるおばちゃんの話では戦時中、大阪府庁でアルバイトかなにかで働いていて、大空襲の後、焼け跡のなかを浪速町(注)に帰るのに、みんな焼けてしまっていたので、迷わずに帰って来られたと。

 また、道にある焼死体を最初はヒヤッ、ヒヤッと避けながら歩いていたけれど、30分も経ったら平気で避けて歩けたらしく、人間は怖いなと思ったそうです。

(注)「浪速町」の町名は後に「浪速西」「浪速東」に変更された。

交野さん

 以前は国鉄の高架があって、大空襲の時、そちらの方に逃げた人はみな炎にまかれたと聞きました。

戦災からの復興

区長

 浪速区では空襲で多くの方が亡くなられ、まちは焼け野原になりました。

 長かった戦争がようやく終わり、人がだんだん戻ってきます。そして、戦災復興の土地区画整理事業が開始されました。

浅居さん

 焼け野原でぐちゃぐちゃだったところを、区画整理によって、木造のきちっとした市営住宅を建てていったんです。僕も木造の二軒長屋の市営住宅に住んでいました。庭つきで水道、ガスが完備されていました。

 区画整理で公園もだいぶ増えました。浪速地域の公園の数は浪速区の中でも多い方だと思います。

丸井さん

 昭和30年代にはいると、後に芦原病院になる芦原診療所ができました。その頃はまだ市場もあって、たくさんお客さんが利用していました。市場の裏側では漬けものを手作りしていました。天ぷら屋さんは夕方になると、お客さんがたくさん並んでいました。

区長

 場所はどのあたりにあったんですか。

浅居さん

 栄市場は、浪速西3丁目にありました。

渡辺さん

 浪速西4丁目には末広市場がありました。

丸井さん

 末広市場に行くまでのあいだに「台湾本通り」と呼ばれたところがありました。空から見たら台湾の地形に似ているからだそうです。「銀座通り」とも呼ばれていました。

浅居さん

 当時、1トンくらいのトラックが通れたのはその道だけでしたが、その道から中に入ったら路地だらけの迷路でした。中学校の先生が家庭訪問に来て、順々に家をまわるんですが、最後の子の家が終わっても、どの道を通ったらそこから出られるかわからない。昔の先生はネクタイを締めてますやん。当時はみな、皮革の仕事をしていたから作業服ばかりでしょう。ネクタイを締めている人といえば警察か銀行員か売り込みに来ている人だから、みんな無視していた。優しいおばあさんが事情を聞いて案内をしてくれたから帰ることができたと、その先生は退官するまで言っていました。
 戦後、勝手にバラックが建てられていきました。後から建てる家は少し遠慮して、よその家の庇の下に庇をつくります。細い路地なので昼でも太陽が当たらない。だからそこは「昼なお暗き路地裏」と言われていました

丸井さん

 子どもたちがいたずらをして逃げると捕まえられないんです。

浅居さん

 鬼ごっこが成立しないまちでした(笑)。

 浪速地域のほとんどが区画整理されましたが、この浪速西4丁目だけは1951(昭和26)年に対象から外されました。なぜかというと、どの地域も「早く、うちの区画整理をしてくれ」と言ってきますよね。大阪市も予算に限りがありますから「あんなところもあるんだから、やんやん言いなさんな、もう少し待ってくださいよ」と言って。当時、そこはいわば、沈め石に使われました。

交野さん

 区画整理のほかにも、浪速神社の西側にあった十三間堀川が埋め立てられて、その上に阪神高速道路の堺線ができました。

丸井さん

 それまでは川沿いにも家が並んでいて、人が住んでいましたね。

 また、以前は市電が走っていました。海に行くのに浜寺まで市電に乗っていきました。弁当をつくって家族で海に行きました。子どもは自由に動き回りますので、子どもにベルトをや紐をつけて手で持って、つなぎとめていました。

浅居さん

 今里に行くときは、芦原橋の前から市電に乗って、今の立体交差になっているところを上がって行きました。下には関西線が通っていました。子どもの頃、「本当に上れるのかな。途中で坂をずり落ちるんじゃないかな」と思った記憶があります。

渡辺さん

 市電で覚えているのは、花電車です。市電の最終日には花電車が通りました。ほかにもめでたいことがあった時に走ったのではないかと思います。

浅居さん

 今の上皇と上皇后が結婚された時には、なにわ筋でパレードがありました。

丸井さん

 当時、皇太子と美智子妃殿下が来られるというので、近くにすごい臭いを出していた工場があったのですが、その臭いを消すために1週間ほど操業を停止したと記憶しています。

浅居さん

 西成のその会社は今でもあります。化成工場で骨とかを煮詰めるので、今は設備がよくなっていますが、昔はすごい臭いがしていました。うちの母親が美智子さんのことが大好きだったので、パレードには日の丸を持って、肩車をしてもらって見に行きました。

渡辺さん

 ぼくは小学校1年生の時で、学校から行って日の丸を振りました。

浅居さん

 とにかく町内は大騒ぎでした。

北口さん

 私が学生の頃は、今宮駅のあたりは貨物の操車場だったので、線路がいくつもあって、向こうに渡ろうとしても、なかなか渡れませんでした。

丸井さん

 環状線の今宮駅ができてからは利用者がとても増えました。

交野さん

 今宮駅はそれまでにもありましたが、関西線だけだったんです。環状線と関西線が一体となることで環状線にアクセスできるようになったので、このあたりは最近、ワンルームマンションもけっこう増えました。

浅居さん

 このあたりは民泊で泊まってUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に行く人が多くて、朝の芦原橋駅は切符が買えないほどです。

 ちなみに、芦原橋駅は、駅舎にエレベーターができた日本で1番最初の駅です、これはアピールしたいです。大手の書店に行けばあるかもしれませんが、「環状線物語」という本に書かれています。エレベーターは芦原橋駅からスタートして、ほかの駅舎にも作られるようになりました。

皮革産業の繁栄と衰退

区長

 浪速地域は戦後も皮革産業で復興していくわけですよね。昔、この地域でどれくらいの人が皮革関連の仕事をされていたのですか。

浅居さん

 1970年代前半に実態調査をしたんですが、7割を超えていました。

北口さん

 私も中学を卒業して、丁稚奉公にいきました。靴の下の部分をつくるために、大きな皮を型に入れて裁断する仕事から覚えました。


靴の製造について解説する北口さん

丸井さん

 靴の材料は上と下が別で、かかとも別になっていました。

浅居さん

 靴の製造は分業でやっていました。かかとはかかと専門。ひもはひも専門。

 北口さんは型抜きでは浪速町ナンバーワンでした。包丁で皮を正確に切るなんて職人技です。それをされていたんですよ。

北口さん

 裁断して問屋に納める仕事をしていました。機械ができてからは機械で型を抜いて裁断するようになりました。

浅居さん

 太鼓屋又兵衛の子孫や岸部屋さん、播磨屋さんといった大手は皆、戦後すぐに出ていきましたが、小規模なところは1970(昭和45)年頃まではまだまだ残っていました。

渡辺さん

 靴をつくっているところも多かったです。さっき、浅居さんが言っていましたが、1970(昭和45)年頃の調べでは皮革関係の仕事のうち、7割が靴に関わる仕事をしていました。でも、大量生産の方が安くつくようになって、その後はだんだん数が減って行きました。

丸井さん

 それでも、うちの町会ではまだ、2軒くらい靴の部品を作っているところがあります。競馬の騎手の靴のパーツを製造していて、お父さんの仕事を引き継いで、今は息子さんがやっているみたいです。

北口さん

 うちの作業所でも1軒、ミシンでベルトを作っているところがあります。

浅居さん

 まだ、腕のよい職人はいます。でもほとんど姿が見えません。戸を締めているし、看板をあげていないし。

 戦争で焼けて、南に逃げた人は西成に行きました。そこから戻ってきた人もいれば、そのままそこに居着いた人もいます。大国に逃げて大国に居着いた人もいます。1970(昭和45)年頃の調査の結果をみても、浪速地域から戦後、他の地域に移り住んだ職人は多いです。

太鼓のまち、人権文化の発信地

区長

 浪速地域は皮革産業で発展してきましたが、なかでも太鼓づくりは大変、歴史と伝統があるようですね。

渡辺さん

 「渡辺村」が幸町にあった頃に、つくった太鼓を島根県の美保神社に贈ったことがわかっています。

浅居さん

 渡辺さんと美保神社に一緒に行ってきました。ちょうど宝物館が建設途中だったので、実物は見ることができませんでしたが、宮司さんが「太鼓だけで120個あります。太鼓の皮を張り替える時にその内側に、何年に誰が作ったかが書かれていて、それを全部書き写してあるんですが、8割が渡辺村です」とおっしゃっていました。

 日本海の航路で海難事故が起きないように、美保神社に守っていただく。美保神社の神様は鳴りものが好きだということで、太鼓をはじめ、お琴、三味線などいろいろと献納されたんです。そのうち太鼓が120個あり、その8割が渡辺村でつくられたものとのことでした。

 四天王寺の1番最初の火焔太鼓は豊臣秀頼が寄進したのですが、渡辺村が作ったものだと記録に残っています。大阪城の時太鼓や四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)の太鼓、大阪の東照宮にある太鼓の張り替えも渡辺村がしていました。


四天王寺の太鼓の張替え

 昔は太鼓屋がたくさんありました。

 浪速玉姫公園の手水鉢は太鼓屋14軒が正宣寺に奉納したもので、正宣寺が引っ越しをする時に「リバティおおさか」にもらって置いていたんですが、リバティもなくなるというので、公園局に頼んで公園に置くことになりました。江戸時代末期の年号が入っています。

 そういえば渡辺村が江戸時代につくった珍しい太鼓があって、金箔張の葵の御紋が入っているものも残っています。


正宣寺の手水鉢(浪速玉姫公園)

区長

 太鼓づくりそのものは、いつごろから始まったのでしょうか。

渡辺さん

 壬生狂言の中に、今でも毎年4月27日に催される「炮烙割(ほうらくわり)」という演目があります。素焼きの陶器を舞台の上から落とすことで有名なんですが、太鼓屋と炮烙屋が争いをするのをもじってやるんです。壬生狂言は仏教の教えを人々にわかりやすく伝えるもので、700年前からあったと言われています。ですので、太鼓づくりも庶民文化としてその頃にはあったということになります。

区長

 この辺りで今も続けておられる太鼓屋さんは、どれくらいありますか。

浅居さん

 今残っているのは、太鼓正と田端さん、それから大国町には坂東さんが残っています。

渡辺さん

 うちのおふくろは田端さんで職人として働いていたので、小さい時によく遊びに行きました。

区長

 浪速地域では、2002(平成14)年に「人権・太鼓ロード」が整備されました。作った経緯などを教えてください。

浅居さん

 以前、「リバティおおさか」の役員をしていた時、来館者のアンケートを見たら、「太鼓のまち、皮革のまち」と聞いて来たけど、なんらイメージできない。無機質な団地が建っているだけ。つまらない。遠く感じる。面白くない。といったネガティブな回答が30枚くらいあったんです。陸橋の上にあがってまち全体を見て、本当だなと思いました。

 それで、歴史的なものをモニュメントとして置くことによって太鼓や皮革の歴史を学習できるようにしたいと思い、実行委員会を立ち上げました。その事務局長をしていた縁で、今もそのフィールドワークを仰せつかっています。

区長

 またこの地域には、太鼓集団「怒」がありますね。海外公演にも行かれたとか。

浅居さん

 1987(昭和62)年に結成しました。

 沖縄には、中国と交易をしていた時代、歴代王朝が替わった時に挨拶に行って帰ってくる船を迎える祭りがあって、その村役場の役人だった人が「うちはチャンプルー文化なんだから、和太鼓を使ってやろうや。和太鼓といえば浪速でしょう」といって太鼓を買いに来られたんです。

 「名人はいるんでしょう。教えてほしい」と聞かれたので、「夏祭りの太鼓だけは叩けるけど、名人なんかいません」と答えると「おかしいじゃないか」と言われたことがきっかけでした。

 閻魔堂の住職で太鼓集団「鬼瓦」のリーダーだった人が、小学校4年生から6年生までの14~5名に、太鼓正から太鼓を借りてきて短期間で特訓をしてくれました。で、「もちつき太鼓」という曲をオープニングで叩きました。それがものすごく反響があって、1日で終わるつもりがアンコールで次の日も叩きました。子どもたちから頼まれて、高校生や大学生、指導員たちが子どもたちに教えるために残波からDVDを送ってもらって、太鼓の練習をしているうちに、いつのまにか自分たちが打ち手になりました。

 1996(平成8)年にバンクーバーの会議にスピーカーとして招待されたとき、僕が話をするだけでは面白くないから、太鼓集団「怒」を連れて行こうということになり、寄付を募って8人連れて行きました。向こうに行ったら、日系人協会がとても喜んでくれました。それが海外公演の第1回目です。

 翌年には大丸メルボルン店の十周年で来てくれと言われて行きました、1988(昭和63)年のサッカーワールドカップの共同開催の時は、ソウルに来てくれと言われて行きました。ニューヨークにも来てくれと言われて行きました。

 後継者を育てないといけないので「怒塾(いかりじゅく)」をつくって、週に1回、練習をしています。今、塾生は11人いて、メンバーは8人です。「怒」のリーダーは今は西成区に住んでいて太鼓を教えていますが、「怒」のリーダーとしても活動しています。今の「怒」のメンバーは「怒塾」出身の子ばかりです。

これからの地域に寄せる期待

区長

 最後に、皆さんにとって浪速地域はどんなまちでしょうか。また、これからどんなことに期待していますか。おひとりずつ、お伺いしたいと思います。

北口さん

 最近、ワンルームマンションが増えています。建設会社を通じて入居者に町会のパンフレットを渡してもらっていますが、若い人はなかなか町会に入ってくれないのが残念です。もっと地域活動に関心のある人が増えてくれることを期待したいです。

丸井さん

 浪速地域はお年寄りが増えていて、1人暮らしの人も多いです。若い人がどんどん住みに来てくれて、地域の中で活躍してくれたら、にぎやかで明るいまちになると思います。

交野さん

 過去からいろんな人がこの地域に移り住み、逆にこの地域から外に出て活躍される方もたくさんおられます。最近は外国の方がたくさん住まれて、外国にルーツを持つ子どもも増えてきています。そこから、新たな地域コミュニティが生まれてくるんじゃないかと期待しています。

渡辺さん

 昔は子どもがたくさんいて、西浜の祭りでは太鼓を叩くのに抽選をしていました。もう1度、そういう活気のあるまちになってほしいです。それから、このまちには「人権・太鼓ロード」もありますので、多くの人に訪れてもらって、このまちのよさを発信していきたいです。この地域から出ていったメンバーにはもう1度、ここに戻って来て地域を盛り上げてほしいと思っています。

浅居さん

 コリアタウンは今、平日でも人がいっぱいです。土日はとてもじゃないけど歩けません。今では一大観光地になっています。

 うちにも「人権・太鼓ロード」があります。それをうまく活用したいです。

 今も各地の大学生などを受け入れていますが、他の地域から来てくれる人が増えることで、住んでいるだけでこの地域に愛着がない人にも愛着をもってもらえるきっかけになればいいなと思っています。

 引き続き粘り強くやっていきたいと思います。

区長

 古き良きものを継承しながら、人権文化の発信地にふさわしい、国際色豊かなまちとして浪速地域がますます発展していくことを期待しています。

 本日はありがとうございました。

浪速地域の歴史

江戸時代の「渡邊村」

 浪速地域は、もともと「渡邊村」と呼ばれていました。「渡邊村」という地名は、江戸時代になってから生まれましたが、その中心となる地域は、それ以前の戦国時代にすでに生まれていたそうです。それは、大川(昔の淀川)の北の岸ぞいにあった「渡邊の里」と呼ばれていた所です。渡邊の里は、昔から軍事や交通の中心だった所で、坐摩神社の神官をしていた渡邊氏を中心として「渡邊党」という武士団がつくられていました。ここには、清掃や武具などの皮革加工に携わる職人が住んでおり、こうした職人がのちの「渡邊村」につながると考えられています。

 1584(天正12)年、大坂の城下町建設のために坐摩神社が移転を命じられたことに伴い、清掃や皮革製品等をつくる職人たちも市内に移住することとなりました。

 その後、元和年間(16151624)に、天満や福島、渡辺など大阪各地に住んでいた皮革加工などに携わる職人たちが集められ、道頓堀南側の難波村領(今の浪速区幸町)に「渡邊村」が形成されました。

 その後も河川工事などの理由で野江(現在の京阪電鉄野江駅付近)、さらには西成郡七反嶋(今の西成区北西部)に替地を命じられ、ようやく木津村領内の堂面という字名の新田を中心とする土地(現在の浪速地域の一部)に落ち着くことになりました。木津村領への移住は1701(元禄14)年に決定されましたが、村ぐるみの移動であったため引っ越しにも時間がかかり、移動が完了したのは5年後の1706(宝永3)年のことでした。

 渡邊村では、幸町に位置していた元和年間(1615~1624)に12軒の皮革問屋が和漢革問屋の免許を与えられ、住居地が定まった1706(宝永3)年以降、皮革の集散地としての地位を確立していきました。

 17世紀後半の西廻り航路の開発とともに、瀬戸内航路を利用する皮革の流通もより活発化し、渡邊村の皮革交易の範囲は西日本全体に広がっていきました。九州・中国・四国の各地で生産された原皮のかなりの部分が渡邊村に送られたようで、年間10万枚を超える皮革が渡邊村に集められ、皮革問屋から大坂市中・江戸・名古屋などの諸国に皮製品として売られました。

 なお、江戸時代中期には渡邊村と薩摩藩知覧との間で獣骨の取引がありました。知覧では世界で初めて獣骨を骨粉肥料にし、農業生産に多大な貢献をしました。

太鼓づくりと皮革産業

 渡邊村では、皮を使った細工の仕事もしていました。特に、太鼓は大坂城や四天王寺の太鼓をはじめとして、日本全国にある多くの太鼓を作っていました。

 1881(明治14)年ごろの資料には、大阪では1年間に73000個の太鼓が作られ、そのほとんどが渡邊村で作られていたと記録されています。

 今、わたしたちが日ごろ履いている靴は、19世紀になってから、ヨーロッパやアメリカから伝わってきたものです。それまでは、ワラでつくった草履、竹の皮の表に裏皮をはった雪駄や下駄を履いていたと言われています。雪駄は竹皮を草履のように編み込んでつくった表をおし固めて、それに鼻緒をつけ、さらに裏皮をつけた履物です。雪駄の裏に皮を縫い付けるのは、雪の上や湿気の多い道を歩いても、水が表側までしみ出ないようにした工夫です。また、かかとの部分がすり減って早く傷むのを防ぐための工夫でもありました。

 また、今と同じように昔にも、動物の皮革で作った靴がありました。それは「綱貫沓(つなぬきくつ)」または「綱貫(つなぬき)」と言います。「くつ」には、「沓」という字を当てはめます。これには、「一枚の革に穴をあけてひもを通したもの」という意味があります。綱貫沓は、江戸時代後期に、農家の人々が冬の間、寒さを防ぐため中にワラシビ(稲わらのくず)を入れて履いていたと言われています。また、農家の人々だけでなく、大阪・京都などの都会では、魚屋や八百屋、商家に雇われている人たちも履いていたそうです。

 18世紀の初め頃、渡邊村には400人あまりの雪駄や綱貫沓をつくったり直したりする履き物職人がいたそうです。

 19世紀頃から、西洋式の靴の技術が日本にも入ってきたため、人々の履く物はそれまでのものから、少しずつ靴にかわってきました。綱貫沓や雪駄をつくっていた職人たちは、その技術を生かして靴づくりを始めました。

人権意識の目覚め

 渡邊村は皮革問屋をはじめ、皮革の仲買人、小売人、細工場の親方などが軒を並べ、住宅や店舗を構えていきました。

 皮革産業が発展していく中で、諸国から流入する者も多く、人口が増加してきました。しかし、人口が増加するのに対して、当時の狭い面積では住むことができず、19世紀初頭には村人の住まいは周辺地域へ拡大していきました。

 皮革産業の発展により、太鼓屋又兵衛や播磨屋五兵衛のような大金持ちが現れた半面、貧富の差がひらき、大多数の村人は貧しい生活を送っていました。

 江戸時代は、人が一個の人格として認められず、「百姓某」「町人某」というように、身分に絡みつけてしか考えられない世の中でした。日本で真の人権思想が確立するのは戦後、日本国憲法において基本的人権が明文化されて以降のことですが、渡邊村の人々は、それよりも遥か昔の江戸時代からすでに人権意識に目覚め、身分制度の不条理に立ち向かっていきました。

 渡邊村はやがて西濱、浪速(注)と地名を変えていきますが、住宅や医療、福祉などさまざまな生活面での改善に取り組むとともに、世の中における人権意識の向上を図る取組みを推進し、人権尊重の社会づくりをリードし続けています。

(注)「浪速」という町名は1962(昭和37)年から「浪速町西」「浪速町東」として使用が始まり、1980(昭和55)年に「浪速西」「浪速東」と変更されて現在に至っています。

地域の教育は、地域の力で

 近代日本の幕開けとなる明治時代に入ると、人々はまず、学校教育に対して素早い対応をとりました。

 江戸時代に子どもたちのために、読み・書き・そろばんを教えたのは、寺子屋です。渡邊村には「嘨虎堂(しょうこどう)」という名前の寺子屋がありました。1869(明治2)年、嘨虎堂には208人の生徒がいました。それは当時の渡邊村の子ども全体の4分の1から5分の1ぐらいにあたり、この頃から教育に熱心だったことがわかります。

 1871(明治4)年9月、小学校建設の願いを出し、許可されました。これは、大阪では2番目のことでした。そして、1872(明治5)年7月、徳浄寺を仮の教場に「西大組第22区小学校」として小学校を誕生させました。これが、現在の栄小学校の前身です。

 明治政府は、学制発布によって義務教育制度を作りましたが、校舎や教育施設は住民が負担しなければなりませんでした。人々は「地域の教育は、地域の力で」「地域に学校を作ろう」を合言葉に、学制発布の1年前には自分たちの手で校舎建設に取りかかりました。校舎を建てるために、当時のお金で2万円もの大金がかかったそうです。(この頃の1円の価値は今と全く違っており、当時のお米の値段は10キログラム0.55円とされています。ここから計算すると当時の2万円は今の1億円に相当します。)苦しい生活の中で非常に困難なことでしたが、皮革の商い高の80分の1を積み立て、1875(明治8)年に、レンガ造りの「日本三校の1つ」といわれる立派な校舎を完成させました。1889(明治22)年には当時の文部大臣の榎本武揚が小学校を視察に来たそうです。

 また、出来上がった校舎を維持するために、大便・小便を売却した代価を積立て、その利子で運営費を捻出しました。このように地域の人々の教育にかける期待は非常に大きなものがありました。

「西濱町」の誕生

 明治時代に入ると、行政区画や町名の変更が行われました。渡邊村は1872(明治5)年、栄町など9カ町に町名が改称され、1879(明治12)年には大阪市内から西成郡に編入されましたが、1887(明治20)年に栄町など10カ町を合併して西濱町となり、1897(明治30)年には大阪市(南区)に再び編入されました。

 西濱の人たちはその後、小学校の校舎が老朽化したため、1908(明治41)年に現在の浪速西公園のあたりに第2期校舎を建設しました。この時も、地域の人々が工事費の7割を負担して完成しました。

 また、1922(大正12)年に関東大震災が発生した頃、栄小学校の児童数が急激に増えており、校舎が狭くなっていました。人々は大震災の教訓を踏まえ、校舎の増築ではなく地震や火事に強い鉄筋コンクリート造りに建て替えることとし、新しい校舎を建てるために、小学校の土地を売ることにしました。町の建設委員や教員は、鉄筋コンクリート造りの校舎をもつ学校を大阪・京都、さらには東京まで見学しに行きました。1926(大正15)年、新校舎の建設にとりかかり、1928(昭和3)年に第3期校舎が完成しました。校舎建設にあたっては、地域から建設費や建設用の敷地、また動物の剥製標本などが寄付されました。

 1934年(昭和9)年に関西地方をおそった室戸台風は大阪に大きな被害を出しましたが、区内の19の小学校のうち、校舎がくずれなかったのは天王寺の小学校と栄小学校だけでした。この校舎はその後、小学校が移転してからも2020(令和2)年まで日本で初めての人権に関する総合博物館「リバティおおさか」として使われ、地域の人々に愛されました。

皮革のまち「西濱」

 西濱町の主要なものは皮革産業で、1918(大正7)年には就業者のなかで皮革製造業、皮革商、靴製造業など、皮革産業やその関連産業に従事する人は全体の半数以上にのぼりました。また下駄直しや靴直しなど履物修繕業に携わる人も多くいました。

 西濱町は大きな町でしたので、生活必需品はほとんど町の中で手に入れることができました。皮革職人たちは、「風呂は都で、酒はいでぎ、肴は夜店のてんぷらや」といわれるように、1日と15日の月二回の休日には、都湯で朝風呂に入り、いでぎという酒屋で一杯ひっかけ、夜店のてんぷらを買って帰りました。ときには近くにあった新世界をそぞろ歩きしました。また正宣寺の北通りには、毎晩露店の夜店が出てにぎわいをみせました。毎年721日と22日には坐摩神社(現在の浪速神社)の盛大な祭りがあり、8カ町から一基ずつの布団太鼓が出されて西濱の町内を練り歩き、他からの見物人も多く、町が一年中で最もにぎわいました。

廃墟となったまち、そして復興へ

 しかし太平洋戦争が始まると、人々は鉄鋼や石炭、軽金属、船舶、航空機など軍事産業にかかわる分野へ動員され、生活は極度に苦しくなりました。

 戦災復興土地区画整理事業は、浪速区では5つの工区において実施されることとなりました。浪速地域は「栄町工区」として、1950(昭和25)年に事業計画が認可され、1962(昭和37)年に完了しました。

 この事業により、広い道路やみどり豊かな公園が配置され、浪速北公園が1959(昭和34)年に、浪速中公園が1960(昭和35)年に、浪速南公園が1974(昭和49)年に整備・開園しました。

 戦前にいた有力な皮革関連業者は、工場が焼けたこと等のため他の地域に移り住みましたが、戦後もこの地域の主要産業は皮革産業でした。1970(昭和45)年ごろには、まち全体の7割の人が皮革の仕事に関わり、さらにそのうち7割の人が靴づくりの仕事に関わっていたそうです。

 しかし、次第に靴づくりは機械化されたり、皮革を使わないゴム靴が大量に生産されるようになり、手縫いの靴の注文はほとんどなくなっていき、皮革産業は徐々に衰退していきました。

 戦後、栄小学校の校舎の老朽化が進み、児童数も急激に増えたことで教室が足りなくなり、1975(昭和50)年、第4期の校舎が建設されました(現在の大阪府立難波支援学校・大阪府立なにわ高等支援学校)。大きな校舎で設備とともに「東洋一」と言われましたが、その後40年ほどの間に児童数が減少したため、2014(平成26)年1月に、もと浪速青少年会館の場所に移転しました。この第5期の校舎が現在の栄小学校です。

 また、今宮駅周辺はミナミに近接し、利便性に優れた立地条件を有しているものの、関西本線と環状線が合流し、盛土構造の広大な鉄道敷がエリアを分断するなど、地域の発展の妨げになっていました。そこで、今宮駅とJR難波(旧湊町)駅の間の鉄道立体化事業の実施を契機に、駅前が整備されることになりました。1994(平成6)年6月に環状内回り線の立体化が、1996(平成8)年3月には関西本線今宮・JR難波(旧湊町)間の立体化が完成し、翌年3月に環状外回り線の立体化と今宮駅の大阪環状線ホームの使用が開始されました。また、盛土を取り除いて今宮駅前の整備が行われました。

伝統・文化を継承しながら、新たなまちづくりに期待

 浪速地域はこれまで、300年の歴史を有する皮革のまち、太鼓のまちとして発展してきました。

 2002(平成14)年、JR芦原橋駅から南へ、新なにわ筋を中心に皮や皮革、太鼓に関連したモニュメントや標識を設置し、人権文化に満ち溢れたまちにすることを目的に「人権・太鼓ロード」が作られました。

 また、1987(昭和62)年に、世の中の全ての差別に怒りをという想いから、浪速地域の青年たちが中心になって結成した太鼓集団「怒(いかり)」も、力強い太鼓演奏で人々を魅了し続けています。

 近年、JR芦原橋駅前を中心に、住宅地としての開発や多国籍化が進んでいます。

 世界に誇れる太鼓づくりの歴史や伝統芸能の継承とともに、人権文化の発信地にふさわしい国際色豊かな新たなまちづくりへの期待が高まっています。

年表 

  • 宝永  3年(1706年) 渡邊村、浪速地域に定着
  • 明治  5年(1872年) 西大組第22区小学校創立(今の栄小学校)
  • 明治18年(1885年) 新田長次郎が皮革工場を設立(新田帯革製造所)
  • 明治22年(1889年) 大阪鉄道(現JR関西本線)湊町柏原間開通
  • 明治30年(1897年) 第1次市域拡張。西浜町を市域に編入
  • 明治32年(1899年) 大阪鉄道今宮駅(現在のJR今宮駅)開業
  • 明治33年(1900年) 高野鉄道(現南海高野線)汐見橋堺東間開通
  • 大正  4年(1915年) 市電西道頓堀天王寺線(桜川2丁目―芦原橋―大国町―恵美須町―天王寺西門)開通
  • 大正11年(1922年) 西濱水平社創立 
  • 大正14年(1925年) 浪速区創設
  • 昭和 2年(1927年) 阪堺電鉄が芦原橋―三宝間開通(昭和19年に市電が買収、市電阪堺線)
  • 昭和  3年(1928年) 今宮駅浪速駅(臨港線)開通(貨車専用線)
  • 昭和  9年(1934年) 室戸台風襲来
  • 昭和20年(1945年) 爆撃により区域の約93パーセントが消失。終戦 枕崎台風襲来
  • 昭和25年(1950年) ジェーン台風襲来、戦災復興土地区画整理事業の設計認可(栄町工区)
  • 昭和31年(1956年) 芦原診療所開設(のちに芦原病院) 
  • 昭和34年(1959年) なにわ筋開通
  • 昭和36年(1961年) 大阪環状線開通、第2室戸台風襲来
  • 昭和37年(1962年) 戦災復興土地区画整理事業の完了(栄町工区)
  • 昭和41年(1966年) 芦原橋駅設置 
  • 昭和43年(1968年) 市電西道頓堀天王寺線(桜川2丁目天王寺西門)廃止、市電阪堺線(芦原橋―出島)廃止
  • 昭和44年(1969年) 十三間堀川を埋め立て高速道路整備 
  • 昭和46年(1971年) 浪速消防署浪速出張所完成 
  • 昭和49年(1974年) 浪速老人センター開館
  • 昭和50年(1975年) 浪速解放会館開館(のちに浪速人権文化センター)
  • 昭和54年(1979年) にしはま荘設立 
  • 昭和55年(1980年) 浪速青少年会館竣工
  • 昭和59年(1984年) 浪速障害者会館「熱と光の家」開館
  • 昭和60年(1985年) 大阪人権歴史資料館開館(のちに大阪人権博物館「リバティおおさ か」)
  • 昭和62年(1987年) 太鼓集団「怒」結成
  • 平成  8年(2008年) 関西本線今宮―JR難波(旧湊町)間立体化鉄道運転開始
  • 平成  9年(2009年) 今宮駅の大阪環状線ホームを設置
  • 平成14年(2002年) 人権・太鼓ロード完成

浪速地域の史跡と名所

浪速玉姫公園(浪速東3丁目13番)と太鼓屋又兵衛

 浪速地域は昔、渡邊村と呼ばれ、皮革産業が栄えました。なかでも大阪城の時太鼓(ときだいこ)や四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)の火焔太鼓(かえんだいこ)など多くの歴史的由緒のある太鼓の張替えも御用として担うなど、日本の伝統芸能や文化を支え発展させてきた太鼓職人が住み、太鼓づくりの技術を発展・継承してきました。

 玉姫公園は、桜やケヤキ(太鼓の胴となる)が茂る、約1000(3300平方メートル)の公園です。もとは太鼓づくりで財をなした「太鼓屋又兵衛」の屋敷跡といわれています。屋敷跡をイメージし白壁と門が配置されています。

 「太鼓屋又兵衛」は江戸時代を通じ、太鼓の全国ブランドとして知られていました。「太鼓屋」の屋号は1616(元和2)年に大阪城の時太鼓を作った渡邊村の平八がその功労によって屋号を許されたことに始まると伝えられています。「太鼓屋又兵衛」の名は平八の子孫が代々「又兵衛」を受け継ぎました。1800年前後に活躍した「又兵衛」は皮革問屋としての地位を築き、また幕末に活躍した「又兵衛」は、稀なる商才を発揮し、太鼓作りに加えてそれまで特権を持った皮革商人に限られていた皮革の取引に事業拡大し、時には朝鮮半島まで皮を買い付けに行ったとも言われ、莫大な財産を蓄えました。



浪速玉姫公園の写真(1)


浪速玉姫公園の写真(2)

仲覚兵衛(なかかくべい)と渡邊村

 仲覚兵衛は、骨粉肥料の取引で財をなした江戸時代中期の知覧(薩摩藩/鹿児島県)の海運商人で、渡邊村の皮革問屋である岸部屋六兵衛から獣骨を取引し、獣骨を砕き農業肥料としたと記録にあります。

 覚兵衛は、交易の途中の停泊地の草原でほぼ同じ位の背丈に草が生い茂るなかに1ケ所、土が盛り上がった場所があり、その上に茂る草は周りと比べてひと際背が高いことに気がつきました。掘ってみると獣骨が埋まっていたため、その獣骨を自宅へ持ち帰り調べた結果、肥料として極めて効果があるがわかったと伝えられています。このことは世界で初めての発見でした。

 その後、薩摩の特産の一つ菜種栽培を増進させ、藩の財政再建の一翼を担ったことで知覧領主島津久邦から苗字帯刀を許されたとされています。

浪速神社(浪速西3丁目10番)

 大阪市中央区に鎮座する「坐摩神社」の末社として、坐摩大神(いかすりのおおかみ)を祭神としています。

 大祭として、元旦祭・春祭・夏祭・秋祭が催行され、夏祭の72122日にはふとん太鼓の巡行が賑やかに行われます。



浪速神社


浪速神社夏祭りのふとん太鼓の様子(令和6年撮影)

新田帯革製造所

 愛媛の農村出身の新田長次郎は、1885(明治18)年、浪速地域に皮革工場を設立し、工業用ベルトを中心に成長しました。

 また当時、長次郎は家計を助けるために働いて学校に行けない子どもたちのために、1911(明治44)年に有隣小学校を開校し、後にすべてを大阪市に寄贈しました。現在株式会社ニッタとして浪速区内に本社を置いています。

正宣寺と中江兆民

 この地域には昔、正宣寺・徳浄寺・阿弥陀寺と呼ばれる3か寺があり、教育・文化の中心としての役割を果たしてきました。

 特に正宣寺には、東洋のルソーと呼ばれた明治時代の自由民権運動の思想的指導者中江兆民がよく来て活動拠点として利用したといわれています。

 中江兆民(1847(弘化4)から1901(明治34)年)はフランスのジャン=ジャック・ルソーを日本に紹介した思想家で、1888(明治21)年に大阪で創刊した東雲(しののめ)新聞の主筆を務めました。1890(明治23)年の第1回衆議院議員選挙には浪速地域の有力者の応援を得て大阪4区から出馬し当選しました。

「西濱水平社発祥の地」の碑(浪速東3丁目3番)

 1922(大正11)年3月、部落差別の撤廃をめざして全国水平社が京都の岡崎公会堂で創立されました。大阪でも水平社結成の動きが強まり、同年8月に「西濱水平社」が結成され、後に全国水平社の本部も置かれました。

 1983(昭和58)年、西濱水平社60周年を記念して、本部が置かれていた栄町4丁目(現在の浪速東3丁目の公園の一角)に、平和・人権の確立とあらゆる差別撤廃の誓いをあらたにする顕彰碑が設置されました。


「西濱水平社発祥之地」の碑

太鼓集団「怒(いかり)」

 浪速地域の青年たちが中心となって、1987(昭和62)年10月に結成された和太鼓集団。世の中の全ての差別に怒りをという想いから、太鼓集団「怒」と名付けられ、「平和と人権」の大切さを人々の感性に訴えるべく活動しています。

人権・太鼓ロード

 浪速地域は、「渡邊」「西浜」「浪速」と変遷し、300年の歴史を有する「皮革のまち」「太鼓のまち」として発展してきました。JR芦原橋駅から南へと、新なにわ筋を中心に、皮・皮革・太鼓に関連したモニュメントや標識を設置し、人権文化に満ち溢れたまちにすることが2002(平成14)年に完成した「人権・太鼓ロード」の目的です。

 皮革・太鼓モチーフをデザインに生かしたり、高齢の人や障がいのある人などすべての人々が不便なく利用できるよう、設置位置や大きさ、高さ、案内表示の方法などに工夫がされており、7カ所に設置された歩行者案内板には、太鼓に込められた作り手の想いや職人の誇りを身近に感じ、また理解してもらえるよう太鼓づくりの過程や歴史、社会のさまざまな場面で登場する太鼓のようすが紹介されています。
大阪シティバス芦原橋駅前の写真

屋根が太鼓を模したデザイン

大阪シティバス芦原橋駅前の写真

ベンチも太鼓のデザイン


芦原橋駅前の電話ボックス 上部に太鼓のデザインが施されている

西栄緑道と4組の銅像

 もと大阪人権博物館(リバティおおさか)のあった場所の北側にある西栄緑道(にしさかえりょくどう)内に4組の銅像が設置されています。太鼓づくりが浪速地域の主要な地場産業のひとつであり、全国的に知られた太鼓の生産地であったという歴史的な意義を表現するとともに、まちを訪れる人々に様々な太鼓を具体的な形で紹介しています。


西栄緑道の銅像(写真以外に3組が設置されている)

「大阪人権博物館(リバティおおさか)」

 1928(昭和3)年、第3期栄小学校校舎として建築された建物の一部を活かし、1985(昭和60)12月に大阪人権歴史資料館として開館し、1995(平成7)12月には大阪人権博物館としてリニューアルオープンしました。

 日本ではじめての人権に関する総合博物館として部落問題・女性問題・障がい者問題・民族問題・環境問題など人権に関する歴史資料を収集保存・公開し、人権思想の普及と人間性豊かな文化の発展に貢献することを目的に運営され、2020(令和2)年5月の閉館まで「リバティおおさか」として多くの方々に親しまれました。

参考資料

  • フィールドワークガイド「人権・太鼓ロード」

  • 「栄小学校創立150周年記念誌」

  • 「わたしたちの町「なにわ」」

  • 「浪速のあゆみ」

  • 「渡辺・西浜・浪速」 など

(注)この記事は地域の語り部の方々の発言をもとに作成しております。歴史考証はしておりませんので、予めご了承ください。

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