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本場の沿革

2018年12月28日

ページ番号:2947

 生鮮食料品の市場が形成されたのは、豊臣秀吉が大坂城を築城した頃からであり、それ以来発展し、昭和の初期まで盛況を呈した大阪の名高い市場として、天満、ざこば、靱、木津、難波などがありました。

 第一次大戦が終わった大正7年頃は、経済情勢が不安定であったため、物価への影響を危惧した本市は、大正7年4月に公設小売市場を設置し、日用品の廉売と物価の安定を図った。同年7月に起きた「米騒動」は、国民の食生活に影響が多大であったことから、国においてもその対策を検討することになり、本市の公設小売市場の設置に刺激され、生鮮食料品の取引の正常化、適正な価格形成を目的として、大正12年3月に中央卸売市場法を制定されました。

 本市においても、市民の食生活安定のために公設小売市場の親市場として、中央卸売市場の開設が必要であると判断し調査委員会等を設置し、検討を重ねました。その結果、水陸運ともに至便な福島区野田を最適地として決定し、全国に先がけて大正14年3月に国の認可を得て着工し、当時東洋一を誇る堂々たる総合市場として、昭和6年11月11日に現在の中央卸売市場(本場)が敷地面積約126,000平方メートルで開場しました。この開場と同時に従来から繁栄していた私設卸売市場については、中央卸売市場にほとんどが収容され、開場後1年間(昭和7年)の取扱量は39万トンに達しました。

 また、第二次大戦終戦直後の統制中は、生鮮食料品の集荷配給機関として本来の市場機能を一時中断したが、統制の解除とともに、昭和25年5月から仲買制度の復活など再び本来の市場の姿に戻り、取扱量も45万トンまで回復しました。

 昭和39年には、本場の取扱量も開場当時の2倍強の82万トンを超え、その後も毎年1割近くの増加を示し、昭和45年に120万トンに達したことから、取扱量の増加や自動車輸送の激増に対処し、また、老朽施設の改善と狭あい・過密打開のため、拡張整備事業(現在の市場西棟)を実施し、昭和50年 11月に果実・乾物等の部門を、昭和51年2月に漬物売場をそれぞれ移転しました。

 しかし、本場開場から60年余を経て、施設の老朽化が著しく、耐震構造の施設への建替えや、生鮮食料品等にかかる流通環境の変化や多種多様な消費者ニーズ、情報化の進展への対応が求められていたことから、食品流通の基幹的役割を充分果たすことができる機能を有するとともに、環境対策や衛生面に配慮した廃棄物の処理施設等を備えた近代的な市場をめざし、平成元年度より抜本的な施設整備事業に着手しました。平成4年9月に業務管理棟が竣工し、その後引続き市場棟(現在の市場東棟)及び関連棟の工事を進め、足かけ10年に及んだ現地建替が平成14年11月に完成した。現在、更なる物流機能の強化を図るため、平成15年6月から配送加工棟の整備に努め、平成16年7月に竣工しました。

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大阪市 中央卸売市場 本場業務管理グループ

住所:〒553-0005 大阪市福島区野田1丁目1番86号(業務管理棟15階)

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