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再発見!すみよし文化レポート その14

2015年2月28日

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再発見!すみよし文化レポートその14 藤澤桓夫邸「西華山房」跡顕彰碑デザイン 中村 正樹(なかむら まさき)さん

住吉区で文化的・歴史的活動をされている個人や団体に活動内容や住吉の魅力についてお話を聞いていきます。

 

時間の厚みがまちの魅力をつくる 住吉=Amenity(アメニティ) 中村 正樹さん

  住吉区に住んだ作家・藤澤桓夫は、戦前から執筆を始め、多くの作品を生み出し「大阪文壇の長老」と呼ばれました。上住吉にあった書斎「西華山房(せいかさんぼう)」は、単に藤澤氏の書斎であるだけでなく、庄野英二などの友人や、多くの作家、文化人が訪れ、司馬遼太郎、田辺聖子などを中心とした大阪文学の発展にも寄与した、大阪文化のサロンであったとも言えます。藤澤氏没後25年、生誕110年を記念して、かつて西華山房があった地に、藤澤氏初めての顕彰碑が設置されました。今回は、藤澤桓夫邸「西華山房」跡顕彰碑をデザインした区内在住の建築家・中村正樹(なかむら まさき)さんに、顕彰碑への思い、藤澤氏を初めとした文化人を通して見る住吉の文化、建築を通して見るこれからの住吉についてお伺いします。

西華山房との出会い


往時の西華山房全景


西華山房の鳩の棟飾り

―藤澤桓夫邸「西華山房」跡顕彰碑をデザインすることになった経緯を教えてください。

 元々、私は小さい頃から藤澤邸の近くに住んでいました。藤澤邸は熊野街道に面し、高い塀の中に、うっそうと木が茂った邸宅風のお家があるなあと子ども心に思ったことを憶えています。母にその邸宅が誰の家か尋ねると、「藤澤さんっていう偉い作家の先生のおうちらしいで。」との答えでした。一時住吉から離れて約10年間程ニュータウン生活をしていましたが、10数年前に住吉区に戻ってきました。しばらくして「すみ文」(すみぶん・住吉文化事業実行委員会のこと、平成21~23年度に住吉区の蔵や文化人に関するDVDの制作、展覧会の開催を行った)の活動を知り、その手伝いを始め、DVDを作成する時に、住吉にゆかりのある文化人の一人として藤澤氏について取材し、撮影の際に初めて藤澤邸、西華山房に入りました。

 

―西華山房との出会いはその時なんですね。

 はい。西華山房が小出泰弘(こいでやすひろ)さん(画家小出楢重の長男)の設計とはその時は知らなかったんですが、一目見て建築的にもおもしろい建物に、興味を持ちました。当初は塀の向こうの藤澤さんでしかなかったのですが、すみ文での活動を通じて、元中央図書館副館長の高橋さんからも藤澤氏初め、大阪の文学界についての知識をもらい、身近に感じるようになりました。一昨年末に西華山房が移築されるのか、壊されるのかという話を聞き、静観するしかないのかと見守りながらも、大きな気掛かりの一つでした。西華山房は住吉にあった大阪文壇のサロンとして位置づけられていた場所とのことで、それが無くなるのは残念だと思いました。結局、建物の一部が敷地の一部に曳家され、まちの姿は大きく変貌しました。あくまでも西華山房は個人の持ち物なので、勝手な話なのかも知れませんが「建物がかわいそう、なんとかならないか」と考えていたところ、高橋さんや大阪市のHOPEゾーン事業担当から「西華山房について何かやりたい、中村さん一緒にやりませんか?」と誘われました。地元のひとりとしての思い入れを高橋さんたちに散々話していたので声をかけていただいたのだと思います。相談があってすぐに協力したいと思い、その提案に乗りました。今まで藤澤氏の文学碑などはどこにもなかったので、藤澤家の方もやってみようと思われたのでしょう、すぐに動き出しました。

 

―どのような顕彰碑をデザインされたんでしょうか?

 今回設けた顕彰碑には、顕彰板のほか西華山房にもあった鳩の飾りがあります。顕彰板と対で設けた道標にも同じようにあります。西華山房の持つ魅力やメモリーを少し残しました。地元にも愛され見守っていただきたいです。

 

―なるほど。西華山房の魅力とはどのような魅力ですか?

 西華山房は、文学、建築、それぞれの面からの魅力があります。建築というのは、その建物の中での生活や活動があって初めて、まちの中で生きてきます。単なる書斎であったり、建築物として興味深い形であったりしただけではなく、文化サロン的役割などのいろんな面が重なり合い、「住吉」のその場所にあったことが西華山房の魅力です。西華山房がある場所は、摂津名所図会との関わりもあり、歴史的に見ても意味ある場所です。さらに、昭和の時代には藤澤氏により文化サロン的意義をもった場所になりました。

外のまちを見て、地元・住吉に目を向ける


「西華山房」跡顕彰碑完成予想図

―中村さんは、とても住吉という土地や場所について考えておられますが、自分の地元である住吉に目が向いた理由は何でしょうか?

 10年間程のニュータウン生活を除けば、生まれも育ちも住吉の古いまち、いつの頃からか建築家として独立するなら地元住吉でと思うようになっていました。住吉は、私にとっては住吉大社以上でもそれ以下でもなく、敢えて言えば、大学生まで昔ながらの古い町家に住んでいて、近所に池田屋味噌のほか町家や長屋があり、それが「住吉」だと思っていました。若かりし頃は建物を残そうとか活かそうとかという考えとは少々無縁なところにいました。自分の足元には目がいかなかったんですね。外の仕事をしたり、他の地域の人と接すると、その場所に強い思いを持つ人に出会います。あちらこちらで、住吉の外のまちを見ていたら、自然と自分のまちに目がいったんです。そんな時にすみ文に関わりました。もっと住吉のことを勉強して役に立ちたいと思いました。

 

―住吉を知りたい、住吉の役に立ちたいと思ったきっかけはありますか?

 もともと問題意識はありました。昔から比べると、住吉の現状は良くないと思います。まちづくり、人の在り様、空き家の問題など含めて、その傾向が顕著な地域だと思います。建築の観点からよく言われるように、まちなみ景観を昔風に整えることにも個人的には問題意識を持っています。建築以外の活動にいろんな膨らみを持たせるきっかけになったのは、すみ文です。すみ文の活動のひとつであるDVD制作の為に、私の実家へすみ文のメンバーの方が取材に来られました。「おもしろいことしてるな」と思いながら、メンバーの方に紹介してもらいました。そこから、すみ文、すみ博、と活動が広がりました。同じ頃、大阪市のまちづくり担い手講座にも参加し、人の輪ができていきました。

 

―そうして、人の輪が出来て、活動の広がっていったんですね。

 はい。「地元の役に立ちたい」と思ったり、「これはよくないな」と思うことがあったり、自分ならこうするなと思ったりしていました。建築、デザインに関わらず、広く役に立つことがあればと思いました。住吉に戻ってきてすぐ、子ども会の会長をしたり、地域の方々と顔を合わせていろいろなことができました。餅つき大会を、すみよし村ぎゃらりー(住吉福祉会館)の裏の広場でやったりしました。家族には「地元べったりやね」と言われています。以前から考えると、これは想像できない意外な展開です。良かったと思っています。地元での活動はおもしろいですね。いろんな人のいろんな考えがあって、自分の力がどこまで影響力があるかは疑問ですけれども、いくらかは貢献できているかと思っています。大げさに言えば、「残りの人生、住吉に捧げます」ってところでしょうか。(笑い)。

建築家としての地域への貢献

―今回は顕彰碑のデザインという、建築家ならではの地域貢献をされていますが、プロの建築家としての中村さんと、地域で活動する中村さんの活動は切り分けていますか?

 プロの建築家としてみたら、デザインや設計をした際に、お金を頂く場合と頂かない場合があるのはおかしいと思いますが、正直に言うと、あまり深くは考えていません。協力できることは協力して、今まで見落としていた地元との関わりをもう一度作るために、地元の役に立ちたいという意味でやってきました。好きが高じてやっている、というところがあるから営業性には乏しいですね。ポスターデザインなどのグラフィカルなことなどモノづくりも、おもしろいからやっているところがあります。大げさかもしれませんが、世の中に出回るデザインが少しでも足元から改善されて、良いものが全体に占める割合が50%から60%、70%と増えていけば、みんなの見方や動きも自然に少しずつ変わるのかなと思います。

 

―デザインや設計のほかに、建築家としてのスキルを地域への活動に活かせている場面はありますか?

 私は、何か活動をするときには、ロジカルでないといけないと思っています。感情の思いだけで前に出るのは無理があり、どこかで崩れると思っています。熱意が前に出すぎるとうまくいきません。しっかりとした組み立てや論理が、まちづくりのハード面にもソフト面にも重要です。熱い思いはちょっと横に置いておいて、実際の運営はロジカルに進めます。建築家は、デザインはインスピレーションで描くかもしれませんが、その後にロジカルに説明し、組み立てていきます。閃きだけでは駄目なんですね。「こういう理由でこうだから、こうしました」と説明しなくてはいけません。このような発想はどんな場合でも必要だと思います。

 

―閃きとロジックと、両方が必要なんですね。

 建築家にもいろんなタイプの人がいますので、デザインの方向性をどんどん変えていくひと、最初からいくつか同時進行で進めていくひと、ずっと同じ方向性で進めるひともいます。大事なのは、しっかりとした組み立てです。どこかで発想を切り替えたり、元に戻ったりするのは、熱い思いがあるからです。一見、あっちこっち遠回りしていても、組み立てはしっかりしていなければなりません。


楽しそうに語る中村さん

時間の厚みがつくるまちの魅力

―建築家ならではの視点があるんですね。中村さんから見て、住吉というまちの魅力はなんでしょうか?

 住吉には歴史的な町家、大大阪時代の長屋、洋館、そして蔵などがあります。つし二階(注意1)の古い町家の隣には、銅板軒蛇腹(注意2)にタイル貼りの昭和期の長屋が重なっています。そこに今また、何か「新しいもの」を作らないといけないと思います。住吉の現状は決して良いとは言えませんが、全てに時間が重なり「時間の厚み」が出ればいいまちになると思います。住吉にはそういう魅力があります。時代が違う建物が重なり合って魅力となる、古い歴史的なもののすぐ隣に、まちに気配りのされた新しい平成ものがあってもおかしくない、そういう「答え」があるはずです。

  • 注意1 つし二階は、「厨子二階」と書き、江戸から明治にかけて建てられた、2階の天井が低い町家の様式。主に物置や使用人の寝泊りに使われ、その部分に漆喰で塗り込まれた(虫籠のような形の)虫籠窓【むしこまど】などが多く設けられた。
  • 注意2 建物の屋根の軒下部分に帯状に取り付けた突出物を軒蛇腹といい、軒下に蛇腹状に取り巻き突出した装飾で、銅板で覆われたものを指す。

―その「答え」のために、顕彰板はどんな役割を果たしますか?

 今回の顕彰板はその場所にあるメモリーを具現化するだけではなく、メモリーを付随させた、古いものだけにこだわらない新しいまちに合ったデザインにしました。これからのことを考えた時に、劣化したまちではいろんなことに太刀打ちできません。次世代を迎えるのには、今までにない「新しいもの」が必要です。今までの「新しいもの」は古いものへの配慮ができていない、どこのまちにあってもいいものであったりします。そのまちと反目したデザインでした。そうではなく、歴史的な古いものと、そこから少し時代が下がったものとがミックスしているまち、これが住吉の魅力です。顕彰板は新たに付加する「新しいもの」のひとつであってほしいと思います。

 

―西華山房がその場所にある意味を踏まえて、顕彰碑をデザインされたんですね。

 顕彰碑の意味、建物としての西華山房、文化サロンとしての西華山房、その前後の時代、トータルで見た意味を考えました。敢えて歴史的風情を出すデザインは避けました。住吉のまちは古いものだけあればいいのではなく、新しく良いものを作って、古いものとミックスする必要があります。そう考えて、モダンなデザインの顕彰碑にしました。

 

―中村さんは、住吉をどんなまちにしたいと思いますか?

 住吉はおもしろいまちです。ただ、もっとすごいところは他にもたくさんあります。住吉には絶対と言えるものがありません。ありふれてはいますが、住みよい「住吉」にしたいと思います。住吉には日本の問題が凝縮されたような部分があります。地域の個別の活動を見ていると、人を呼び込んだりいろいろなことをしたりしているけれども、いろんな人が住んで住みやすくて楽しいことが一番大事だと思います。以前に、私の建築の師の話で「全国にたくさん住吉というまちがある。『住吉』にはどんな意味があると思う?英訳すれば僕はまさしく『Amenity(アメニティ)』だと思うよ。」と聞かされました。「住吉」を「昔からその場所には人が住みやすく、どんどん人が集まり、生活のうえでの条件も整い、楽しいところ、まさしく『アメニティ』だ」と説明されました。この言葉が今でも私の脳裏に刻まれています。


平成27年3月15日二開催される藤澤桓夫邸「西華山房」跡顕彰碑完成記念イベントチラシ


中村 正樹(なかむら まさき)
住吉区在住、建築家 
住吉文化事業実行委員会委員、すみよし博覧会実行委員会委員
住吉生まれで住吉育ち、住吉幼稚園・住吉小学校・住吉中学校に通い、
「江戸末期頃までは今の住吉の地での系譜をさかのぼることができたり・・」と言いながらも、
やっと最近になって「住吉」の魅力の発掘・記録・情報発信などの重要性に傾倒し奮励努力中です。

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