報道発表資料 史跡難波宮跡附法円坂遺跡発掘調査の現場を一般公開します
2024年11月15日
ページ番号:457743
問合せ先:大阪市教育委員会事務局総務部文化財保護課(06-6208-9069)、大阪市経済戦略局文化部文化課(06-6469-5170)、公益財団法人大阪府文化財センター調査課(072-299-8791)
令和6年11月15日 14時発表
大阪市教育委員会・大阪市経済戦略局と公益財団法人大阪府文化財センターは、令和6年10月から実施してきた史跡難波宮跡附法円坂遺跡(しせきなにわのみやあとつけたりほうえんざかいせき)の発掘調査の成果を市民に紹介するため、令和6年11月19日(火曜日)に発掘調査の現場を一般公開します。
今回の発掘調査は、平成25年(2013年)に国の史跡に追加指定された東方官衙地区(とうほうかんがちく)において、遺構の分布状況を確認するために実施しています。以前、当該地区北半部での発掘調査で見つかっていた前期難波宮の建物群の区画の南への広がりを確認しました。現地公開の開催について
1.日時:令和6年11月19日(火曜日)13時~16時
(注)小雨決行(開催時間までに大阪府下に暴風または大雨警報が発令された場合は中止とします。)
2.場所:難波宮跡発掘現場(大阪市中央区法円坂1丁目5 後期難波宮大極殿復元基壇から東へ約200メートル)
- Osaka Metro 谷町線・中央線 谷町四丁目駅から東へ約700メートル
- JR大阪環状線 森ノ宮駅から西へ約650メートル
3.内容:前期難波宮の遺構の公開および配布資料による解説
4.問合せ:大阪市教育委員会事務局文化財保護課(担当:鈴木 電話番号:06-6208-9069)
調査の概要
調査地は、難波宮跡のなかでも東部に位置する東方官衙地区の南半部にあります(図1)。この地区の北半部ではこれまで掘立柱の回廊によって区画された空間(図1・3-区域1)や、その東の掘立柱塀で区画された倉庫を含む掘立柱建物を整然と配置する建物群(区域2)などが見つかっており、宮殿の中心部にある内裏や朝堂院といった天皇の居住空間や儀礼空間に対して、宮殿の実務機能を担った官衙(役所のこと)が置かれた地区と考えられています。
今回の発掘調査は、平成25年(2013年)に国の史跡に追加指定されたこの東方官衙地区の南半部において、以前に北側の敷地での発掘調査で見つかっていた前期難波宮の建物群の区画の南への広がりなど、これまで明らかでなかった遺構の分布状況を確認するために実施しています。調査の成果
今回の調査では、前期難波宮と後期難波宮の2時期について新たな発見がありました。
1)前期難波宮
これまでのところ、前期難波宮の段階と考えられる柱穴を14基確認しました(図2)。いずれも一辺が1.2メートル程度の方形の穴で、2基をのぞいて南北方向にほぼ等間隔で並んでいます。後期難波宮に関連する小石敷き遺構が上を覆っていて部分的にしか確認できていない柱穴もありますが、この2列の柱列は回廊に復元できると考えられます。今回の調査地の北側で行われた第30次調査や第80-9次調査では、回廊や塀で区画された建物群が見つかっており(図3)、特に今回確認した柱列は第80-9次調査で見つかった区域1の南北方向の回廊につながる可能性があります。また今回の調査地の西側で行われた第08-3次調査(北1区)では、東西方向の柱列も見つかっており、今回確認した柱穴の中にはそれにつながる可能性をもつものもあります。
また、今回の調査地では、北半部中央の建物群(区域2)の西を限る掘立柱塀が上記の回廊とともに延びてきていると予想されましたが、それは検出されなかったことから、区域2の範囲は今回調査地よりも北でまとまりを構成していたと考えられます。
2)後期難波宮
調査区の南側では、前期難波宮の段階と考えられる地面の上を覆う地層に、直径3~5センチメートル大の小礫が多く含まれていました。後世の攪乱を受けており、当時の状態がそのまま残っているものではないと考えられますが、今回の調査地の西側でこれまでに実施された第02-13次調査や第12-3次調査などでは、後期難波宮の段階に地面に小石を敷き詰めた遺構が確認されており、今回見つかった地層もこれに関連する可能性があります。
今回の調査の意義
今回の調査で特に重要と考えられる成果は、前期難波宮の東方官衙における区画の南への広がりが確認できたことです。
東方官衙北半部の西寄りにある区域1は、今回の調査地まで広がり、さらに南へと続くことが明らかになりました。西側の第08-3次調査(北1区)で見つかっていた東西方向の掘立柱塀はこれまで具体的な位置づけができておりませんでしたが、区域1の東を限る回廊に取り付き、第30次調査で見つかっている東西方向の掘立柱塀と同様の性格をもつ区画施設の可能性があります。この成果によって、区域1は南北100メートル以上、東西55メートル以上で、5500平方メートル以上の面積であると想定されます。
以上の成果に加えて、前期難波宮の区域2の南限を推定する手がかりが得られたことや、状態はあまり良くはありませんでしたが、後期難波宮の小石敷の空間の広がりが確認できたことも、今後東方官衙地区の構造を解明していくうえで重要な資料となると考えられます。
用語解説
難波宮跡(なにわのみやあと)
難波宮跡は、大阪市の中央を南北に貫く上町台地の北端部に位置し、大化元年(645年)12月の難波遷都から延暦3年(784年)の長岡京遷都までの約150年間にわたって我が国の古代史上に大きな役割を果たした宮殿の遺跡である。昭和29年(1954年)以降、約70年の継続した発掘調査により、飛鳥時代(7世紀)の前期難波宮と奈良時代(8世紀)の後期難波宮という2時期の宮殿遺跡が重なって存在することが明らかになっている。こうした成果から昭和39年(1964年)には国の史跡として指定され、以後の追加指定を含めて合計7次にわたって約 14.5 万平方メートルが指定された。平成13年(2001年)の第4次指定の際に5世紀の法円坂倉庫群(ほうえんざかそうこぐん)も含めて「難波宮跡附法円坂遺跡」に指定名称が変更されている。
これらの宮殿の造営以前からも、古代の難波は海外に開けた港である難波津を擁し、先進性や国際性に優れた特質によってわが国の外交に重要な役割を果たしてきた。こうした古代難波の特質は現在まで受け継がれており、まさに都市大阪の出発点と言える。
前期難波宮(ぜんきなにわのみや)
重なった2時期のうち下層の宮殿遺跡。孝徳朝に造営された難波長柄豊碕宮が天武朝まで存続して朱鳥元年(686年)に焼失したと考えられている。大化改新と呼ばれる新しい政治の舞台として、天皇が着座して重要な政務・儀式を行う、後の大極殿(だいごくでん)に相当する内裏前殿(だいりぜんでん)と、その南側には官僚が政治を行う広大な朝堂院(ちょうどういん)がつくられ、藤原宮や平城宮に先立つわが国で最初の本格的な宮殿であることが明らかとなっている。
後期難波宮(こうきなにわのみや)
前期難波宮が焼亡した後、神亀3年(726年)から聖武天皇によって造営が始められた上層の宮殿遺跡。前期難波宮と同じ中心軸の上に建てられている。大極殿や朝堂院など中心部の建物は瓦葺き、礎石建ちが採用されている。大極殿院や朝堂院に葺かれた重圏文軒瓦は、他の古代宮殿や寺院に用いられた蓮華文・唐草文軒瓦と比較して特徴的な存在である。延暦3年(784年)の長岡京遷都に伴って廃された。
東方官衙(とうほうかんが)
南北約750メートル、東西約650メートルと推定される難波宮跡のうち、東部に位置する官衙(役所のこと)。北半部では掘立柱塀で区画された倉庫を含む掘立柱建物を整然と配置する建物群や、その西の回廊によって区画された空間、東北部の回廊に囲まれて楼閣風の建物をもつ空間も見つかっている。今回発掘調査を実施した南半部は、試掘調査によって良好に柱穴等の遺構が残されていることはわかっているが、詳細な遺構の分布はまだ明らかにされていない。