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報道発表資料 新たに大阪市指定有形文化財および有形民俗文化財・無形民俗文化財を指定しました

2023年5月16日

ページ番号:598128

 本件については、令和5年5月31日14時に一部訂正しております。別途訂正発表をご参照ください。

問合せ先:教育委員会事務局 総務部 文化財保護課(06‐6208-9168)

令和5年5月16日 14時発表

 大阪市教育委員会では、大阪市文化財保護条例に基づき、市内に所在する28件の文化財について、令和5年5月16日(火曜日)付けで、大阪市指定有形文化財及び有形民俗文化財・無形民俗文化財として指定しました。本市では市内に所在する文化財で国や大阪府が指定していないもののうち、本市の歴史や文化を理解するうえで欠かすことのできない重要なものについて、その保存及び活用により市民の文化の向上及び発展に寄与することを目的として、平成11年度から大阪市指定文化財を指定しています。

 今回は、三井住友銀行大阪中央支店本館ほか21件を有形文化財として、また、木造四天王立像ほか5件を有形民俗文化財・無形民俗文化財として、合計28件の文化財を指定しました。これらの文化財は一般に公開されておりません。(有形文化財の三井住友銀行大阪中央支店本館の外観を見ることはできます。)

 新たに指定した分を加えた大阪市指定の文化財の総数は、合計313件となります。(これまで指定した大阪市指定文化財については、大阪市指定文化財分類一覧表でご覧いただけます。)

新たに指定した大阪市指定文化財 28件 〔カッコ内は所有者・管理責任者〕

大阪市指定 有形文化財 22件
有形文化財 建造物 1件

三井住友銀行 大阪中央支店本館(みついすみともぎんこう おおさかちゅうおうしてんほんかん)1棟〔株式会社 三井住友銀行(中央区高麗橋1丁目8番13号)〕

概要:堺筋に面して建つ大規模な銀行建築で、北浜のランドマークとなっている。昭和11年(1936年)に三井銀行大阪支店として曽禰中條建築事務所の設計、竹中工務店の施工により建築された。鉄骨鉄筋コンクリート造で、現状では地上4階、地下1階となっている。江戸時代以来、三井家が大阪の拠点としてきた由緒ある場所に、昭和前期の銀行建築の趨勢(すうせい)にならって新古典様式により建築された。外観の特徴として、東京の三井本館からの影響を色濃く示すがイオニア式柱頭飾には古代ギリシア的な特徴がうかがえ注目される。内部の営業室や客溜にあるコリント式の柱列や八角形の格間天井は意匠的完成度が高く、天井中央には八角形の大きな天窓が造られている。外部は北木島産の花崗岩(かこうがん)で化粧し、内部にはイタリア産の大理石が多く用いられ、北浜の歴史的景観形成に大きく貢献している。また、優れた建築作品を多く残した曽禰中條建築事務所による最後の仕事であり、その集大成ともいえる傑作である。


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三井住友銀行大阪中央支店本館

有形文化財 美術工芸品(彫刻)10件

木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう)1軀(く)〔宗教法人見性寺(けんしょうじ)(東住吉区桑津3丁目4番9号)〕

概要:見性寺は東住吉区桑津の浄土宗寺院で、奈良時代の有名な僧である行基が建立したとも、古代寺院の難波百済寺の法灯を継ぐとも伝える。本像は、近代初頭の火災の難を逃れた内仏で、像高は96.3センチメートル、左足を大きく前方に踏み出す動きのある姿、肉感豊かで意志的な表情の面相、胸前に褊衫(へんさん)や内衣が覗(のぞ)く複雑な衣文の表現、裙(くん)から下をソケット状にはめ込む構造が、本像の特色である。制作年代は鎌倉時代、13世紀後半と考えられる。市域に伝来する数少ない鎌倉彫刻のひとつである。


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木造阿弥陀如来立像(見性寺)

木造阿弥陀如来立像・木造阿弥陀三尊立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう・もくぞうあみださんぞんりゅうぞう)4軀(く)(附6点(台座3基・光背3面))〔宗教法人萬福寺(まんぷくじ)(天王寺区下寺町1丁目3番82号)〕

概要:萬福寺は、大坂の寺町の中で大坂の陣後に造営された唯一の寺町である西寺町、現在の下寺町に寺地を構える浄土系の単立寺院である。『摂陽群談』では、知恩院末で、鏡空開導の開山と記される。本尊像は、像高91センチメートル、粒の大きい螺髪(らほつ)、低い肉髻(にくけい)、角張った体躯(たいく)、衣部の盛り上げ彩色、動きはあるが重い印象の衣文に特色のある像である。制作年代は15世紀代と考えられる。三尊像は、像高が、中尊78.5センチメートル、観音40.5センチメートル、勢至40センチメートルである。中尊は、平安後期の様式に、袖外側の渦文風の文様に装飾的な要素がみられ、13世紀初めの制作、脇侍像は、動きのある衣文表現のから、中尊より時代が下る13世紀後半の制作と考えられる。三尊像の光背・台座は後補だが、永禄10年(1567年)の再興の銘記がある。寺町寺院に伝来する希少な中世の阿弥陀像である。


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木造阿弥陀如来立像(萬福寺)

木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう)1軀(く)〔宗教法人金臺寺(こんたいじ)(天王寺区下寺町1丁目3番88号)〕

概要:金臺寺は下寺町の浄土宗の寺院で、『蓮門精舎旧詞』によれば、慶長年間(1596年~1615年)に安堂寺町堺筋に建立、大坂の陣後に西寺町に移転とある。書院安置の阿弥陀像は、『摂陽群談』で内仏とされる像といわれ、像高98センチメートル、意志的な表情を示す面部、右胸前にのみ衣をたくしこむこと、均整のとれた衣文の彫り口が鋭く深いこと、衣の下の肉感を自然にうかがわせることが特色である。制作年代は、13世紀中頃にさかのぼる。寺町の浄土宗寺院に伝来する中世の希少な阿弥陀像のひとつである。


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木造阿弥陀如来立像(金臺寺)

木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう)1軀(く)〔宗教法人超心寺(ちょうしんじ)(天王寺区下寺町1丁目3番59号)〕

概要:超心寺は下寺町の浄土宗寺院で、『蓮門精舎旧詞』では、開山の念蓮社善誉上人存故和尚が、寛永18年(1641年)に没したことが記される。本尊像は像高97.9センチメートル、高い肉髻(にくけい)や浅い彫り口による衣文、浅い体奥は平安時代後期の優美な作風を示しているが、玉眼を嵌入(かんにゅう)する。面長の面部の表情には鎌倉彫刻に通じる印象があることから、平安時代後期の様式を踏まえつつ、玉眼の技法を取り入れて、13世紀前半に制作された像と考えられる。寺町の浄土宗寺院に伝来する中世の希少な阿弥陀像のひとつである。


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木造阿弥陀如来立像(超心寺)

木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう)1軀(く)〔宗教法人西念寺(さいねんじ)(天王寺区下寺町2丁目2番36号)〕

概要:西念寺は下寺町の浄土宗寺院で、『蓮門精舎旧詞』では文禄年間(1592年~1596年)建立とされる。同じ浄土宗の寺町寺院であった両岩寺の本尊像が移坐(いざ)しており、像高94.4センチメートル、旋毛を丁寧に刻んだ螺髪(らほつ)、動的な要素と静的で穏やかな要素が調和した、巧みな衣文の表現、ひねった腰や、前方にわずかに踏み出す右足など、動きのある体躯(たいく)の表現に特色がある。制作年代は、13世紀代後半と考えられる。寺町の浄土宗寺院に伝来する中世の希少な阿弥陀像のひとつである。


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木造阿弥陀如来立像(西念寺)

木造不動明王坐像(もくぞうふどうみょうおうざぞう)1軀(く)〔宗教法人大日寺(だいにちじ)(城東区鴫野東3丁目31番17号)〕

概要:大日寺は、鴫野の旧集落の中に寺地を構える真言宗の寺院である。弘法大師の創建と伝え、『摂陽群談』には、弘法大師作の大日如来をまつる大日堂としてその名がみえる。本堂の内陣、向かって左側に安置する本像の像高は58.9センチメートル、ふくよかな面部、奥行が深く、量感豊かな体部、太い線と細い線を使い分けた衣文の表現に特色がある。像高が2尺にみたない小像だが、堂々とした体躯(たいく)で、制作は、平安時代後期、12世紀代にさかのぼると考えられる。市域の希少な平安彫刻のひとつである。


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木造不動明王坐像(大日寺)

東大寺仏像群(とうだいじぶつぞうぐん)一括 5軀(く)(附8点(台座4基・光背4面))〔宗教法人東大寺(とうだいじ)(住吉区万代6丁目13番9号)〕

概要:東大寺は、住吉大社の東に寺地を置く、住吉神宮寺の毘沙門堂の法灯を継ぐ黄檗宗寺院である。東大寺の本尊像は、本堂中央の厨子内(ずしない)に安置する、像高202センチメートルの単身の毘沙門天立像である。堂々とした体躯(たいく)と動きを抑えた造形が特色で、14世紀末から15世紀代の制作である。前立の毘沙門天三尊立像は、田中主永家に伝来する『仏師系図』から、江戸時代中期の大坂仏師である26代田中主永高福が、父の広元と共作して造立したことがわかる。黄檗様の影響がみられる像で、像高は中尊171センチメートル、吉祥天像118センチメートル、善膩師童子115センチメートルである。准胝観音菩薩坐像は、像高56.5センチメートル、一面二目十八臂で、水面に突き出る蓮華上(れんげじょう)に結跏趺坐(けっかふざ)する姿で、菩薩形(ぼさつぎょう)だが襟のつまった長袖の衣を着ける。単身像の作例はめずらしく、制作年代は江戸時代である。前立の三尊と准胝観音(じゅんでいかんのん)の光背・台座は、それぞれ本体と一具である。中世から近世の特色ある像からなる仏像群である。


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東大寺仏像群のうち、木造毘沙門天立像

木造釈迦三尊坐像(もくぞうしゃかさんぞんざぞう)3軀(く)(附6点(光背3面・台座3基))〔宗教法人統国寺(とうこくじ)(天王寺区茶臼山町1番31号)〕

概要:統国寺は、『摂陽群談』には、念仏寺と称する念仏の道場だったが、中興して四宗兼学となったと記される。『大阪府全志』では、聖徳太子の開創と伝える法相宗の念仏寺を、黄檗4世の独湛性瑩(1628年~1706年)の弟子法源が黄檗寺院として寺観を整え、邦福寺と改称したとある。現在は統国寺と号する単立寺院である。本堂は元禄16年(1703年)の再建とされる禅宗建築で、釈迦三尊は、その中央の須弥壇上に安置される。中尊は半丈六、像高125センチメートル、両脇の像高は、普賢63.6センチメートル、文殊63.2センチメートルである。黄檗様を顕著に示すが、童子形の普賢・文殊像を両脇侍とし、釈迦(しゃか)が拱手(きょうしゅ)することに特色がある。像容や彫技から見て制作年代は17世紀末と考えられ、享保7年(1722年)の邦福寺梵鐘(ぼんしょう)の銘記に「釈迦丈像安置於仏殿」とあるのが本像とみられる。市域に伝来する黄檗様の影響を受けた像の中では古い作例で、有数の江戸彫刻である。


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木造釈迦如来坐像(統国寺)

木造釈迦如来及十六羅漢立像(もくぞうしゃかにょらいおよびじゅうろくらかんりゅうぞう)17軀(く)(附24点(台座17基・光背6面・塔婆1基))〔宗教法人大念佛寺(だいねんぶつじ)(平野区平野上町1丁目7番26号)〕

概要:融通念仏宗の総本山である大念佛寺は、平野区平野上町に寺地をおく。中世の遊行する念仏教団から近世初めに定堂化し、現在の寺地に堂宇を構えた。毘沙門堂安置の釈迦如来は像高125.7センチメートル、黄檗様の影響を顕著に示し、耳飾りをつけ、払子と鉢を持物とする点に特色がある。左右には十六羅漢を伴い、像高は各像ともに97センチメートルである。銘記から、弘化2年(1845年)に、融通念仏勧進行者の楽山が発願し、作者は、近世後期の有数の大坂仏師、今来太右衛門である。釈迦(しゃか)・羅漢像ともに、光背・台座は本体と一具である。黄檗様をとりいれた造形を示す作例で、制作年代や作者の仏師、造立の願主が明らかな、市域に残る特色ある江戸彫刻である。


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木造釈迦如来立像(大念佛寺)

木造日蓮坐像(もくぞうにちれんざぞう)1軀(く)〔宗教法人長久寺(ちょうきゅうじ)(中央区谷町8丁目2番49号)〕

概要:長久寺は、谷町8丁目に寺地を構える日蓮宗の寺町寺院である。『大阪府全志』によれば、天正17年(1589年)4月建立され開山は日長という。本像の像高は45.6センチメートル、本堂の内陣中央、法華曼荼羅の前面にまつられる。背面の銘記から、文禄3年(1595年)に尼崎住人の吉岡新右衛門正次が檀那(だんな)となって発願し、長久寺に奉納した像であることがわかる。大坂の陣に先立つ時代の銘記を有する日蓮坐像で、市域に伝来する肖像彫刻の中では、非常に古い時代の作例であり、日蓮像の基準作のひとつと位置付けられる。


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木造日蓮坐像(長久寺)

有形文化財 美術工芸品(絵画)5件

生玉遍照院・医王院関連仏画群 追加指定 一括(10点)(いくたまへんじょういん・いおういんかんれんぶつがぐん)〔宗教法人青蓮寺(せいれんじ)(天王寺区生玉寺町3番19号)〕

概要:青蓮寺は、もとは茶臼山の北側に寺地のあった真言宗寺院で、神仏分離の際に廃絶した生玉宮寺の十坊のうちの、遍照院と医王院の法灯を継承している。伝来する仏画は、遍照院・医王院由来で、平成19年(2007年)には51点(附4点)が市指定文化財となった。その後、調査の進捗により、前回指定した画像の他に、阿字観本尊、幕末の絵師和田呉山画の地蔵菩薩画像、類例の少ない毘沙門天曼荼羅や十二天曼荼羅など、さらに10点が残されていることが新たに判明した。以前に指定した画像群と伝来の経過を同じくする、一連の画像である。


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生玉遍照院・医王院関連仏画群のうち、絹本著色阿字観本尊(青蓮寺)

和光寺仏画群(わこうじぶつがぐん)4幅 附2点〔宗教法人和光寺(わこうじ)(西区北堀江3丁目7番27号)〕

概要:和光寺は、西区北堀江に寺地を構える浄土宗の寺院で、元禄11年(1698年)に善光寺の末寺として建立された。境内の阿弥陀池は「難波の堀江」の旧地とされ、仏教が伝来した地であり、善光寺如来出現の地にあたるとして、江戸時代に大坂市中で広く信仰を集めていた。紙本著色釈迦誕生図は、大坂中寺町の絵師小柴蘭渓が描いた文化14年(1817年)の作で、平成18年(2006年)に市指定文化財となった。その後の調査の進捗で、長谷川姓を名乗る長谷川金右衛門が宝永8年(1711年)に描いた、誕生図と対になってまつられる釈迦涅槃図や、京慶善寺俊亮を絵師としてが宝暦12年(1762年)に造立し、天保3年(1832年)に小柴蘭渓が修復した観経曼荼羅図などが伝来していることがわかった。これらは制作年代が明らかな基準作であり、先に指定した釈迦誕生図と関連し、寺や地域の歴史を考えるうえで意味のある仏画である。


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和光寺仏画群のうち、紙本著色釈迦涅槃図(和光寺)

紙本墨画淡彩釈迦三尊画像(しほんすみがたんさいしゃかさんぞんがぞう)1幅〔宗教法人久本寺(きゅうほんじ)(中央区谷町8丁目1番34号)〕

概要:久本寺は中央区谷町8丁目に寺地を構える本門法華宗の寺院である。日蓮宗系の寺院が集まる寺町街区の寺町寺院であり、『大阪府全志』によれば、永禄5年(1562年)の創建という。本画像は、久本寺に伝来する什物(じゅうもつ)のひとつで、15世紀中頃に活動した土蔵宗種による仏画である。土蔵宗種は、京都の絵師で、酒屋や金融業を営む商人を土倉(土蔵)の出自と考えられている。伝統的な仏画に、大和絵や水墨画の技法を取り入れた画風で、室町時代の絵仏師として評価されているが、全国でも数点しか作例が知られていない。本画像はそのひとつで、髭(ひげ)を蓄え耳飾りをつけた釈迦(しゃか)の表情が特徴的な、市域に伝来する数少ない中世仏画のひとつである。


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紙本墨画淡彩釈迦三尊図(久本寺)

瑞龍寺黄檗関係画像(ずいりゅうじおうばくかんけいがぞう)一括(9幅)〔宗教法人瑞龍寺(ずいりゅうじ)(浪速区元町1丁目10番30号)〕

概要:瑞龍寺は、もと難波村の域内に寺地を構える黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院である。開山は、一切経の開版で知られ、大阪と関連が深い黄檗僧(おうばくそう)の鉄眼道光で、この地にあった薬師堂を整備し、寺観を整えたという。市域における黄檗禅(おうばくぜん)の布教の、中心となる拠点であった。黄檗禅(おうばくぜん)は17世紀後半には大坂市中に浸透しており、大坂の文化に、さまざまな分野で影響を与えたと思われるが、度重なる火災などで、市域に伝来する関連史料は限られる。瑞龍寺には、江戸前期の京都の有力な絵仏師である左近貞綱による隠元・木庵(もくあん)・即非画像、唐画の祖とされる黄檗僧(おうばくそう)の逸然性融による釈迦(しゃか)・観音・勢至画像と、達磨・臨済・徳山画像が伝来する。いずれも17世紀代後半の制作で、市域に伝わる希少な江戸前期の作例であるとともに、大坂市中と黄檗禅(おうばくぜん)の関係を考える上で貴重な画像である。 


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瑞龍寺黄檗関係画像のうち、絹本著色釈迦如来図(瑞龍寺)

絹本著色荼吉尼天画像(けんぽんちょしょくだきにてんがぞう)1幅〔宗教法人釈迦院(しゃかいん)(港区築港1丁目13番3号)〕

概要:釈迦院は、港区築港に寺地を構える真言宗の寺院である。一面八臂の天女形の女神を中心に、左右に十五童子を配し、画面上方に三天をあらわす円相を描く。女神は頭上に宇賀神を戴く弁才天の像容で、持物も弁才天と通じるが、狐に騎乗しており、弁才天と習合した荼吉尼天の画像である。類似する作例は、彫像・画像を含めて全国でも数少ない。制作年代は、15~16世紀と考えられ、市域に伝来する貴重な中世仏画のひとつである。釈迦院は、大正元年(1912年)に、築港倶楽部跡である現地に寺地を構え、「築港高野山」として、近畿一円から信仰を集めていた。この画像は、釈迦院では弁才天として信仰されており、地域の信仰の様子も伝えている。


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絹本著色荼吉尼天画像(釈迦院)

有形文化財 歴史資料 5件

香具波志神社文書(かぐわしじんじゃもんじょ)一括(3,504点)〔宗教法人香具波志神社(かぐわしじんじゃ)(淀川区加島4丁目4番20号)〕

概要:香具波志神社は、淀川流域に社地を構える市域有数の神社のひとつである。創建は天徳3年(959年)の秋にさかのぼり、一人の童子があらわれて、松の木の下にたたずみ、稲荷神をまつるように託宣を行った。これが時の村上天皇の聞こえるところとなり、倉稲魂神と保食神を祭し(さいし)したことが端緒という。香具波志神社文書は、古文書2,856点・典籍648点、合計3,504点からなり、数は少ないが中世の文書も伝えている。中心となるのは、近世から近代の、神社の由緒と信仰に関連する文書だが、寄寓(きぐう)していた上田秋成や、隣地にあった加島鋳銭所に関連する文書も含む。神社に伝来する文書としては、市域有数の歴史資料である。


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香具波志神社文書のうち、段銭催促状(香具波志神社)

称念寺真宗関係史料(しょうねんじしんしょうかんけいしりょう)一括(5点)〔宗教法人称念寺(しょうねんじ)(天王寺区夕陽丘町5番14号)〕

概要:称念寺は天王寺区夕陽丘町に所在する真宗大谷派の寺院である。現在地に移転したのは先の戦災後で、以前の寺地は大坂市中の南御堂に近い、有力な真宗寺院が寺地を構える北久宝寺町にあった。『大坂惣末寺衆由緒書』では、天正15年(1587年)の建立という。親鸞画像は、大谷派12世門主教如が、慶長14年(1609年)に称念寺宛に下付した免物である。市域に伝来する親鸞画像の中では、古い年代の免物であり、教如の裏書を伴う点でも希少である。木仏本尊は、像高81.5センチメートルと真宗寺院の本尊としては大きな像である。有縁の古仏を本尊像として転用したと思われ、制作年代は14世紀代にさかのぼる可能性がある。大坂の陣に先立つ免物を含む、市域に伝来する希少な真宗関係史料である。


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称念寺真宗関係史料のうち、絹本著色親鸞画像(称念寺)

来通寺真宗関係史料(らいつうじしんしゅうかんけいしりょう)一括(7点)〔宗教法人来通寺(らいつうじ)(城東区鴫野東2丁目4番9号)〕

概要:来通寺は、城東区鴫野東、鴫野の旧集落内に寺地を構える真宗大谷派の寺院である。寛永19年(1642年)の大谷派13世門主宣如が証判した木仏免状が伝来しており、宛所に「摂州東成郡志宜野村惣道場来通寺」とあることから、17世紀前半には寺号を有した惣道場(そうどうじょう)として成立していたことがわかる。この他に、蓮如筆と伝える大幅の六字名号、市域では唯一の12世門主教如証判の方便法身阿弥陀如来画像なども伝来している。大坂の陣に先立つ免物を含む、地域の歴史を考える上で重要な真宗関係史料である。


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来通寺真宗関係史料のうち、絹本著色方便法身阿弥陀如来画像(来通寺)

蓮乗寺真宗関係史料(れんじょうじしんしゅうかんけいしりょう)一括(13点)〔宗教法人蓮乗寺(れんじょうじ)(城東区永田4丁目4番7号)〕

概要:蓮乗寺は、城東区永田の旧集落内に寺地を構える真宗大谷派の寺院である。寺に伝来する「由緒寺院略縁起」や『大阪府全志』によれば、応仁2年(1468年)、本願寺8世門主蓮如が、教化の際に信徒の望みにより建立した一宇を端緒とする。近世から近代には、蓮如信仰の拠点となっており、境内には、蓮如が腰掛けたとされる腰掛石や、蓮如が説法をする間は、池の蛙(かえる)が鳴くことを止めた、という不鳴池が残っている。蓮如忌には。蓮如に因んだ歌会なども催されており、その際の歌を記した扁額(へんがく)や如の木像なども伝来している。この他に、蓮如筆と伝える大幅の六字名号、仏師宗重の銘記がある木仏本尊と、延宝5年(1677年)の木仏下付の御印書などものこる。中世から近世・近代の、蓮如信仰と関係する史料を含む、市域の中でも特色ある真宗関係史料である。


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蓮乗寺真宗関係史料のうち、紙本墨書六字名号(蓮乗寺)

常宣寺真宗関係史料(じょうせんじしんしゅうかんけいしりょう)一括(10点)〔宗教法人常宣寺(じょうせんじ)(旭区生江3丁目27番18号)〕

概要:常宣寺は、淀川の左岸に接する、旭区生江の浄土真宗本願寺派の寺院で、『大阪府全志』によれば、荒生(なぎ)の旧集落の字池川に寺地を構え、応永4年(1397年)に本願寺6世門主巧如の弟子である智正という人物が開山した、とある。蓮如が淀川を船で下り大坂や堺に向かうたびに、この地で下船して常宣寺に立ち寄った、と伝え、その際に蓮如が下付したと伝える大幅の六字名号が、3幅伝来している、いずれも中世の名号本尊で、それぞれ筆致が異なり、近年の名号研究では、3幅の名号はそれぞれ、蓮如、9世門主実如、10世門主証如が書いたとされるタイプに属している。この他に、元文3年(1738年)の、本願寺派15世門主住如証判の木仏免状と木仏本尊、宝暦10年(1760年)下付の親鸞画像なども伝来している。3世代の門主の名号本尊を含む真宗関係史料は、市域でもめずらしく、寺や地域の歴史を考えるにあたっての貴重な真宗関係史料である。


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常宣寺真宗関係史料のうち、紙本墨書六字名号(常宣寺)

有形文化財 考古資料 1件

四天王寺亀形石槽(してんのうじかめがたせきそう)3基〔宗教法人四天王寺(してんのうじ)(天王寺区四天王寺1丁目11番18号)〕

概要:四天王寺の亀井堂は、中心伽藍(がらん)の北東に近接して位置する。亀形石槽はこの亀井堂の中央、地表下約1.5メートルのところにあり、西側のやや高い位置にある上水槽(上部は亀形頭部と甲羅、下部は小判形水槽)と、甲羅の縁甲板以外の中心部分を抉り込んだ東側の下水槽との二段の構成である。さらに上水槽背後(西側)の堂床下には湧水を溜める施設が存在する。下水槽は巨大な流紋岩質凝灰岩(竜山石)一石から頭部と四足を彫出した亀形の水槽がつくり出されている。上水槽は、現状は岩座に坐(ざ)す亀を表現し、下部の水槽と岩座は竜山石一石で亀の四足が彫出され、上部の亀形頭部と甲羅はそれぞれ花崗岩製の別石づくりで後世に付加されたものである。竜山石製の上水槽下部と下水槽とは本来の組合せ、位置関係を保っていると考えらえ、飛鳥酒船石遺跡の亀形石槽・船形石槽の構造と酷似する。この亀形石槽は古墳時代の導水施設の系譜上にあり「浄水」を得てそれを用いるための祭祀(さいし)施設とみられ、それに朝鮮半島からの影響として亀の造形や石を素材とする加工技術が組み合わさることで生み出された可能性がある。年代は、酒船石遺跡例との比較も含めて7世紀後半と考えられる。


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四天王寺亀形石槽

大阪市指定 有形民俗文化財・無形民俗文化財 6件
有形民俗文化財 5件

木造四天王立像・楽山五万人勧進回向地蔵菩薩像(もくぞうしてんのうりゅうぞう・ぎょうさんごまんにんかんじんえこうじぞうぼさつぞう)の追加の附指定4軀〔宗教法人大念佛寺(だいねんぶつじ)(平野区平野上町1丁目7番26号)〕

概要:楽山は、文化7年(1810年)に生まれ、弘化3年(1846年)に没した、念仏行者で、近畿一円で結縁した信者の数は6万人に及び、巨大な講組織をつくりあげた僧である。弘化2年(1845年)に大念佛寺で勧進を行った際に、自身をモデルとした地蔵菩薩立像を造立して奉納した。この像は、大念佛寺境内の地蔵堂に、由緒を記した扁額(へんがく)とともにまつられており、平成20年(2008年)に市指定の有形民俗文化財となっている。四天王立像は、現在は大念仏寺境内の収蔵庫に安置されている。かつては地蔵像とともに、地蔵堂にまつられていた像である。地蔵像と彫り口が通じるため、一具の制作とみられ、地蔵像と由緒を同じくする史料である。


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木造四天王立像のうち、持国天像(大念佛寺)

西之坊方違社神像群(にしのぼうほうちがいしゃしんぞうぐん)一括(7軀)〔宗教法人西之坊(にしのぼう)(住吉区上住吉2丁目2番20号)〕

概要:西之坊は、住吉大社の東に寺地を構える真言宗寺院で、寺に伝来する享保14年(1729年)の文書によれば、仁和寺末天野谷寺五ケ寺の内の一坊であった。境内の方違社は、方違えの儀式を行った際に、さらに安全を期するために参拝を行う神社として信仰されており、西之坊はその守護所であった。方違社の神体は、複数の彫像であり、主祭神の方位神の神体は、実作例としてはめずらしい、陰陽道と関連が深い金神の立像である。この像は、銘記から、大坂仏師田中主水の文化12年(1815年)の作とわかる。この他にも、弁才天と蛇神、大黒天、鎮宅霊符の彫像もまつられており、神仏習合の影響が色濃くみられる住吉の地の信仰のあり方を示す貴重な民俗文化財である。


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西之坊方違社神像群のうち、木造金神立像(西之坊)

八幡宮・金蓮寺関連神像群(はちまんぐう・こんれんじかんれんしんぞうぐん)一括(8軀)〔宗教法人見性寺(けんしょうじ)(東住吉区桑津3丁目4番9号)〕

概要:東住吉区桑津の地は、応神天皇が日向から迎えた髪長媛の宮の旧地とされ、享保8年(1723年)の「桑津村新旧明細」や『東成郡誌』などによれば、この宮跡に、聖徳太子が四天王寺に先立って建立したのが。八幡宮とその別当寺である金蓮寺という。神仏分離の際に、八幡宮は桑津天神社に合祀(ごうし)、金蓮寺は廃寺となったが、八幡宮の本地堂が、神像群とともに、明治14年(1881年)に火災で焼失した、同じ桑津の見性寺に移築された。この本地堂が、現在の見性寺の本堂となっている。総髪で厳しい表情を見せて拱手(きょうしゅ)する坐像(ざぞう)の神像は、近代には聖徳太子像と称されていた。角髪を結い袍衣(ほうい)を着け、袈裟(けさ)はまとわない童子形神立像は、聖徳太子の孝養像に似る。いずれも中世の制作で、造立時の像主名は不明だが、太子信仰との関連をうかがわせる神像である。この他にも、懸仏や弁才天像なども伝来しており、失われた神宮寺の信仰を如実に伝える、市域で有数の民俗文化財である。


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八幡宮・金蓮寺関連神像群のうち、木造男神坐像(見性寺)

大宮神社神像群(おおみやじんじゃしんぞうぐん)一括(6軀)〔宗教法人大宮神社(おおみやじんじゃ)(旭区大宮3丁目1番37号)〕

概要:大宮八幡宮と称される大宮神社は、旭区大宮に社地を構える。神社に伝来する縁起や『東成群誌』などの地誌によれば、源平合戦中に、源義経がこの地で宇佐八幡宮の霊鏡を得たことを契機に、源頼朝が社を創建したことが端緒という。その後、豊臣秀吉が、大坂城の鬼門守護社として再建し、以降の大坂城代からも信仰されたと伝える。神社に伝来する文書からは、18世紀末には、社観の整備がはかられていたことがわかる。改修工事に伴って、本殿に神体としてまつられていた神像の、文化財調査の機会が生まれ、元文2年(1737年)の奉納銘のある束帯姿の男神坐像、老相の二狐を伴う稲荷神立像、仁徳天皇像としてまつられていた可能性のある童子形神立像、北斗社の神体であった可能性のある鎮宅霊符像などが発見された。束帯姿の男神坐像は、制作年代が中世にさかのぼる、市域でも古様な神像の作例である。地域の信仰の象徴となる神体が、まとまって伝来しており、貴重な民俗文化財である。


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大宮神社神像群のうち、木造男神坐像(大宮神社)

鴉宮神像群(からすのみやしんぞうぐん)一括(4軀)〔宗教法人鴉宮(からすのみや)(此花区伝法2丁目10番18号)〕

概要:鴉宮は此花区伝法の地に社地を構える。仏教伝来の地と伝える伝法は、大阪湾に面した集落で、西国街道にも近く、近世には水陸の交通の要所となっていた。『鴉之宮御記録』には、伝法の地が開かれた際に、当時の船問屋が、港を開いたにもかかわらず、人家が希薄であることを遺憾として、天照皇大神、住吉大神、恵美須大神をまつり、伝母頭(もりす)神社を建立したことが、鴉宮の端緒という。その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、神主の霊夢にあらわれた三足の鴉(からす)が、軍船とともに飛翔しその守護を約束した、とある。これを契機に秀吉の帰依をうけ、文禄2年(1593年)には秀吉が参拝して祭典を催し、社名を鴉宮に改めたと、記す。本殿には、この時に秀吉が奉納したと伝える、上述の三神の彫像が神体としてまつられている。いずれも制作年代は、16世紀末から17世紀初めとみられ、社伝で秀吉が奉納したとされる時期と同年代の造立である。境内の末社の神体である弁才天像も、同じ頃の制作とみられる。秀吉と関連する神体として信仰を集めている神像群で、地域の信仰を考える上で、貴重な民俗文化財である。


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鴉宮神像群のうち、木造住吉神立像(鴉宮)

無形民俗文化財 1件

合邦辻閻魔堂の閻魔信仰習俗(がっぽうがつじえんまどうのえんましんこうしゅうぞく)〔宗教法人西方寺(保持者)(さいほうじ))(浪速区下寺3丁目16番11号)〕

概要:合邦辻(がっぽうがつじ)閻魔堂は、浪速区下寺に寺地を構える、融通念仏宗の西方寺境内の閻魔堂である。合邦辻は、四天王寺の西に位置し、奈良街道と下寺町筋が交差するT字の辻(つじ)で、大坂市中の南端にあたる。学校辻とも称し、四天王寺の学校があったところとも、合法辻とも称し、聖徳太子が物部氏と仏法の争論を行った場所ともいわれる。また、安永2年(1773年)初演の 文楽・歌舞伎の演目『摂州合邦辻』の舞台となった。都市の周縁は、死者の暮らす世界との境界と重ね合わされ、死者供養と関連する閻魔像や十三仏などがまつられる。大阪市域では、住吉の閻魔地蔵や宝泉寺十三仏、平野郷の長宝寺の閻魔信仰が知られており、合邦辻閻魔堂も、そのような事例につながる死者供養の信仰の拠点である。『摂津名所図会』では、石造の閻魔像がまつられ、信仰を集めている様子が、挿図に描かれているが、その閻魔像は先の戦災で失われ、現在は、昭和63年(1988年)に新調された像がまつられる。閻魔の頭を撫(な)でてから自分の頭をさすり、次いで閻魔の胸から腹にかけて撫(な)でおろし、自分の体にも同様にして、これを数回繰り返すことで頭痛が治る、という習俗が、現在も伝わり、近隣だけでなく、近畿一円から信者が、忌日供養などに参拝に訪れる。市域にのこる死者供養の信仰習俗で、貴重な民俗文化財である。


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合邦辻閻魔堂の閻魔信仰習俗 合邦辻閻魔堂正面外観(西方寺)

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