報道発表資料 史跡難波宮跡附法円坂遺跡発掘調査の現場を一般公開します
2026年1月15日
ページ番号:670278
問合せ先:大阪市教育委員会事務局総務部文化財保護課(06-6208-9069)、大阪市経済戦略局文化部文化課(06-6469-5170)、公益財団法人大阪府文化財センター調査課(072-299-8791)
令和8年1月15日 14時発表
大阪市教育委員会・大阪市経済戦略局と公益財団法人大阪府文化財センターは、令和7年11月から実施してきた史跡難波宮跡附法円坂遺跡(しせきなにわのみやあとつけたりほうえんざかいせき)の発掘調査の成果を市民に紹介するため、令和8年1月17日(土曜日)に発掘調査の現場を一般公開します。
今回の発掘調査は、平成25年(2013年)に国の史跡に追加指定された東方官衙地区(とうほうかんがちく)において、遺構の分布状況を確認するために実施しています。以前、当該地区北半部での発掘調査で見つかっていた前期難波宮の建物群の区画の南への広がりを確認しました。
現地公開の開催について
日時
令和8年1月17日(土曜日)13時~16時
(注)小雨決行(開催時間までに大阪府下に暴風または大雨警報が発令された場合は中止とします。)
場所
難波宮跡発掘現場
(大阪市中央区法円坂1丁目5 後期難波宮大極殿復元基壇から東へ約250メートル)
- Osaka Metro谷町線・中央線 谷町四丁目駅から東へ約800メートル
- JR大阪環状線 森ノ宮駅から西へ約700メートル
内容
前期難波宮の遺構の公開および配布資料による解説
問合せ
大阪市教育委員会事務局文化財保護課(担当:鈴木 電話番号:06-6208-9069)
調査の概要
調査地は、難波宮跡のなかでも東部に位置する東方官衙地区の南半部にあります(図1)。この地区の北半部ではこれまで掘立柱の回廊(単廊)によって区画された空間(図3-区域1)や、その東の掘立柱塀(1本柱塀)で区画された倉庫を含む掘立柱建物を整然と配置する建物群(区域2)などが見つかっており、宮殿の中心部にある内裏や朝堂院といった天皇の居住空間や儀礼空間に対して、宮殿の実務機能を担った官衙(役所のこと)が置かれた地区と考えられています。
今回の発掘調査は、平成25年(2013年)に国の史跡に追加指定されたこの東方官衙地区の南半部において、以前に北側の敷地での発掘調査で見つかっていた前期難波宮と考えられる建物群の区画の南への広がりなど未解明だった遺構の分布状況を確認するために実施しています。
調査の成果
今回の調査では、前期難波宮について新たな発見がありました。
地下約1.5メートルのところで、難波宮のものと考えられる柱穴を13基確認しました(図2)。柱穴は、その規模から2群に分けられ、ひとつは一辺が1.5メートル程度の方形のもの、もうひとつは、それよりもやや小型で一辺1.2メートル程度の方形のものです。
一辺1.5メートル程度の方形の柱穴は10基あり、南北方向に3基がほぼ等間隔で並び、東西方向にも5基が、ほぼ等間隔で並んでいることが確認できました。未調査部分もありますが、南北に3基、東西に5基で、全部で15基の柱穴が整然と並んでいる可能性が高いと思われます。
さらに、これらの柱穴よりも規模が一回り小さな一辺1.2メートル程度の柱穴が3基見つかりました。この柱穴は調査区の西端と東端で確認できたことから、東西方向に並んでいると考えられ、掘立柱塀(1本柱塀)である可能性があります。しかし、3列に並ぶ柱列と、この柱列の関係については、遺構の重複関係が不明で遺物の出土がないため、併存していたのか、時期が異なるかは不明です。ただし、南北方向の柱筋が通らないことや柱列間の間隔が狭いことから、時期が異なるものであった可能性が高いと考えられます。
なお、今次調査で検出した柱穴からは、時期を示す遺物が出土していません。そのため、遺構の帰属時期が判然としませんが、北半部の前期難波宮の遺構群と関連性のある配置であること等から前期難波宮の時期のものである可能性が高いと考えられます。
今次調査区では、北半部中央の建物群(区域2)の東を限る掘立柱塀(1本柱塀)が南方に延びてきていると予想されましたが、それは検出されませんでした。したがって、区域2の範囲は今次調査区のすぐ北側までであったと考えられます。
そして、今回検出した3列の柱列は、東西に長い建物の一部と考えられ、回廊や倉、門等の可能性があります。今回の調査では建物の両端を確認できておらず、さらなる調査・検討が必要と思われます。今次調査区の北側で行われた第30次調査や第80-9次調査では、回廊(単廊)や掘立柱塀(1本柱塀)で区画された建物群が見つかっていますが(図3)、それらの区画とは異なる新たな区画が南側に広がっている可能性があることがわかりました。
今回の調査の意義
今回の調査で特に重要と考えられる成果は、前期難波宮の東方官衙における区画について、南への広がりが確認できたことです。
さらに、その広がりは、建物跡についてさらなる調査・検討が必要ですが、これまで見つかっていた東方官衙の諸施設とは異なる種類の区画である可能性があります。
今後、東方官衙地区の構造を解明していくうえで重要な資料となると考えられます。
用語解説
難波宮跡(なにわのみやあと)
難波宮跡は、大阪市の中央を南北に貫く上町台地の北端部に位置し、大化元年(645年)12月の難波遷都から延暦3年(784年)の長岡京遷都までの約150年間にわたって我が国の古代史上に大きな役割を果たした宮殿の遺跡である。昭和29年(1954年)以降、約70年の継続した発掘調査により、飛鳥時代(7世紀)の前期難波宮と奈良時代(8世紀)の後期難波宮という2時期の宮殿遺跡が重なって存在することが明らかになっている。こうした成果から昭和39年(1964年)には国の史跡として指定され、以後の追加指定を含めて合計7次にわたって約 14.5 万平方メートルが指定された。平成13年(2001年)の第4次指定の際に5世紀の法円坂倉庫群(ほうえんざかそうこぐん)も含めて「難波宮跡附法円坂遺跡」に指定名称が変更されている。
これらの宮殿の造営以前からも、古代の難波は海外に開けた港である難波津を擁し、先進性や国際性に優れた特質によってわが国の外交に重要な役割を果たしてきた。こうした古代難波の特質は現在まで受け継がれており、まさに都市大阪の出発点と言える。
前期難波宮(ぜんきなにわのみや)
重なった2時期のうち下層の宮殿遺跡。孝徳朝に造営された難波長柄豊碕宮が天武朝まで存続して朱鳥元年(686年)に焼失したと考えられている。大化改新と呼ばれる新しい政治の舞台として、天皇が着座して重要な政務・儀式を行う、後の大極殿(だいごくでん)に相当する内裏前殿(だいりぜんでん)と、その南側には官僚が政治を行う広大な朝堂院(ちょうどういん)がつくられ、藤原宮や平城宮に先立つわが国で最初の本格的な宮殿であることが明らかとなっている。
後期難波宮(こうきなにわのみや)
前期難波宮が焼亡した後、神亀3年(726年)から聖武天皇によって造営が始められた上層の宮殿遺跡。前期難波宮と同じ中心軸の上に建てられている。大極殿や朝堂院など中心部の建物は瓦葺き、礎石建ちが採用されている。大極殿院や朝堂院に葺かれた重圏文軒瓦は、他の古代宮殿や寺院に用いられた蓮華文・唐草文軒瓦と比較して特徴的な存在である。延暦3年(784年)の長岡京遷都に伴って廃された。
東方官衙(とうほうかんが)
南北約750メートル、東西約650メートルと推定される難波宮跡のうち、東部に位置する官衙(役所のこと)。北半部では掘立柱塀で区画された倉庫を含む掘立柱建物を整然と配置する建物群や、その西の回廊によって区画された空間、東北部の回廊に囲まれて楼閣風の建物をもつ空間も見つかっている。今回発掘調査を実施した南半部は、試掘調査によって良好に柱穴等の遺構が残されていることはわかっているが、詳細な遺構の分布はまだ明らかにされていない。
回廊(かいろう)
寺院・宮殿・神社などの中枢建物や中庭を囲む屋根付きの廊下。日本では6世紀末の奈良県飛鳥寺で登場し、寺院の塔、金堂などを囲む施設として一般化する。宮殿では、7世紀の大阪府難波宮、滋賀県大津宮、奈良県藤原宮から始まり、内裏・大極殿院・朝堂院などを囲む施設となり、地方でも福岡県太宰府政庁など重要施設の中枢部を囲む。
回廊には、外周を連子窓のある壁で閉ざし内側を吹き放しにした梁間1間の単廊(たんろう)と、中央が連子窓のある壁になり内外を吹き放しの通路とする梁間2間の複廊(ふくろう)とがある。











