越中橋(えっちゅうばし)
2016年12月26日
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歴史・文化
下中之島の橋では越中橋が最も古く、橋の北詰に肥後・細川越中守の蔵屋敷があったことからこの名前が付けられたと想像される。また南詰めには播磨藩の蔵屋敷があった。橋は明暦期(1655~1658)の地図にもすでに画かれ、江戸時代初期には架けられていたこともわかる。
江戸時代の橋の規模は『地方役手鑑』や『米商旧記』に詳しい。土佐堀川の越中橋は橋長三四間二寸(67.0m)幅員二間九寸(4.2m)であった。
明治18年の大洪水では大きな被害を受けた。土佐堀川の橋は難波橋から湊橋までことごとく破壊され、木津川方面へ流れた。
第1次及び第2次の都市計画事業においては新設、永久橋化が行われた。越中橋も昭和4年に近代化された。橋梁形式は三径間ゲルバー式鋼鈑桁橋で、20.5m、29.0m、20.5mのスパン割を持ち、幅員は7.5mである。
戦後から進行していた西大阪一帯の地盤沈下は戦後になってさらに拍車がかかり、台風時の高潮によって大きな被害を受けることになった。このため、高潮対策事業が実施されたが、この中で橋梁の嵩上げ工事も行われることとなった。
越中橋も嵩上げの必要が生じたが、嵩上げ高が3.5mにもなるため、橋を歩行者専用とし、階段で取り付けるように変更された。工事は39年に完成し、幅員も3.8mに縮められた。
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