御堂筋の歴史
2019年3月13日
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「道こそ街の動脈」市長の理想としたもの
第七代大阪市長 関一
大阪の大動脈・御堂筋を語る上で、切っても切れないのが第七代大阪市長、関一(せきはじめ)。
関一は、第十七代大阪市長の関淳一の祖父にあたり、御堂筋の生みの親とも言える人物です。1873年に静岡県伊豆に生まれ、父は小学校の教師でした。自身も一橋大学を卒業後、大蔵省(現財務省)勤務を経て、教職の道を歩みます。新潟市立商業学校では、23歳の若さで教諭と校長を兼任。さらに高いレベルの商業学を求めてベルギーへと留学し、帰国後は交通論や商業政策の講義を大学生に行っていました。
そんな関を、大阪へと呼んだのが第六代大阪市長の池上四郎です。「高級助役には学識を持った人物を」という池上の要請を受けるかたちで、関は助役就任を承諾します。1923年には市長に就任。池上市長の政策をさらに発展させた「都市大改造計画」を打ちだします。その計画のメイン事業が『御堂筋の拡幅工事』だったのです。
(写真は第七代大阪市長の関一、大阪歴史博物館より出典)
目次
市長の都市大改造計画
大都市大阪を世間へ。市長の都市大改造計画
関市長の「都市大改造計画」のメイン事業であった御堂筋の拡幅工事は、当時の常識から言えばありえないほどの大事業でした。拡幅以前の御堂筋は、道幅6メートル、北の淡路町から南の長堀まで約1.3キロメートルの狭く短い道でした。
その御堂筋を幅44メートル、南北に延びること約4キロメートルの道にするという関市長の考えに、市民は「市長は船場の真ん中に飛行場でもつくる気か」と肝をつぶしたそうです。
しかも100年先を見据えていたという関市長の構想はそれだけに留まらず、道路の下に地下鉄を走らせるものでした。
(写真は拡張前の御堂筋、大阪歴史博物館より出典)
御堂筋開通の背景と難工事
「街の発展を願って」地域住民へ理解を求め
御堂筋の拡幅工事には、さまざまな問題点がありました。
まず、これまでに例をみないような大事業のため、工事にかかる費用は莫大。当初は国からの援助を期待していましたが、世界恐慌や関東大震災の余波を受け、国からは十分な予算が得られませんでした。また、道幅を約8倍にする工事なので、沿道の住民には立ち退いてもらわなければなりません。予算の大半は住民の立ち退き料に支払われました。
(写真は立退き前、大阪歴史博物館より出典)
そこで、関市長が考え出したのが『受益者負担金制度』。これは、御堂筋拡幅後の沿道の商家にどれだけの利益が生まれるかを算出し、その額に応じた税金を前もって納めるというものです。これには市民も猛反発。立ち退きとともに市民の理解を得ることは困難を極めました。
しかし、関市長は御堂筋の拡幅が大阪の発展のために、どれだけ有益であるかを市民に説き続け、理解を求めました。
関係者も住民が立ち退きに同意してもらうまで、何度でも頭を下げに訪れたそうです。
(写真は立退き後、大阪歴史博物館より出典)
二階建て道路建築と、技術者泣かせの軟弱地盤
実際の工事にも難点は数多くありました。
まず、大阪のような軟弱な地盤には、地下鉄のトンネルを掘ることだけでも大変な作業でした。トンネルマシーンもない時代なので、壁となる場所に鋼矢板を打ち込み、中を露天掘りする方法を採用。鋼矢板を打ち込むために、ドイツから最新の4トン蒸気ハンマーを輸入したのですが、その打ち込み時の騒音・振動は相当なもので、付近の家屋は傾き、壁が落ち、地下水が枯れ果てたそうです。
御堂筋にかかる堂島川、土佐堀川、長堀川、道頓堀川の4つの川にトンネルを通すことも困難でした。当時の記録によれば長堀川は水を全面的に堰き止め、残りの3つは半分ずつ堰き止めてトンネルを川の真ん中でつなぎあわせたそうです。工事中の事故も多く、土佐堀川で締切りが決壊した際には道路の一部が冠水し、市役所前の市電が不通となりました。
(写真は地下鉄工事の様子、大阪歴史博物館より出典)
徹底された綺麗な街並み
電線は地下に、圧迫感のない街並みへ
昭和12年5月11日。御堂筋は困難を乗り越えて開通の日を迎えます。
実に、着工より11年という長い歳月をかけての完成となりました。開通当初は、市民が「飛行場か?」と笑ったことが本当のようにのどかな風景でした。現在のように自動車が頻繁に行き来する時代ではなかったので、当然といえば当然なのかも知れません。電線を全て地下に配し、イチョウ並木を植えたことも、多くの人に"のどかな道"という印象を与えたようです。
シンボルとも言えるイチョウ並木は完成時に植えられたもので、淀屋橋南詰から難波までの区間に約800本があります。ちなみに梅田から淀屋橋北詰までにあるのはプラタナス並木です。
全長約4キロメートルの直線道路と開放感のある道幅、そして自然溢れる並木道が、御堂筋を世界でも類をみないほどの美しい道としています。
(写真は完成当時の御堂筋、大阪歴史博物館より出典)
百尺制限で都市を明確にイメージ
イチョウ並木とともに美しい御堂筋を演出しているのが、規律良く揃ったビルのスカイラインです。
明確な都市イメージを持って建設された御堂筋には、周辺ビルにも制限を設けていました。それが百尺(約30メートル)制限です。これはビルの高さを一律百尺に揃えるというもので、この制限により御堂筋は美しい景観を誇っていたと言えます。また、建物自体にも趣向が凝らされたものが多く、ガスビルや大丸百貨店などからは、当時の建築家たちの熱意が強く感じられます。
(写真は御堂筋ビル群の歴史ある建物、大阪歴史博物館より出典)
日本一の地下鉄道
道路の完成に先駆けて開通していた地下鉄。
梅田~心斎橋間は昭和8年開通で、昭和10年には難波、昭和12年には天王寺までと延長されました。東京に次いで二番目の開通でしたが、市営としては初めて。駅の規模は東京よりも大きく、機能性だけでなく見た目の美しさも追求した豪華な施設でもありました。心斎橋駅にはアーチ型の高い天井があり、シャンデリアなどは当時の雰囲気を今に伝えています。
(写真は完成当時の地下鉄、大阪歴史博物館より出典)
御堂筋の景観は文化財!
イチョウ並木と同じく、大阪市の有形文化財に指定されているのが淀屋橋。淀屋橋は『指定景観形成物』の認定も受けており、この淀屋橋より少し北にある大江橋は、淀屋橋とともにデザインを全国より公募したことでも有名です。大江橋も有形文化財の指定を受けており、この二つの橋が水の都大阪のシンボルとして愛されているといっても過言ではありません。
御堂筋産業の移り変わり
戦中戦後の御堂筋
開通当初はのどかであった御堂筋も、交通量の増加と時代の流れによって慌ただしさを覚えてきます。
特に太平洋戦争は御堂筋のみならず、大阪の街全体に大きな被害をもたらしました。大阪の街を爆弾の雨で黒く覆った大阪大空襲。御堂筋の沿道には近代的なビルもありましたが、大半の建物がまだ木造で、空襲により全焼する家屋も少なくありませんでした。しかし御堂筋は、奇跡的なことに道や地下鉄、街路樹がともに無事だったのです。そして、復興に懸ける市民たちの大きな心の支えとなっていきます。
時代は高度経済成長期を迎え、賑わいと活気を取り戻し始めた大阪の街と御堂筋。昭和33年には建設大臣の直轄管理となり国道の指定を受けます。昭和40年頃は空前のマイカーブーム。広大な道幅を誇る御堂筋にも混雑が目立ち始めます。そして、昭和45年には南向き一方通行となり、現在の御堂筋に近い姿になります。
沿道の変化
商業的側面からみても御堂筋は、十分な効果を発揮します。
開通前には、受益者負担金制度で物議を醸し出しましたが、関市長の予測通りに開通後は大きな経済効果を生みだしました。当時の沿道は問屋街として繁栄しており、全国的に知られる道修町の薬種商、御堂界隈の人形問屋、船場の繊維問屋などが軒を連ねる様子からも御堂筋の栄え具合がよくわかります。
(写真は丼池問屋街、大阪歴史博物館より出典)
御堂筋年表
16世紀末 大阪城築城とほぼ同時期に御堂筋周辺の開発が始まり、42 間の正方形街区と幅員4間3分に東西の「通り」と、同3間3分の南北の「筋」による市街地が形成
大正10年 御堂筋を含む大阪市内24 路線を都市計画決定
大正15年 御堂筋の工事着手
昭和12年 御堂筋完成
昭和33年 御堂筋が国の管理となる
昭和44年 全国的に沿道高さ制限を撤廃する中、御堂筋においては高さ制限を残す(30.3m、淀屋橋~本町)
昭和45年 一方通行化(大阪万国博覧会開催)
昭和58年 御堂筋パレード開催
平成4年 御堂筋彫刻ストリートに着手
平成7年 沿道建物高さ制限緩和(50m、壁面後退4m)
平成12年 銀杏並木が大阪市指定文化財となる
平成13年 淀屋橋・大江橋が大阪市指定文化財となる
平成17年 御堂筋オープンフェスタ開催
平成19年 御堂筋完成70 周年記念パレード開催
平成20年 大江橋及び淀屋橋が国の重要文化財に指定
御堂筋kappo開催、御堂筋イルミネーション開催
平成24年 御堂筋が大阪市管理となる
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大阪市 建設局企画部企画課道路空間再編担当
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