銅造阿弥陀三尊立像(和光寺) 3躯
2024年1月15日
ページ番号:8849
銅造阿弥陀三尊立像
分野/部門
所有者
宗教法人 和光寺(わこうじ)
所在地
大阪市西区北堀江3
紹介
和光寺の本尊で、善光寺式阿弥陀如来と通称される阿弥陀三尊像である。善光寺式阿弥陀如来は、信濃善光寺の秘仏本尊の姿を写したものとされ、ひとつの舟形光背の中に阿弥陀如来立像と観音・勢至菩薩立像(かんのん・せいしぼさつりゅうぞう)の両脇侍像をおさめるという、一光三尊形式の像である。中尊は右手は施無畏印(せむいいん)、左手は刀印を結び、脇侍像は腹前で両手を重ねあわせるという、独特の像容を示す。鎌倉時代初期から江戸時代までの作例が東日本を中心に確認されており、金銅仏が多いことも特徴のひとつである。
信濃善光寺の秘仏本尊は、仏教伝来の際に百済からもたらされた仏像と伝えられる。仏教受容の際に、排仏派の物部氏によって「難波の堀江」に沈められ、聖徳太子の請願にもかかわらずそのまま水中に留まった。後に信濃国の住人本田善光が拾い上げ、善光寺の本尊となったという。復古的な時代風潮や、聖徳太子信仰の高まりを背景にして、鎌倉時代には広く信仰を集め、本尊の写しとされる善光寺式阿弥陀如来の彫像や、縁起を絵解きした善光寺如来絵伝がつくられた。
和光寺は「難波の堀江」の旧地にあたると伝えらる。『芦分船』(17世紀代中頃)には善光寺の本尊が出現したと伝えられる阿弥陀池が描かれ、人々の信仰を集めていたとある。17世紀末に善光寺の出開帳が大坂で行われたこともあって、阿弥陀池への信仰が高まった。元禄11年(1698)に阿弥陀池に信濃善光寺の特別の末寺として和光寺が建立された。和光寺の本尊はこの時に信濃善光寺から迎えられた金銅仏である。
中尊の阿弥陀如来像は、頭頂から台座まで一鋳とし、像内に鋳物土が残っている。面相の表情、肉髻や髪際線の表現などから、13世紀後半の制作と考えられる。両脇侍像は、頭頂から像底まで一鋳である。表情や衣文の表現に形式化が顕著であることから、江戸時代の補作と思われ、和光寺に移坐される以前に、善光寺で補ったものであろう。なお光背と須弥台は、第2次世界大戦での焼失に伴い、戦後に補った木製のものである。
この像は、近畿に残る数少ない善光寺式阿弥陀如来であり、中尊は鎌倉時代まで遡る古作として貴重である。また、「難波の堀江」と善光寺本尊の伝承をもつ阿弥陀池が、信濃善光寺の出開帳によって大坂の地で善光寺信仰が高まり、和光寺の建立に至るという歴史的な由緒を体現している。
近世における大坂市中の信仰のあり方を具体的に物語る重要な像である。
用語解説
光背(こうはい) 仏から発する後光をかたどった、仏像の背後にある飾り
施無畏印(せむいいん) 仏の手の組み方の一つ。5指をそろえて伸ばし、手のひらを前に向けて、肩の辺に上げる。「 恐れなくてよい」と相手を励ます意味がある
芦分船(あしわけぶね) 延宝3 年(1675)に刊行された大坂の名所案内書
出開帳(でかいちょう) 普段は公開していない寺院の本尊や秘仏などを、他の土地に運んで行う開帳
肉髻(にっけい) 如来の頭頂部に一段高く隆起している部分で、悟りを開いた証とされる髪際(はっさい) 仏像の額の髪の生え際。仏像の高さはここを起点として測る
参考文献
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