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木村蒹葭堂墓

2019年1月9日

ページ番号:8855

木村蒹葭堂墓

きむらけんかどうはか

分野/部門

記念物/史跡

所有者

宗教法人 大応寺

所在地

大阪市天王寺区餌差町

紹介

木村蒹葭堂墓 写真

 木村蒹葭堂は、元文元年(1736)に現在の西区北堀江4丁目の辺りに生まれた。名は孔恭、字は世粛、号を巽斎という。生家は酒造業を営んでおり、裕福な資産を背景にして、本草学を小野蘭山、漢学を片山北海に、画を池大雅に学ぶ。優れた才能を発揮し、大坂を代表する博物学者となった。邸内に井戸を掘った際、古い芦の根が出てきたため、これが古歌で名高い浪華の芦であろうと喜んで、自宅を蒹葭堂と名付け、好んで自分の号とした。
 
 博物に精通し、『山海名産図会』や『奇貝図譜』などたくさんの著作がある。コレクターとしても知られ、邸内は書画、金石などであふれていたという。交友関係も非常に広く、当代の文化人で蒹葭堂と交流がなかったものはいないといっても過言ではないほどである。『蒹葭堂日記』からは、彼の邸宅が文化人サロンとなっていたことがうかがえる。
 
 享和2年(1802)正月に66歳で没し、大応寺に葬られた。
 
 墓石は和泉砂岩製で剥落が進んでいるが、4面に陰刻銘があることが確認できる。正面には「蒹葭翁之墓」と大書し、残りの3面に増山雪齋の撰による碑文が刻まれている。内容は、博学多才な蒹葭堂の略歴に加えて、彼が後藤又兵衛基次の子孫であるという一説を記している。

参考文献

『大阪訪碑録』(浪速叢書第10 1929年)

石田誠太郎『大阪人物誌』正(1927年 復刻は1974年臨川書店)

 

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