大坂城下町跡(道修町1丁目)出土魚市場関連遺物 一括(318点)
2024年1月15日
ページ番号:8860
大坂城下町跡(道修町1丁目)出土魚市場関連遺物
分野/部門
所有者
大阪市
出土地
大阪市中央区道修町1
紹介

大坂魚市場跡は、昭和61年(1986)、埋蔵文化財包蔵地「大坂城下町跡」と指定された船場地域で最初に行われた発掘調査で、確認された。
発掘調査では、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に起因する焼土層より下に、豊臣時代から中世にかけて4面の生活面が確認された。この調査によって、船場の成立の一端が明らかになるとともに、高層建物の林立する大都市の地下に遺跡が残っていることが認識された。
魚市場関連遺物としては木簡と手鉤および釣り針があげられる。木簡は大坂冬の陣の焼土層に覆われた生活面に掘られたごみ穴に、投棄された状態で出土した。木簡の形態は、古代のものとほとんど変わらず、頭部に抉りを施し先端を尖らせたものや、頭部に丸孔を穿った形態がある。片面に「記号(屋号か)」「魚名」「数量」が書かれ、もう片面には差出人と考えられる「助久郎」「新七郎」「又左衛門」「甚内」などの人名が書かれており、各地から大坂へ運ばれてきた魚に付けられた荷札と考えられる。木簡に記載された魚の種類には、海の魚「むろ」「あち」「たい」「こち」をはじめ、淡水の魚「こひ」、貝「あわひ」などがある。また加工品の「かつおふし」「ふし」などの品名を書いたものもあり、海魚を中心として各種の加工食品も運ばれてきたことが分かる。同時に出土した関連の遺物として、手鉤1点、釣り針3点がある。釣り針は江戸時代のものと比べると小さめであるという特徴がある。
これらのことから、調査地に冬の陣直前まで魚を商いする魚市場が営まれていたことが推定される。
調査地点である道修町1丁目は、江戸時代の絵図に「本靫町」と記され、元和8年(1622)まで、調査地一帯は魚商人が集住していたと考えられていた地域である。多数の魚名木簡および手鉤、釣り針の発見はこのことを証明することとなった。また、魚名を書いた荷札木簡以外にも「脇坂中書様御借此也」「脇坂中」と墨書された木製品が出土しており、賤ヶ岳七本槍の一人「脇坂安治」がこの時期に、魚市場と何らかの関係を有していたことが推測される。
この木簡群をはじめとする魚市場関連遺物は、考古学が近世の大坂の解明に大きな役割を果たすことができることを示した発見である。
参考文献
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