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旧加賀屋新田会所 鳳鳴亭・書院・居宅 3棟

2019年1月9日

ページ番号:8951

旧加賀屋新田会所 鳳鳴亭・書院・居宅

きゅうかがやしんでんかいしょ ほうめいてい・しょいん・きょたく

分野/部門

有形文化財/建造物

所有者

大阪市

所在地

大阪市住之江区南加賀屋4

紹介

旧加賀屋新田会所 鳳鳴亭・書院・居宅写真

 加賀屋新田は延享2年(1745)大阪淡路町の両替商、加賀屋甚兵衛によって開発がはじめられた。敷地内東半部には鳳鳴亭、書院、居宅、土蔵などの建築群が残り、またその西側には庭園がひろがり、往時の新田会所の屋敷景観を今に伝えている。

 遺存する建物群の構成は、北に鳳鳴亭、南に書院および玄関を置き、その間を居宅が繋ぐ。西側に庭園を置き、これに向けて建物を配しているのは、西に広がる大阪湾を眺望することを目的とした屋敷構えとしたためと思われる。
 鳳鳴亭は南半に東から次の間、広間、縁側を置き、北半に水屋、前室、茶室を並べる東西桁行4間、梁行4間半の建物である。西の池泉に面して、段地を利用して懸造り状につくるところに特徴がある。小屋組み梁下端、および広間の炉の蓋上面に「文化十二年」(1815)の墨書があるが、この梁材は新しい部材であり、修理の際に加えられたものと推定される。北向きの茶室部分の材も、ひとまわり太い材の上に根継ぎされたものであり、広間、次の間の材と比べて新しい。文化12年に、茶室部分を中心に建物全体を整備したことが考えられる。したがって広間、次の間を含む主体部分の創建は文化12 年を遡り、あるいは宝暦4年(1754)の会所創建時である可能性がある。

 書院は西に8畳の座敷、その東に6畳の次の間を設け、その南に玄関を取り付けている。座敷は南側西寄りに1間の畳床、その東に棚、西面を付書院とする。座敷の長押や面皮柱など一部の材は古く、また主屋部分の小屋裏については大きな改造は見られない。当会所の建築構成を知る手掛かりとなる史料に、文政10年(1827)の『家屋質入証文』(以下『証文』とする)があるが、これには玄関部分が増築される以前の規模が記されている。当初は次の間の東側に玄関があったものが、文政10年以降に南側に玄関が増設され、現在の形態になったと思われる。建築年代は定かでないが、『証文』の記述では、鳳鳴亭を「新座敷」と呼ぶのに対して書院が「旧座敷」とある。この呼称の意味は必ずしも明確でないが、建築年代の新・旧を表しているのかもしれない。書院の建築年代は、会所の創建年代の宝暦4年(1754)を上限とし、鳳鳴亭と同時期もしくはこれを遡る時期と思われる。 居宅部分は鳳鳴亭から東側に続く桁行3間、梁行5間半の2階建部分が古い形態を残す。1階は西に8畳間、東に6畳大の板間を置き、2階は階段を挟んで6畳間と変形の3.5畳間が並ぶ。1・2階共に階段以東は改造が多いが、構造材は古く、当初から部屋の規模は同様であったと思われる。建築年代は明確でないが、鳳鳴亭と同様の庇構造であり、庇部分の取り合いの形態からみても同時期の建築の可能性が高い。なお、現状は、中央2階建部分の南側に桁行3間、梁行3.25間の台所土間が、また北側には桁行2間、梁行2間の突出部が付けられているが、これは後の時代(明治期か)に建て替えられたものであり、指定の対象としない。このように、鳳鳴亭、書院ともに造営年代の確証を欠くが、ともに文化12年以前であることは間違いなく、宝暦4年の可能性もある。また居宅中央の2階建部分もこれらと同時期の可能性がある。

 これら3棟は、それぞれに新田会所を構成する各種の建築の特徴をよく示すものであり、また全体として新田会所の建築構成をよく伝えている。大阪湾の河口一帯には複数の新田会所が所在したが、そのうち加賀屋新田会所の上記3棟は現地に遺存する唯一のものであり、貴重な遺構である。

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