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紙本著色絵系図 1巻

2019年1月9日

ページ番号:8989

紙本著色絵系図

しほんちゃくしょくえけいず

分野/部門

有形文化財/美術工芸品〔絵画〕

所有者

宗教法人 光用寺

所在地

大阪市淀川区西中島7

紹介

紙本著色絵系図 写真

 光用寺は天平19年(747)に行基が創建したという古寺で、当初は法相宗だったが、正中元年(1324)に時の住持である空専が、仏光寺7世の了源に帰依し、真宗に改めたという。また一説には建武3年(1336)の建立ともいう。

 真宗仏光寺派は、14世紀前半に了源によって発展拡大した一派である。了源は元亨3年(1323)に京都山科に興正寺を建立したが、元徳2年(1330)に渋谷へ移転し、仏光寺と改称した。13世光教の後継者である経豪が、時の仏光寺48坊のうち、42坊を率いて蓮如に従うまでは、その勢力は本願寺教団をはるかにしのいでいた。
 仏光寺派は大阪ともゆかりが深く、12世性善は13世光教に譲職した後、長禄元年(1457)に摂津平野に隠居しており、応仁の乱によって仏光寺が炎上すると、光教も平野に居したという。このように、室町時代の大阪には仏光寺派の勢力がかなり浸透していたことがわかる。光用寺の位置する淀川区域は、淀川と神崎川に挟まれた中州地帯である。古代から、京都と摂津・西国を結ぶ水陸交通の要所であるとともに、淀川の水利の便を背景にした豊かな土地であった。中世には、賀島(加島)庄や宮原庄などの荘園が営まれるとともに、三津屋城や堀城が築かれ、15~16世紀には摂津地域の戦略上の拠点となった。この地域には多くの仏光寺門徒が居していたと思われ、その中の一部は後に本願寺の配下に転じ、中嶋衆と呼ばれる有力な勢力を形成した。

 光用寺には、中世にさかのぼる絵画史料がいくつか伝来しており、それらはいずれも仏光寺派の勢力が淀川沿岸に及んでいたことを示すもので、中世の大阪を考えるうえで極めて重要な史料である。このうち絵系図は、冒頭に記された詞書きで親鸞に始まる仏光寺派の由来を記し、系図を作成する趣旨を述べ、さらに上下2段に人物を描いていくというものである。はじめに仏光寺7世の了源とその妻了明を左向きに描き、向かいあうように光用寺の歴代とされる空円ほか7名の肖像を描く。序題と呼ばれる詞書に正中3年(1326)の年記があるが、制作年代は室町中期とする説もある。

 大阪で在地に残る数少ない中世絵画のひとつであり、淀川流域の中世史を考えるうえで非常に重要な史料である。また、絵系図は仏光寺派特有の様式であるが、現状では全国の遺例は非常に限られている。その点でも非常に貴重なものといえる。

参考文献

信仰の造型的表現研究委員会編『真宗重宝聚英』(同朋舎 1987年)
『大阪市内真宗寺院の遺宝』(大阪市立博物館 1993年)
『仏光寺の歴史と信仰』(思文閣1989年)

 

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