第3回立葉地域
2024年7月1日
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座談会
地域の皆さんにお話を伺いました
のどかな戦前とB29が飛来する戦中
区長
北田さんは1934(昭和9)年の生まれでいらっしゃいますね。戦前、戦中のことを教えてください。
北田さん
私が芦原町で生まれた年の9月に、室戸台風がやってきました。母から、雨風がひどくて、足元まで水がやってきたと聞いています。
小さい頃は芦原警察署の近くに川があって、めだかやフナ、鯉がたくさんいて、よく遊びに行きました。小学校は難波芦原尋常小学校に通いました。途中で芦原国民学校という名前に変わりました。学校は今の東洋紙業株式会社のある場所にありました。
松岡さん
東洋紙業には今も、小学校だった頃の階段が残っています。
北田さん
戦争で都市部への空襲が始まり、小学4年生の時、和歌山の知り合いのところに疎開しました。
大阪に残った兄の話では、焼夷弾が落ちてきて、父親と一緒に火を消しに回ったけれど、とても消せるもんではなかったと聞きました。空襲の後に雨が降って来て、たくさんの人の亡骸のところでリンの光が動いていたという話も聞きました。
和歌山の疎開先では、B29戦闘機が上空を大阪の方に向かって飛んでいくのがよく見えました。中学2年生の時に大阪に戻ってきましたが、その頃にはまちもだいぶ片付いていました。
区長
浪速区では1947(昭和22)年に初めて中学校ができました。浪速第一中学校(現在の難波中学校)といい、創立当初は浪速区全域を校区としていました。
開校当初は大国小学校と今宮中学校(現在の大阪府立今宮高等学校)の2か所を仮校舎にしていたと聞いています。
北田さん
私たちは今宮中学校の方に通いました。その後、今のUR都市機構桜川市街地住宅(以下UR桜川住宅)のある場所に校舎ができました。それまでは間借りの学校ばかりでしたが、ようやく格好がつきました。
馬力馬や花電車が走った戦後
区長
森さんは終戦の年、1945(昭和20)年の生まれですね。
森さん
小学1年生の頃、近くに焼け残った兵舎があって、管理されずにお化け屋敷のようになっていました。
その中にヘルメットや木の銃が残っていたので、それをかぶってよく戦争ごっこをして遊びました。小学校の頃はこの辺りでも雪が降って、積もることがありました。そうしたら、竹を横に半分に切ったものを2つ、断面の方を上にして並べて、その上にみかん箱を乗せて「そり」を作るんです。大浪橋のてっぺんのところから、その「そり」で滑って降りて遊んでいました。
山本(悦)さん
大浪橋は太鼓橋のような形をしていて、結構、急こう配ですからね。
区長
そり遊びができたんですね。昔はこの辺りも冬は寒かったのでしょうか。
松岡さん
風呂屋から外に出て、しばらくしてタオルを振り回したら、凍っていたこともありました。
区長
他に、今では見られない光景はありましたか。
森さん
昔、西区に貯木場があって、よく馬で材木を運んでいました。馬の蹄(ひずめ)が道路のアスファルトに接触してパチパチ火花が出るのをよく見ていました。
区長
昔は馬が荷物を運んでいたんですね。
山本(悦)さん
昔はそれを馬力馬(ばりきうま)と言いました。サラブレッドの足を太くして、もうちょっと背を低くした感じの馬が荷物を運んでいました。
松岡さん
子どもの頃はよく、大浪橋のところで馬力馬の手伝いをしました。木材を乗せた台車が橋の坂を上がっていく時に、台車を後ろから押して馬を助けてやるんです。そうすると橋の上にアイスクリーム屋がいて、馬力馬のおっちゃんがおごってくれるんです。次に台車が坂を下る時は、坂の上側から台車を引っ張って、勢いがつき過ぎないようにするんです。アイスクリームを目当てに手伝いに行っていました。
区長
昔の資料にも、浪速区には運送業が多く、馬もたくさん飼育されていたとあります。
松岡さん
昔は木津川沿いに、たくさん運送屋がありました。
山本(悦)さん
木津川は大阪湾につながっているので、海運が運んできたものを陸運で運ぶ。だから今でもこの辺りには運送屋が結構多いです。
区長
立葉地域には、大きな「新なにわ筋」が南北に走っていますね。
山本(悦)さん
新なにわ筋の高速道路の真下には昔、家が並んでいました。それが全部立ち退いて、大きな広い道路になりました。小学校へ上がる頃まではそこは土の道で、だだっ広い良い遊び場でした。
大きな道路ができてアスファルトが敷かれた時には、現場の作業員が帰ったあと、みんなでローラースケートを持ってそこに出ていくんです。ローラースケートは鉄の駒だから、敷きたてのアスファルトの上を走ると、まだ固まっていないので溝ができます。
区長
道に型をつけたらあきませんやん(笑)。
山本(悦)さん
次の日に現場の人が見て、またアスファルトを敷き直します。でもまた夕方、作業員が帰ったらローラースケートを持って出て行きます。3日目ぐらいにようやく、現場の人から「やめてくれ。二日間ほどアスファルトの上を滑らないでほしい。その後は滑っていいから」と言われました(笑)。1965(昭和35)年ごろ、小学校低学年の頃の話です。
区長
皆さん、その時はローラースケートを持っておられたんですか。
山本(悦)さん
近くにおもちゃ屋があって、そこで買いました。アスファルトが固まってからは、家からホウキを持ち出してホッケーをしました。そうしたら家のホウキが皆、ボロボロになりました(笑)。そこを車が走るようになるまでは、絶好な遊び場でした。
区長
いたずらっ子だったんですね。他に面白いエピソードはありますか?
松岡さん
小学校に入学すると、登校する時に上級生に、ズボンのベルトの後ろのところに紐をくくりつけられました。紐の先端には馬蹄形をした赤と青の磁石がついていました。そのままジャラジャラと学校まで歩いていくと、一番年上のお山の大将が磁石についた鉄を回収して売りに行きます。私たちもその大将から、いくらか小遣いをもらいました。
区長
土の道に鉄が落ちていたのですか。皆さんは集団登校をしていたのですね。
山本(悦)さん
一番年上の子どもが黄色い旗を持って先頭を歩いて、その後を皆、ぞろぞろとついていくんです。新なにわ筋ができて、車が危ないので始まったのだと思います。その頃は子どもの数が多かったので、町会単位で集団登校をしていました。1グループ20人から30人くらいはいたのではないかと思います。うちの町会は小さな町会でしたが、それでも20人近くいました。
松岡さん
鉄のほかに、近くでビルが解体されたときは、電線とかを拾って売りに行きました。
山本(悦)さん
私たちはよく、木を集めていました。立葉小学校の床の張り替えがあると、その残骸が出るので、それを持って帰るんです。で、それを風呂屋に売りに行きました。
松岡さん
当時、マンホールがよくパクられて、単車が道路でひっくり返っていました。何でも取っていってましたね、あの頃は。そういう時代でした。
区長
先ほど新なにわ筋ができたときの話を伺いましたが、その東側にあるあみだ池筋は、以前は代表的な幹線道路で、市電が走っていたそうですね。
松岡さん
昔は、花で飾り付けられた花電車があみだ池筋を通っていたことが思い出されます。祭りの時に、花で飾り付けがされた電車が走っていました。三宝車庫前(堺市)まで行って乗り、桜川で下ろしてもらいました。
山本(悦)さん
花電車は本当にきれいでしたね。私たちは、花電車が通るのを見に行く方が多かったです。市電がなくなる頃まで走っていたと思います。
松岡さん
市電がなくなる時も、線路から外した石を皆、持って帰っていました。
区長
皆さん、当時はいろんなものを持って帰っていたんですね。
汐見橋駅と桜川駅周辺の発展
区長
ところで、立葉地域にある「汐見橋駅」は南海電鉄高野線の始発駅で、大変古い歴史があると聞いています。
山本(悦)さん
南海電車は今、細い線路になっていますけど、昔は大きな貨物線でした。立葉小学校にはその踏切を渡って通学していましたが、貨物が動き出すと渡れない。千日前通りまで出ていたらものすごく遠回りになるので、「渡ってはいけない踏切」を渡っていました。学校を出たところに無人の踏切があって、大人たちから「絶対に渡ったらダメ」と言われていましたが、みんな渡っていました。
松岡さん
今は高野山まで行くのに岸里玉出駅で乗り換えが必要ですが、以前は汐見橋駅から直通で行けました。小学生の時の林間学校は、ここから電車に乗って行きました。
山本(悦)さん
昔は立葉地域に難波八阪神社の御旅所(おたびしょ)(注)がありましたので、お祭りのときは神輿を引いていました。その頃は、汐見橋駅のところが途中の休憩所になっていました。
御旅所 祭神が巡行するときに仮に神輿を鎮座しておく場所
区長
山本さんは1985(昭和60)年に嫁いでこられたと伺いました。その頃と比べて、まちは大きく変わりましたか。
山本(昌)さん
それほど変わってはいませんが、市場の様子は変わりましたね。
今UR桜川住宅の1階にあるスーパーは、昔は市場になっていて、買い物かごを持って子どもを連れて買い物に行きました。子どもたちは市場の中を走り回っていましたが、市場の商売人さんたちが子どもの相手をして遊ばせてくれましたので、安心して買い物ができました。
山本(悦)さん
以前、桜川には「桜川公設市場」のほかに「新桜川商店街」と「汐見橋中央市場」がありました。私も子どもの頃は、公設市場の中で遊んでいました。夕方になったら、市場の事務所に大きなテレビがあったので、そこで相撲を観ていました。その3つが難波中学校の跡地にできたUR桜川住宅の1階に移転したんですが、まだまだその時分は昔ながらの市場の雰囲気が残っていました。
ちなみに、私が難波中学校にあがる時に学校が移転することとなり、2年生だけが残って、1年生と3年生は移転先の新しい校舎で勉強することになったので、通学がずいぶん遠くなってしまいました。
区長
さきほど室戸台風の話がありましたが、戦後、ジェーン台風や第2室戸台風も大きな被害をもたらしました。皆さんの家でも被害があったのでしょうか。
森さん
ジェーン台風の時には、家の前までポンポン船が流れてきました。
北田さん
道頓堀川の堤防が崩れて30分ほどで水が腰のあたりまで来ました。家の屋根が吹き飛ばされて、夜は天井を見上げると星が見えました。
森さん
うちもトタン屋根だったので、皆、飛んでしまいました。四軒長屋に住んでいましたが、素人が作ったような家なので、四軒分の屋根が一気にヒューっと飛んでいきました。
山本(悦)さん
住まいは区切られていても、天井は区切られていませんでしたからね。
より絆の強い地域コミュニティへ
区長
昔の地図に反物町という町名を見つけました。昭和42年まで長く使用されていたようです。
山本(悦)さん
私が住んでいる場所は昔、反物町という町名でした。確かに呉服屋が多くて、子どもの頃は不思議に思っていました。昔の地図に、呉服商から始まったあの「大丸」の名前のついた倉庫か何かが載っていたと思います。そこから小売店が増えていったのではないでしょうか。
区長
昔の風情のある町名がなくなってしまったのは、少し寂しい気がします。
最後に、今後の立葉地域に寄せる期待など、教えてください。
松岡さん
昔は一戸建ての住宅がたくさんありましたが、今はそれがなくなって、マンションが増えてきています。町会に入る人が少ないので、人と人とのつながりが薄くなってきていると感じます。今、もと立葉小学校の体育館が耐震性の関係で使用できませんが、そこが使えるようになれば、若い人たちが集まって来て、もっと絆の強い地域のコミュニティがつくれるものと期待しています。
区長
阪神なんば線の開通で交通の便がさらに良くなり、新しい住民の方も増えてきました。毎年開催される「立葉まつり」をはじめ、地域の活動に新しい人たちも巻き込んで、より絆の強い地域をつくっていってください。
立葉地域の歴史
江戸時代以前の立葉
石器時代は、昭和4年(1929)に行われた南海難波駅の工事のボーリングの際、多くの貝殻や海底生物の骨等が出土した結果、この辺りは海の底であったと考えられています。
立葉小学校の新校舎工事中のボーリング時にも、黒い粘土層の中に貝殻が多数ふくまれていました。
伝説によると、推古天皇元年(593)、四天王寺建立の際、諸国より建築用の材木が木の津に着した(のちに木津と称した)とされており、この頃にはすでに陸地化していたことが考えられます。
平安末期の記録によると、旧難波村辺りに、王家領荘園があったようです。
応仁の乱の時、享禄4年(1531)に細川常植が、晴元方の軍と戦って敗れ、天王寺、今宮、木津、難波に退いたとあり、この地で激戦の後、尼崎まで逃れていったとのことです。
石山本願寺攻防の時、本願寺方は、木津(西成区出城)、川口、三津寺に砦を築き、毛利軍の援護物資を寺内に運び入れるため信長軍と戦ったとあり、立葉地域も戦場になった可能性も考えられます。
江戸時代の立葉
元和8年(1622)、中村勘助が木津川を浚渫改修し、舟を通りやすくしました。これにより、木津川沿いの村々が栄えるようになりました。
慶安3年(1650)、氏原甚左衛門によって前埀島が開発され、下難波村新家となりました(寛政の頃、西側町と改称。現在の木津川1丁目)。
元禄11年(1698)、堀江新地(現 西区)が河村瑞賢により開発されました。幸町新地も同年に開発され、堀江との間に住吉、幸、汐見、日吉の四橋がかけられました。
汐見橋は、この場所で潮の干満が観察できたのでこの名がつけられたといいます。また、南側に唐金屋という掛屋がありこの人がかけたとの言い伝えから、唐金橋とも呼ばれました。幸町新地は奥行を40 間とり、表と裏に大道を設けて南側に幅20間の桜川を開削しました。
もともと木津川口には難波島があり、このため本流が分かれ、木津川及び三軒家川の二つとなり、水路の障害となったところから、元禄12年、河村瑞賢はその中央を開削して、木津川の水を一直線に海に導きました。そのためにこの島は分かれて、東側は新たに月正島と名付けられました。
その前年、木津川沿いの地と月正島の二地域が材木置場請地として住吉屋藤左衛門・多米由悦に与えられており、以降、当地は材木置場として用いられました(現在の木津川一~二丁目・久保吉二丁目)。
明治時代の立葉
古くから難波村、西側町、材木置場は西成郡に属し、明治22年(1889)に西側町、材木置場は難波村に編入されました。難波村は第一次市域拡張が実施された明治30年(1897)に大阪市南区に編入され、大正14年(1925)、第二次市域拡張により新たに設置された浪速区の区域となりました。
明治21年(1888)、現在の木津川一丁目あたりに、西側簡易小学校(のちの立葉小学校)が前田弥兵衛宅を仮校舎として開校しました。学校ができたころの立葉のまちは、住んでいる人も少なく、まわりもほとんどが田畑でした。当時の児童数は93名だったそうです。
立葉地域ではこのほかに難波第六尋常小学校(桜川小学校)が明治41年(1908)に、難波芦原尋常小学校が大正10年(1921)に開校しています。
近世以来の大阪では、道頓堀川をはじめとする水路の開削が進み、舟運が発達しましたが、その後、鉄道が舟運に代わる陸上交通の主役となりました。
明治18年(1885)に関西初の私鉄として阪堺鉄道が難波・大和川間を、明治22年(1889)に大阪鉄道が湊町・柏原間を開業したのに続き、明治33年(1900)には高野鉄道が西道頓堀(現 汐見橋)・堺東間を開業しました。大正11年(1922)、高野鉄道は高野大師鉄道とともに南海電鉄に合併し、南海高野線となりました。大正14年(1925)には汐見橋・高野下間が結ばれ、高野登山に多大な便宜を与えました。
大正時代の立葉
市電もすでに明治時代に営業が開始されており、大正4年(1915)には西道頓堀天王寺線(桜川2丁目-芦原橋-大国町-恵美須町-天王寺西門)のほか、九条高津線(安治川2丁目渡―玉船橋―汐見橋―桜川2丁目―湊町駅前―千日前-上本町6丁目)が開通し、これに伴い、桜川は埋め立てられました。
また同年、木津川に大正橋が完成しました。舟運の阻害をできるだけ防ぐため、日本一長いアーチ橋(90.6メートル)がかけられました。
人口の増加により、立葉小学校の児童数も大正7年(1918 )には、1,846人になりました。その頃は、運動場で全員が遊べなかったため、運動場は低学年、高学年は屋上を開放して遊んでいたそうです。
大正11年(1922)には桜川公設市場が開設しました。
昭和以降の立葉
交通機関の発達としては、阪堺電鉄が昭和2年(1927)、芦原橋・三宝間を開業しました(その後、昭和19年に市電が買収)。
また市電以外にも、大正13年(1924)から大阪乗合自動車株式会社が市内中心部の主要道路に青く塗装したバスを走らせ、昭和2年(1927)には、桜橋・堂島大橋・桜川2丁目・大国町・阿倍野橋の間に市バスが開業しました。
昭和11年(1936)、難波駅が高架線となったため、従来の難波駅の貨物の取り扱いが汐見橋駅に移され、戦前は繊維や雑貨、戦後は鉄鋼類など多くの貨物を全国に送り出しました。
貨物列車のほか、郵便や小荷物輸送も行っていましたが、昭和46年(1971)には貨物が、翌年に郵便が、翌々年には荷物輸送が廃止されました。
昭和12年(1937)、大浪橋が完成しました。木津川筋で、戦前に架けられた橋としては、最下流にあたります。建設にあたっては、地盤が軟弱なため、松の杭が多数打ち込まれました。この橋の完成によって、下の渡しが廃止されました。
昭和18年(1943)、紡績工場の跡地一万坪にプール、テニスコート、相撲場を配した一大運動公園として芦原公園が開園しました。芦原公園は終戦後は、戦災者仮設市営住宅用地にあてられました。
昭和20年(1945)の大阪大空襲により、浪速区は区域面積の約93%を焼失し、一面焼野原となりました。
戦後の浪速区は、人口が戦災前のわずか4%に激減し、当時、浪速区内の閑散ぶりを、俗に「浪速村」と称されたほどでした。
戦災復興土地区画整理事業は、浪速区では5つの工区において実施されることとなり、立葉地域は「汐見橋工区」として、昭和23年(1948)に事業計画が認可され、昭和42年(1967)に完了しました。
この事業により、広い道路やみどり豊かな公園が配置され、整然とした街並みができあがりました。立葉地域では、桜川公園が昭和29年(1954)に、立葉公園が昭和31年(1956)にこの事業により整備・開園されました。
またこの間、大阪港と連絡しやすい木津川沿いには造船所や倉庫業が発達しました。
1950年代後半からの高度経済成長期に入ると、モータリゼーション(自動車が普及し、人々の生活の中で広範に利用されるようになる現象)が進みました。立葉地域を通っていた市電は、昭和44年(1969)までに廃止されましたがその一方で、同年には地下鉄千日前線の野田阪神・桜川間が、翌年(1970)には桜川・谷町9丁目間が開通しました。
また、阪神高速道路の湊町・堺間が昭和45年(1970)に開通しました。
なお戦後、立葉地域にあった桜川国民学校、芦原国民学校は立葉国民学校に統一され、昭和22年(1947)、立葉小学校と改称。長く地域に愛されてきましたが、児童数の減少により、平成26年(2014)閉校され、塩草立葉小学校として再出発することとなりました。
昭和23年(1948)、その前年に浪速区で最初の新制中学として、区内全域を校区として開校していた浪速第一中学校(名称はその後、浪速西、難波中学校に改称)が桜川国民学校の跡地(現在のUR桜川住宅)に移転し、昭和37年(1962)まで多くの中学生がこの地で学び巣立ちました。
立葉幼稚園は昭和28年(1953)、私立立葉幼稚園として創立しましたが、翌29年には大阪市立の幼稚園として立葉小学校に併設され、昭和37年(1962)に独立の園となりました。
平成21年(2009)には、阪神なんば線が開通し、大阪・難波を経由して神戸・三宮方面と奈良などの近鉄沿線を直接結ぶ関西の広域な鉄道アクセスルートが形成され、そのルート上に新たに桜川駅が開設されました。立葉地域は交通の要所となり、その利便性を強みとして発展し続けています。
年表
- 元和 8年(1622年) 中村勘助が木津川を浚渫改修
- 慶安 3年(1650年) 氏原甚左衛門により前埀島を開発(のちに西側町と改称)
- 元禄12年(1699年) 河村瑞賢の難波島切開による木津川の直線化(月正島誕生。木津川沿いの地とあわせ、材木置場となる)
- 明治21年(1888年) 西側簡易小学校(のちの立葉小学校)創立
- 明治22年(1889年) 西側町、材木置場を難波村に編入
- 明治30年(1897年) 難波村を大阪市南区に編入
- 明治33年(1900年) 高野鉄道(現南海高野線)汐見橋・堺東間開通
- 明治41年(1908年) 難波第六尋常小学校(桜川小学校)開校
- 大正 4年 (1915年) 市電西道頓堀・天王寺線(桜川2丁目-芦原橋-大国町-恵美須町-天王寺西門)開通・大正橋竣工・市電九条高津線(安治川2丁目渡―玉船橋―汐見橋―桜川2丁目―湊町駅前―千日前-上本町6丁目)開通
- 大正10年(1921年) 難波芦原尋常小学校開校
- 大正11年(1922年) 桜川公設市場開設
- 大正14年(1925年) 浪速区誕生。 南海高野線として汐見橋・高野下間つながる。
- 昭和 2年(1927年) 桜島・堂島大橋・桜川2丁目・大国町・阿部野橋間 市バス開業 阪堺電鉄が芦原橋・三宝間開通(昭和19年に市電が買収)
- 昭和 9年(1934年) 室戸台風襲来
- 昭和12年(1937年) 大浪橋完成
- 昭和18年(1943年) 久保吉町に芦原公園開園
- 昭和20年(1945年) 爆撃により区域の93.4%が消失、終戦
- 昭和21年(1946年) 桜川国民学校、芦原国民学校が立葉国民学校に統一
- 昭和23年(1948年) 浪速第一中学校(浪速西→難波中学校)もと桜川小学校に移転 戦災復興土地区画整理事業の設計認可(汐見橋工区)
- 昭和28年(1953年) 私立立葉幼稚園新設(翌年、大阪市立立葉幼稚園となる)
- 昭和29年(1954年) 桜川4丁目に桜川公園開園
- 昭和31年(1956年) 立葉町に立葉公園開園
- 昭和37年(1962年) 難波中学校が現在地(塩草)に移転
- 昭和42年(1967年) 戦災復興土地区画整理事業が完了(汐見橋工区)
- 昭和43年(1968年) 福島-芦原橋-百済、芦原-出島間市電廃止
- 昭和44年(1969年) 地下鉄千日前線(野田阪神-桜川)開通
- 昭和45年(1970年) 地下鉄千日前線(桜川-谷町9丁目)開通 阪神高速道路(湊町-堺)開通
- 昭和49年(1974年) 2代目の大正橋完成
- 平成21年(2009年) 阪神なんば線開通、桜川駅新設
- 平成26年(2014年) 立葉小学校閉校、塩草立葉小学校開校
立葉地域の史跡と名所
南海高野線・汐見橋駅・芦原町(桜川3丁目8番、芦原2丁目5番)
南海高野線は、汐見橋駅から和歌山県伊都郡高野町の極楽橋駅までを結ぶ路線です。明治31年(1898)、高野鉄道株式会社により大小路(現・堺東)・狭山間が開通されたのが始まりで、同33年(1900) に汐見橋・大小路間が開通しました。
昭和の頃、汐見橋駅は貨物取扱量が南海全線中1位であり、戦前は繊維類や食料品など、戦後は鉄鋼類や木材などが運ばれていました。
昭和60年(1985)、立体交差事業により高野線の線路は分断され、いまは汐見橋駅と岸里玉出駅の間を各駅列車が往復しています。駅舎は至るところに昔の面影を残しています。
昭和50年頃の汐見橋駅構内
現在の汐見橋駅
木津川と前垂島
材木の寄り集まったことからその名があります。
貞享年間(1684~1688)、安治川の開削前は波華の湊として大いに栄え、安治川の出現後も木津川口といわれて、諸国船舶が行き交い、木津川二十四浜と言われ、木津川筋に24カ所の上荷船の浜がありました。
漸次下流は埋立てなどのために大阪湾に伸びていますが、当区の開発と発展には極めて深い関係のある河川です。
前垂島は川の流れを防ぐことが前垂れのようである事から名を得ましたが、慶安3年(1650)に開墾されて西側町となり、明治33年(1900)、木津川町1丁目となりました。
大正橋
大正4年(1915)、市電開通の時に木津川にかけられ、大正時代の幕開けを告げるものとして大正橋と命名されました。大正区の名称はこの橋名にちなんでつけられました。
舟運の阻害をできるだけ防ぐため、当時の日本では最も長いアーチ橋(90.6メートル)がかけられましたがその後、傷みがはげしくなり、昭和46年(1971)3月完全に撤去されました。
昭和49年(1974)に新しい橋として完成し、幅員41.6メートルと大阪で二番目に広い橋となりました。また、高欄にべートーベン作曲の交響曲第9番「喜びの歌」の音符がデザインされています。大浪橋
昭和12年(1937)、大きな帆船が頻繁に上り下りするため、橋脚を無くして、川幅を一跨ぎする橋が架けられました。木津川筋で、戦前に架けられた橋としては最下流にあたります。橋梁形式はアーチ部材がトラス状のブレストリブタイドアーチ橋が採用され、重厚な景観を造りだしています。また橋の桁下高を確保するために、橋面が高くなり、取り付け道路はかなり長くなっています。
大浪橋の名は大正区と浪速区を結ぶ新橋ということで区名の一字ずつをとって付けられました。
渡船
古来数多くの川が流れ、水の都と呼ばれた大阪には、人々の往来のための渡船場が各所にありました。
その昔、渡し守として世襲の家業で、遠く万治貞享の頃(1658~1688年)から続けられていましたが、明治40年(1907)、市内の全渡船場が市営となり、請負に付して経営されることとなりました。大正9年(1920)、旧道路法の施行により渡船は無料となり、昭和7年(1932)4月以降はそれまでの請負制を直営とすることに改めました。当区と大正区との境界をなす木津川は原則として無橋地帯で渡船によって結ばれ、4カ所の渡船場を有していました。
このうち瀬ノ渡は交通量の減少などによって昭和6年(1931)に廃止され、下ノ渡は大浪橋の架設に伴い渡船価値を失うに至ったので、昭和12年(1937に廃止されました。難波島渡と今木渡は、20年(1945)3月の戦災のため、施設の消失と交通量の激減により運行を休止。難波島渡は付近の諸工場の復興に伴い23年(1948)に復活しましたが、昭和57年(1982)に廃止となりました。
桜川
元禄11年(1698)、幸町新地が開発され、その南側に幅20間の桜川を開削しました。
川は難波村の用水路となり、幸町の南端から西に流れ木津川に注いでいました。大正4年(1915)の市電開通の際、東端の一部(湊町駅構内)を残して埋められました。参考資料
創立百周年・校舎竣工記念誌「立葉」(大阪市立立葉小学校)
統合記念誌「立葉」(大阪市立立葉小学校)
甦えるわが街(大阪市建設局)
浪速区・まちの歴史
浪速区史
新修大阪市史 第三巻
大阪市立中央図書館、大阪市建設局ホームページ
(注)この記事は地域の語り部の方々の発言をもとに作成しております。歴史考証はしておりませんので、予めご了承ください。
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