第6回敷津地域
2024年10月1日
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座談会
地域の皆さんにお話を伺いました
古くから市民生活を支えてきた大阪の台所 大阪木津卸売市場
区長
ではまず、昔々の敷津地域について教えてください。
米田さん
親父からは、浪速区ができる前は、西成郡木津村という地名だったと聞いています。畑が多くて、確か葱(ねぎ)がたくさん作られていたと思います。
区長
そしてこの地域に木津市場ができました。
松尾さん
大国神社の宮司さんから聞いた話では、木津市場ができたのは1800年代の初めだそうで古い歴史があります。当時の市場は大国神社の西北部一帯にあって、市場で働く人やその家族が市場の辺りに住んでいたそうです。
下野さん
戦前、南海電車ができるまでは、魚や青物はみな泉州の方から川で運んできました。木津川から浪速区役所の南側を東西に流れていた鼬(いたち)川に入って、今、高速道路が通っている昔の新川を通って運ばれていました。
区長
木津市場が今の場所に移転したのは1938(昭和13)年のことだと聞いています。でも1945(昭和20)年3月の空襲で焼けてしまったんですね。
松尾さん
空襲では焼夷弾とグラマン(戦闘機)に狙われて、逃げるのに精一杯だったそうです。大国神社を入ったところに手水社(手を洗うところ)があるんですが、その下に人間が入れるくらいの穴があって、そこにも人が潜り込んでいたそうです。
下野さん
私は1951(昭和26)年生まれで、生まれてすぐに大阪に来ました。子どもの頃は湊町駅がとても近くに見えました。当時はまだ、焼け野原の跡は草原が広がっていました。でも家の基礎は残っていて、そこで野菜を植えたりしていました。
当時はどこもかしこもバラックばかりで、公園の中もまわりもバラックが建っていました。ところが小学校4年生の時にそのバラックがみな消えて、そこに住んでいた友だちもいなくなりました。また、高速道路ができることになって、新川の土手の上(今の木津市場の東側)に家を建てて商売をしていた人は立ち退きで皆、敷津地域に引っ越して来られました。
米田さん
今、高速道路から下りてきたところには昔、大八車が並んでおり、木津市場で仕入れて野菜や果物、魚を仕入れて売りに行く行商の人たちがいました。
区長
ちなみに以前は皆さん、どこで買い物をされていたんですか。
松田さん
元町に難波市場がありましたのと、今のなにわ生野病院に昔、市場がありました。この辺りはその2か所でしたね。
米田さん
それより前には大国3丁目にも市場がありました。
松尾さん
市場もありましたが、昔は大八車で行商がよく売りに来ていましたよ。
下野さん
木津市場のほうは空襲で焼けて、食品関係のほとんどが松屋町に移転したそうですが、1950(昭和25)年に地元の有志によって再開され、トタン屋根のボロボロの市場でしたけどとても繁盛して、民間の卸売市場としては日本最大級の規模を誇る市場となりました。
この地域は木津市場の城下町で、市場の関係者がたくさん住んでいました。
昭和34年頃の大阪木津卸売市場(写真提供:大阪木津卸売市場)
区長
そのお子さんたちはみな、敷津小学校に通っていたんでしょうね。
松尾さん
そういう意味でも木津市場と小学校は共に栄えてきました。以前は学校や地域の行事があった時は、よく木津市場からご祝儀をいただいていました。
区長
敷津小学校も今年150周年を迎える歴史ある学校ですね。
昭和11年の大阪市敷津尋常高等小学校(出典:創立130周年記念誌SHIKITSU)
松尾さん
敷津小学校は最初、唯専寺に作られ、木津市場の中に移転し、その後、今の場所に移転しました。
地域の力で学校設備を充実
区長
その小学校も1945(昭和20)年の空襲で被災したと聞きました。
森近さん
私は1951(昭和26)年にここに来て、小学校の2年、3年生の時は大国小学校に通いましたが、児童の人数が増えたので、今の国道25号ができたときに私たち北側に住んでいた子どもは敷津小学校へ行くことになりました。
敷津小学校が再開される前は、四角い、ふさのついた制帽の学校が入っていたんですよ。
米田さん
教育大の附属小学校のことですね。
松尾さん
終戦直後は浪速区役所が敷津小学校を使っていましたが、敷津小学校が1953(昭和28)年に再開校する前にはその学校が入っていたんです。
森近さん
1956(昭和31)年に敷津小学校を卒業しましたが、そのとき講堂はありませんでしたので、普段、レールで2つに分けて別々に使っている教室を1つにして、そこで卒業式をしました。
プールは汚かったですが、その当時もありました。
小池さん
私は1948(昭和23)年生まれですが、当時のプールはコンクリート打ちだったので、飛び込んでよく擦りむいたのを覚えています。
松尾さん
敷津小学校を再開校した時、学校には全然、設備がありませんでした。そこから有志がたくさん寄付をしていろいろと設備もできたんですが、それでも足りないので父兄が今宮戎神社の十日戎の時に笹売りをすることにしました。でもあまり儲からなかったので次は飴売りをすることになりました。本当は先生方は参加してはいけないのですが、先生方も全員、徹夜で父兄と一緒に売ったそうです。そのお金で小学校の図書館とか、私たちの時代はカラーテレビとか、そういったものを増やしていきました。
昭和48年 再開校20周年当時の敷津小学校の正門(出典:創立130周年記念誌SHIKITSU)
米田さん
お茶の設備も買いましたね。今でいえば、給湯器をつけたような形でね。お茶の葉を入れておいて、蛇口をひねるとコップにお茶が出てくるんです。
松尾さん
最高の時は、2日間で500万円くらいの売り上げがありました。学校の看板をあげているので父兄がみんな買いに来ますし、学校だから信用があったんです。業者よりも安く売っていたので余計にたくさん売れました。
その後、敷津小学校の校舎を全館、建て替えることになりました。戦争でほとんどが焼けましたが、北側の校舎だけ残って、それを戦後も使っていました。でも、火が入っていますでしょう。それで全部建て替えることになりました。
米田さん
校舎は1982(昭和57)年に完成しました。私が前年にPTAの会長をしていて、その次の会長の宮前さんの時に完成したのでよく覚えています。
松尾さん
校舎が完成して、クーラーなどの設備もすべて整えられました。そうなると飴売りをする理由がなくなりましてね。宮前さんが会長の時に辞めたんです。それも英断ですよ。恵美小学校もPTAが飴売りをしていましたが、今はOBがしています。その前は、元町小学校も大国小学校も飴売りをしていました。
区長
学校に満足な設備がないからPTAで稼ごうというのは、すごいですね。
松尾さん
その当時、そういった活動を皆さんにも知ってもらいたいと思って、どうしたらよいか話し合いました。やはり広報が1番いいだろうということになって、敷津地域の広報紙「敷津友愛」を1989(平成元)年から作るようになりました。これなら各家庭に行きますので、敷津連合がこういう活動をしているんだということが皆さんにわかりますからね。当時、浪速区でこういう地域の広報紙を作っていたのは敷津と塩草だけでした。それから毎年発行して、今では34号になっています。
小池さん
昔、小学生の時、始業時間などを今のようにスピーカーから音楽を流すのではなくて、小遣いさん(施設管理員さん)が鐘でカンカーンと鳴らして知らせていました。
小学校には放送部があって、授業が終わって昼休みに入ったら音楽をかけるんです。ある日、まだ授業をしているクラスがあったのに音楽をかけたのでとてもしかられた思い出があります。松尾さん
その放送設備にしても地域からの寄付なんです。それまでは放送設備がなかったから、鐘を使っていたのではないかと思います。
区長
大阪市の小学校は面積の狭い学校が多いのですが、敷津小学校もそうですね。
松尾さん
敷津小学校もグラウンドが狭かったので、だいぶ公園をもらいました。
区長
今も位置づけは公園になっていて、借りている状態のようです。
米田さん
当時、公園愛護会からもいろいろと言われましたが、子どもたちのためでしたからね。それで、今の市営住宅の南側に細い公園がありますでしょう。1982(昭和57)年にあそこに持っていったんです。枝垂れ桜のある公園のところです。
区長
敷津地域には中華学校がありますが、小学校や地域と交流はあるのですか。
松尾さん
今はどうしているかわかりませんが、以前は敷津小学校のプールを中華学校の生徒に貸したり、それぞれの発表会の時には踊りに来てもらったり、こちらからも行ったりして交流がありました。また地域には、今も春節祭には招待状をいただいています。
なつかしい市電の思い出
区長
敷津地域には国道25号線が通っていたり、地下鉄大国町駅もあります。昔は市電も走っていました。
松尾さん
大国神社の宮司さんから聞いた話では、ちょうど大国神社の前に「大黒神社前」という市電の駅があったそうですよ。
区長
「大国町」や「大国神社」の「大国」ではなく、「大黒天」の「大黒」だったんですね。
松尾さん
市電は1915(大正4)年に桜川から芦原橋、大国町、恵美須町を通って天王寺西門に行く西道頓堀天王寺線ができました。
そのあと賑橋(にぎわいばし)から元町、大国町までいく難波木津線ができて、天王寺西門、阿倍野橋に行けるようになりました。それが廃止されて福島の方から寺田町を通って阿倍野に行くバスになりました。でも乗る人が少なかったので赤バスになり、それも廃止になりました。
松田さん
うちの家の前を市電が通っていましてね。福島に行く市電もありましたし、なにわ筋を通って大和川の方に行く市電もありました。
市電といえば、花電車がきれいだったのを覚えています。いつ通ったのかはっきり記憶にありませんが、たぶん、廃線になる前に最後だということで走ったように思います。
小池さん
市電は行先によって車両の形が違うんです。桜川の方に行く市電はランプが上の方についていましたが、別の路線の市電は下の方にランプがついていました。
松田さん
私は昭和30年代の生まれですが、地下鉄の大国町駅の外で女性が地下鉄の切符を売っていたことをよく覚えています。
区長
地下鉄の切符を売っていたんですか。
松田さん
はい。駅の外で売っていました。寒い時は手袋を半分切って、指だけ出して売っていました。交通局の人ではないんです。一般の女性が生活のために11枚つづりの回数券をバラして売っていたんです。
森近さん
当時の大国町の駅は、道路の穴から狭い階段を降りていくようなところでしたね。昔は新聞もベニヤ板に載せて売られていました。
米田さん
さきほど少し市バスの話が出ましたが、今、市営住宅が建っているところは以前は市バスの車庫になっていましたよ。
かつての浪速名物「だいがく」
区長
今日は、上田さんが面白い写真を持ってきてくださいました。
上田さん
これは私が子どもの頃、夏祭りの時に撮ってもらった写真ですが、「台舁(だいがく)太鼓」という変わった形の太鼓が写っています。
だいがく太鼓(写真提供:上田典子さん)
区長
「だいがく」は提灯を吊るした山笠のことで、昔はもっと大きな「だいがく」を神社の夏祭りの時に大勢の人でかついで練り歩いたそうです。戦争でほとんどの「だいがく」が失われてしまったと聞きました。
敷津松之宮のだいがく
松尾さん
木津村には6つの「だいがく」があったと聞いています。今は、西成区の生根(いくね)神社にまだ残っていると聞いています。
上田さん
今まであまり意識していませんでしたが、私が子どもの頃はその「だいがく」のミニチュア版をみんなで引っ張っていたんですね。
区長
そういうものが今では写真でしか見られないのは寂しい気がします。
幻の折口信夫記念館
区長
話が少し変わりますが、敷津にゆかりのある歴史上の人物についてお尋ねします。
松尾さん
国文学者の折口信夫はこの敷津地域の出身です。その碑が鴎町公園にありまして、公園の中にある老人憩いの家をその記念館にしようと地元でもだいぶ運動をしました。そうすると敷津に記念館ができるという話が伝わって全国から折口信夫の資料が送られてきました。それらを当時、折口の研究をし連合会長もされていた方のところに置いてあったんですが、そこが火事になって資料のほとんどが焼けてしまい、残念ながら実現しませんでした。記念館が完成したら校長先生に定年後に館長になってもらおうといった話もしてたんですがね。
米田さん
木津勘助は蔵破りをした盗賊ですが、みんなのためにそれをした人で、氷屋をしていた新野さんが中心になって、大国神社の北側に勘助の銅像を作りました。勘助のお墓は唯専寺にあります。
私たちも今でも毎年、10月のいつだったか忘れましたが、お参りをしています。
会社や工場が次々に移転
区長
当時の皆さんにとっては英雄ですね。
昔の資料を見ると、その名をつけた「勘助町」や「鴎町」といった名前の町名がありますが、今はなくなってしまいましたね。
米田さん
それで今、しんどい思いをしています。
松尾さん
住居表示が変わった時に町会名も一緒に変えないといけなかったんです。学校は住居表示の住所を使うので、町会がどこかといわれてもわかりませんから。
米田さん
大国地域にも以前、鴎町や勘助町がありましたが、大国はそのときに町会名を皆、変えました。でも、敷津はいろいろあって変えませんでした。だから今、しんどいんです。
区長
敷津地域ではマンションが増えました。以前はこの地域に企業がたくさんあったそうですね。
下野さん
敷津も景色が変わりました。大きな会社がみな移転してしまいましたから。今の図書館とその横のマンションには以前、タクシー会社の「あさひタクシー」がありました。小学校の前のタワーマンションの場所には以前、中央交通の中央ビルもこの地域にありました。
森近さん
日通もありましたし、新野新さん(放送作家)の実家の氷屋さんもありましたね。
米田さん
今のくら寿司とコンビニの場所には、日本冷蔵の木津工場がありましたよ。
松田さん
地場産業と言えると思うんですが、大国もそうなんですが、すだれ屋さんが何軒もあったんですよ。
森近さん
芦原があったからでしょうかね。
松尾さん
残念なことに、「クボタ」さん(株式会社クボタ)も2年後に移転されると聞きました。今ある会社の敷地には昔、工場があって、船出工場と呼ばれていましたけどね。
下野さん
小さい頃は工場のところで遊んで、よく骨折していました(笑)。
若い世代の横のつながりの強さに期待
区長
最後に皆さんにとって、敷津地域はどういうところか、これからどんなまちになって欲しいか教えてください。
米田さん
ワンルームマンションがどんどん建って、子どもの数がとても減ってきています。10年後にはまちの姿がかなり変わって、昔の敷津はよかったなと思われることになるでしょう。松尾さんが連合会長をしている時分から、「安全安心のまち」をキャッチフレーズにやってきたので寂しい気がします。皆さんにはもっと頑張ってこの地域を盛り立ててもらいたいと思います。
上田さん
まだまだマンションがこれからも増えて行って、敷津はマンション村になるような気がします。でも、私たちの孫が大人になった時は、もっとハイテクな時代になっていくと思うので、それで何か新しいものを作り出して、この地域の発展につなげてもらいたいです。
松田さん
私たちが子どもの頃はアスファルトはなくて、土で遊んでいましたが、今はどこにいっても、アスファルトやコンクリートです。人口も減っていく中で子や孫に多くを期待するのは難しい気がしますが、敷津地域は難波や天王寺に比較的近い位置にありますので、難波や天王寺にないものができればまた、違ってくるように感じています。なにか特色が出せるとよいのですが。そういうものに期待したいです。
小池さん
私たちの子どもも巣立ち、外に出て行ってしまっています。地域は小学校を中心に回っているので、今、学校の再編の話が出てきているのは、ものすごく心にひっかかるところがあります。さっきマンション村のお話もありましたが、地域のつながりがなくなっていかないように、なにか人を呼び込めるようなものを持ってこれたらと思っています。敷津地域は浪速区の中心、大阪市の中心にありますのでね。そこを何とか発展させていきたいと思っています。
森近さん
私の家の近所は子どもさんが出て行って、高齢者ばかりになっています。子どもさんがいるようなファミリー層にもっと住んでもらいたいです。
松尾さん
もともと敷津の市営住宅は建替え用の住宅で、よその市営住宅が古くなって建て替えが必要になった時に敷津の住宅にいったん移って、新しい住宅が完成したらまた引っ越しされる状況でした。それで浅野区長の時に、ファミリー向けの一般募集をするように働きかけをしてくれて、子どもがとても増えました。小学生も一時は80人ほどだったのが100人位になったんです。
でもまた児童の数が減っています。敷津には幼稚園も保育所もありません。だからファミリー層が来ないんです。新婚さんは来るんですが子どもが生まれると出て行ってしまいます。だからぜひ、この地域に保育所を持ってきたいと思っています。
区長
浪速区では新規の保育所の事業者募集は敷津地域に限定して行っているのですが、手があがらないんです。
松尾さん
敷津では子ども会がとてもがんばっています。みな、仕事を持っていますが、子ども食堂やら餅つきやら、いろいろな行事をしてくれています。ウォーキングラリーは月に1度実施していて、もう20年以上も続いています。一時期は地域の町会対抗ソフトボールもしていました。その後、スリーアイズになり、今はグランドゴルフをしています。これからも住民に希望をもってもらえるような地域づくりを進めてほしいです。
区長にお願いしたいのは、鴎町公園の中にある老人憩いの家のことです。大阪市から撤去の話もあったようですが、もったいないのでね。内装だけでも1千万円くらいはかかると思いますが。地域にはお金がありません。
区長
集会所の修繕を補助する制度はありますが、補助金の上限額もありますので、大きな改造は難しいかもしれませんね。
松尾さん
住んでいる方に希望を持ってもらえる、住んでよかったと思ってもらえるまちになればと思っています。
下野さん
敷津地域は大阪のド真ん中にあるので、発展はすると思います。でも、個人経営の店はつぶれて、店といえばフランチャイズばかりができています。店がつぶれたらそこを売って出ていきます。これまで多くの商売人が敷津から出ていきました。まちは発展するけれど、定住してくれる人が減っています。
住み良いまちにしていくために、まちづくりを若い人たちに譲りたいと思っています。以前、子ども会の面倒をおじいちゃんやおばあちゃんがみていましたが、私の代の時に元PTA による子ども会に変えました。若い人は横のつながりがすごいですからね。そういう横のつながり強い人たちに今後を期待しています。
敷津地域の歴史
木津の今昔
敷津地域のあたりは、古くから「磯城津(しきつ)」あるいは「敷津」の浦、木津と呼ばれていました。
木津の地名の発祥は、伝承によると、
『1300余年昔 推古天皇元年 聖徳太子四天王寺建立の発願あり、その用材を敷津の浦に集貨されしより木の津(港)即ち木津と申し伝う』
とあります。
この地は、昔は淀川の河口に臨んだ港で、交通の要路として栄えました。遠く住吉浦から続く海浜で、
『舟なから 今宵ばかりは 旅寝せむ 敷津の浦に 夢はさむとも(新古今集)』
と歌われ、風光明眉な景色であったといいます。
木津の名は遠く奈良朝時代にすでに文献にあらわれています。以来、1897(明治30)年4月の大阪市第1次拡張により南区に編入されるまで木津村として続いてきました。
石山本願寺の門前町から発展した大阪は、豊臣時代を経て徳川時代になり、幕府の直轄地、即ち天領として大阪城代の管轄下におかれました。当時市街地は大阪三郷と称され、政治の中心の江戸に対して日本経済の中心地をなしており、徳川中期にはすでに人口30数万を数えたといわれています。道頓堀川を隔ててこれに対するのが難波村と木津村でした。
木津村は1609(慶長14)年の片桐市正の古検地によると、東之町・西之町・中之町・岡之町・大道町・新町の6か町があり、人はみな崇神敬仏の念が篤く、平和な村であったと記録されています。(由良源兵衛氏「木津小史」参考)
また、1743(延亨3)年の木津村明細帳によると、当時の家数は994軒、人口は3183 人で、鼬(いたち)川を境に北に難波村と接する広々とした畑地でした。1863(文久3)年の大阪産物名物大略には、
『天王寺かぶら・天満大根・木津ニンジン・難波葱・藍・市岡西瓜・毛馬きゅうり・吹田烏芋木津干瓢(かんぴよう)冬瓜・平野綿・木津川蜆(しじみ)住吉蛤(はまぐり)・今宮金魚』
と記録されており、特に木津村は干瓢の主産地で「夕顔の里」とも呼び、伝承によると神功皇后時代に三韓から初めてこの地に渡来したといいます。
大阪の古い里謡に、『娘にやるまい 木津今宮へ 夜さり 干瓢の 皮むかす』という素朴なひと節があります。最盛期の7月頃には白く滝のように干した干瓢が、家々の軒先の至る所に干し並べられ、その様子がおもしろく、
『神のなす瓜なればこそ 白幣に 宿も賑ふ タ顔の里』の古歌も残されています。
木津村は地理的な条件が米作に適せず、専ら大坂という大都会の消費人口に依存する野菜作りの農村でした。木津村のほか、難波村、今宮村、高津村など南周辺部の8か村を総称して、畑場8か村といわれていました。
木津市場の誕生と敷津小学校
当時の卸売市場は幕府が認可した天満の青物、雑喉場の魚、靭の海産物と限定され、特別な保護を受けていました。
木津村などで作った作物は全て天満市場に搬入され、ここで問屋や仲買によって市中の小売商に売りさばかれていました。輸送機関の発達していなかった当時、搬入は生産者が直接、車や舟、天びん棒等で持って行っていました。しかし、持ち込んだ作物の価格は問屋の独断で一方的に決められていました。
道頓堀川を1つ隔てた大消費地を控えながら、遠い天満まで時間と労力をかけて作物を持って行くよりも直接、その地域の小売商に販売した方が便利で有利なのは誰が見ても明らかで、そのようなことがすでに行われていたことは容易に想像でき、1714(正徳4)年の徳川6代将軍の時代の文献にも書かれています。
以後、8か村の百姓たちは力をあわせてたびたび大阪の南部地区に市場の開設が許可されるよう監督官庁である大阪町奉行所に請願しましたが、その度ごとに天満市場の問屋の反対にあい却下され、ますます厳重な取締りを受けました。しかし生活がかかっていましたので、農民たちはあきらめず、100年近く続けられました。時には農民の代表者や当事者が体刑や罰金刑などを受けることもありました。
1804(文化元)年に、三郷以外の西成郡の村々の徴税・行政権を持っていた代官(町奉行とは別に郡部の支配をしていた)に篠山十兵衛が就任し、農民の窮状を助けようと町奉行、天満市場の問屋仲間など各方面に働きかけて斡旋・努力し、遂に1809(文化6)年6月、条件付きで難波村の農民の市場営業の許可を天満市場の問屋仲間に承認させ、町奉行が相方立ち合いのうえで認可しました。さらに翌年、木津村においても村民が自作した青物を直売したいことを天満市場に申し出て、難波村と同一条件で承認されました。
このことに尽力した代官篠山十兵衛を徳として、篠山代官の没後、難波村と木津村の農民は神として難波八阪神社に祀りました。現在も摂社篠山神社として同社の一隅に祀られています。
明治の初期、木津村と難波村の境を流れていた鼬(いたち)川が改修され、この両岸を中心とした、現在の敷津松之宮・大国主神社の西北部一帯が旧木津難波市場の中心地となりました。
明治初年には早くも青物・魚市場として発展し、各産物の問屋が軒を並べ、夜明け前からのざわめき、手押し車の響き、木津全体が市場を中心に活動と静止とを繰り返す賑わいでした。この頃、敷津小学校の児童の半数以上が市場関係の子弟でした。
市場は益々発展し、北の天満に対して南の木津と確固不抜の地位を築いたのです。
敷津小学校の歴史は古く、その創立は1874(明治7)年に遡ります。校名は「第3中学区第6大区第1小区第5番学校」といい、唯専寺の一部を仮校舎として、児童100余名でのスタートでした。
1879(明治12)年に「木津小学校」と改称され、2年後の1881(明治14)年には木津市場のエリア内に校舎を新築して移転しました。現在の場所に小学校が移転したのは1911(明治44)年のことです。
木津市場の移転
大正年間となり、第1次世界大戦が終わった1918(大正7)年頃、日用品の廉売、物価の安定を図るため、大阪市は公設市場を設置しました。また同年に「米騒動」が起き、国民大衆の食生活が非常に不安定となりました。なかでも生鮮食料品の安定供給の必要性が高まり、取引の正常化や適正な価格形成を目的として、1913(大正12)年に中央卸売市場法が制定されました。大阪市も公設市場の親市場として、中央卸売市場の開設に取り組み、1931(昭和6)年11月に現在の福島区野田に中央卸売市場(本場)を開場しました。
しかしながら全市の卸売業者を全員収容することは不可能でした。そこで柴田大阪府知事、関大阪市長等の努力によって天満、木津の市場を配給所とし、全市に3つの卸売市場ができたのです。しかし天満と木津の市場は近い将来、改装して十分な市場機能を備えることが条件とされました。
道路も狭く、各業種が入り混じった木津市場がこの条件に沿うべく完成したのが、もと朝日紡績の敷地跡だった現在の場所です。1938(昭和13)年に建物を完成させ、旧市場から移転しました。総面積は33,679平方メートル(10,189坪)で、名称も「木津卸売市場」に改められました。
しかしながら当時すでに日中戦争がはじまり、さらに太平洋戦争に突入した日本は自由経済から戦時統制経済に移行していきました。1943(昭和18)年8月以降、木津分場と改称され、大阪東南部の食料品配給所の基点となり、業者は分荷員、配給所員となり、市場に本来の姿はなくなってしまいました。
敷津地域は1945(昭和20)年3月13日夜半から14日未明にかけての大空襲により、ことごとく灰じんとなり、瓦礫の続く惨憺たる情景となりました。木津市場は全焼し、その活動を停止して終戦を迎えました。小学校の鉄筋校舎だけは人々の防火活動によって焼失をまぬがれましたが、空襲の翌日からは浪速区役所の業務に使用されることとなりました。
戦後の浪速区は、人口が戦災前のわずか4%に激減し、当時、浪速区内の閑散ぶりを、俗に「浪速村」と称されたほどでした。
戦後の復興
戦災復興土地区画整理事業は、浪速区では5つの工区において実施されることとなりました。敷津地域は「湊町工区」「東部工区」として、1947(昭和22)年、1949(昭和24)年にそれぞれ事業計画が認可され、事業が開始されました。
この事業により、広い道路や公園が整備され、敷津地域では鴎町公園が1956(昭和31)年に、高岸公園が1971(昭和46)年に供用開始されました。
また、敷津小学校は終戦直後の1945(昭和20)年11月に大国国民学校に統合され、しばらくの間、児童はそちらに通学しましたが、1953(昭和 28)年4月に再開が果たされることとなりました。
伝統ある木津市場も1950(昭和25)年12月、旧市場の有志によって日通の車庫や修理工場だった廃墟を市から払い下げを受けて改装され、各種の業者約100名の入場により民間の大阪木津卸売市場として再開場しました。さらに新たな卸売市場法のもとに大阪府知事の許可を取得し、1973(昭和 48)年には「大阪木津地方卸売市場」と改称、日本最大級の規模を誇る民間の地方卸売市場として現在に至っています。また2007(平成19)年からは再開発事業に着手し、2010(平成22)年にリニューアルオープンしました。
大阪木津卸売市場(写真提供:大阪木津卸売市場)
再開発とまちづくりへの期待
また、木津市場の東側エリアでは、1995(平成7)年から進められてきた土地区画整理事業による再開発の一環として、2010(平成22)年に高層分譲マンションが、2013(平成25)年には複合ビルが完成したほか、その前年にはライブホール「Zepp Namba(OSAKA)」が開業し、賑わいが南へと広がりました。
その北側エリアに本社を構える株式会社クボタが2年後(令和8年)をめどに本社を北区に移転することを発表しました。
地元では、移転後の本社敷地の活用が地域のさらなる成長や発展につながることを期待して高い関心が集まっています。
年表
- 文化 7年(1810年) 大阪代官篠山十兵衛景義の斡旋により、市場の開設を官許される(大国主神社西北部一帯)。
- 明治 7年(1874年) 第3中学区第6大区第1小区第5番学校(現 敷津小学校)創立。唯専寺の一部を仮校舎とする。
- 明治14年(1881年) 木津小学校(現 敷津小学校)、木津市場内に移転
- 明治44年(1911年) 小学校が現在地に移転
- 大正 2年(1913年) 難波青物市場と木津魚市場が合併し、木津難波魚青物市場と称する。
- 大正 4年(1915年) 市電西道頓堀天王寺線(桜川2丁目―芦原橋―大国町―恵美須町―天王寺西門)開通
- 大正 5年(1916年) 市電難波木津線(賑橋―八坂神社前―大国町)開通
- 昭和 6年(1931年) 木津市場が大阪市中央卸売市場 木津配給所となる
- 昭和 9年(1934年) 室戸台風襲来
- 昭和13年(1938年) 地下鉄御堂筋線(難波―天王寺)開通 中央卸売市場木津配給所が現在地に移転、木津卸売市場と改称する。
- 昭和17年(1942年) 地下鉄四つ橋線(大国町―花園町)開通
- 昭和20年(1945年) 爆撃により区域の約93%が消失、敷津国民学校に区役所を移転 (昭和24年2月に現庁舎に復帰)
- 昭和20年(1945年) 終戦、枕崎台風襲来、敷津国民学校を大国国民学校に統合
- 昭和22年(1947年) 戦災復興土地区画整理事業(湊町工区)の設計認可
- 昭和24年(1949年) 戦災復興土地区画整理事業(東部工区)の設計認可
- 昭和25年(1950年) ジェーン台風襲来 民間の大阪木津卸売市場として再開場
- 昭和28年(1953年) 敷津小学校として再開
- 昭和36年(1961年) 第2室戸台風襲来
- 昭和38年(1963年) 市電難波木津線(賑橋―大国町)廃止
- 昭和40年(1965年) 地下鉄四つ橋線(西梅田―大国町)開通
- 昭和43年(1968年) 市電西道頓堀天王寺線(桜川2丁目―天王寺西門)廃止
- 昭和48年(1973年) 木津卸売市場が大阪木津地方卸売市場と改称し、民間の地方卸売市場として日本最大級の規模を誇る。
- 昭和59年(1984年) 浪速図書館開館
- 平成 3年(1991年) 戦災復興土地区画整理事業(湊町工区全域、東部工区の関谷・恵美須・新川町付近)換地処分
平成22年(2010年) 大阪木津卸売市場リニューアルオープン
平成24年(2012年) ライブホール「Zepp Namba(OSAKA)」開業
敷津地域の史跡と名所
鼬(いたち)川
伝承によると、四天王寺建立の用材が木津の地に集積されましたが、道らしい道もなく谷の横たわる当時の荒陵の地に、数多い巨材を運び上げる工事は至難の技で、工人たちもどうすればと弱りきっていたところ、ある夜古老の夢の中に白い大きな鼬が現れ、「わが行く道跡を見よ」と、振り返りつつ東に走り、ついに荒陵の森にその姿を消したといいます。人々はこの不可思議な夢こそ神の啓示と話し合い、その道跡に従って堀を開削し水運によって容易に用材を運搬することができたとあり、「鼬川」の名もこのことに由来すると物語っています。
この川は恵美須町付近から西へ流れ、少し右折して廣田神社の北で再び西流し、現在の浪速区役所の裏側筋を東西に流れ、十三間堀川を経て木津川へ流入していました。
やがて市街化が進むにつれて汚水が停滞するようになったため、1879(明治12)年、難波村の小野弥左衛門と津守新田の江上田米助の両氏によって難波入堀川と連絡し、次いで1896(明治29)年には高津入堀川とも連絡して、舟運と灌漑の便が計られました。
しかし年とともに利用価値が低下したため大部分は戦前に埋立てられ、残っていた芦原橋下流も姿を消してしまいました。
いま、その名残りとしては、浪速西公園の戦災供養碑の傍にある芦原橋の橋名柱と、鴎町公園の勘助橋跡の碑を見るに過ぎません。
敷津松之宮・大国主神社(敷津西1丁目2番)
明治時代の末までは木津八阪神社と呼ばれ、木津地域の氏神でした。
社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見て、「これから汐が満ちてはいけません」と松の木を渚に三本植え、素戔嗚尊(すさのおのみこと)をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。
866(貞観8)年の夏、天下に悪疫が流行したので災いを除こうと、僧円如が京都の祇園の牛頭天王を播磨の国唐崎より勧請の途中で松之宮に立ち寄ったところ、当社の祭神も牛頭天王と同神であるところから、当社を祇園または牛頭天王社と呼ぶようになりました。
また、境内摂社の大国主神社は宝暦年間(1751~64)に、出雲杵築大社より大国主大神の御神霊を勧請したものです。甲子(きのえね)の日には多くの人が参拝に訪れるなど、木津の大国さんとして非常に賑わいました。
第2次大戦により社殿は焼失しましたが、人々の熱意により1949(昭和24)年に再建されました。戦前は、敷津松之宮社と大国社は2社として各々西面して建てられていましたが、戦後は大国社も本殿に合祀し、1社南面で現在見るような姿になりました。境内に木津勘助の像があります。
敷津松之宮・大国主神社
だいがく
敷津松之宮夏祭りの7月16日・17日に京祗園祭りに呼応してかつぎだされる「だいがく(台舁)」は、浪速名物の1つでした。
だいがくの起源は古来大甞祭に用いられる標山(しめやま。大嘗祭 (だいじょうさい) のとき、大嘗宮の前に役人が立ち並ぶ位置を示すための目印。各地の祭礼にみられる山・鉾 (ほこ) などの原型とされる。)といわれ、江戸中期頃より存在したようで、高さ17~8間(約32メートル)、重さ2000貫(7500キログラム)もあり、大人100人がかりでかつぐ巨大なものでした。
木津には東之町、西之町、中之町、大道町、岡之町、新町にそれぞれ1基ずつあり、先端の飾りものは各町によって違っており、東之町は千成瓢篁、西之町は一本劒、大道町は三日月、中之町は神楽鈴、岡之町は三本劔、新町は薙刀でした。
天幕は一重または二重の赤毛氈織物に神紋刺繍、垂れ幕には名高い物語の一場面「加藤清正の虎退治」などが金銀で刺繍されており、祭りの数日前から町々の広場で横にして組み、組みあがると引き綱とつっかい棒とで起こして、祭りの当日には神社前の大道に列を作って勢ぞろいする賑わいで、空高く、色鮮やかな提灯が掛け連ねられただいがくの姿はそれは壮大華麗だったと言われています。
明治末期に電柱の電線が引かれてからは、木津の家並みのあるところでは許さないこととなり、場所を外れた広場(現在の木津卸売市場)などに立てて広場を往来しましたが、1916(大正5)年、松之宮の境内に絵馬堂を作ることとなり、たて棒を切って、その柱にしてからは、揃えゆかたの若者が提灯のローソク火を手に右往左往する喚声や賑わいも完全に消えてしまいました。
1928(昭和3)年、昭和天皇御即位の大甞祭を祝って大道町、岡之町、東之町の3基が、たて棒を新調し、保管された付属品とで組み立てられ大喝さいを博しましたが、惜しくも第2次大戦の災をうけ、飾天幕の一部を残してすべて焼失してしまいました。
唯専寺(ゆいせんじ)(敷津西2丁目13番)
用命天皇(在位585~587年)の時代に、天種子命(あめのたねこのみこと)の子孫である迹見赤擣 (とみのいちい)が、聖徳太子の四天王寺建立の際、この木津浦に来て草庵を構えたのが起こりと伝えられます。
27世跡見重房の二男資重が天台の門に入りましたが、33世光重は本願寺8世蓮如上人の法義を聴聞(ちょうもん)し、大いに随喜(ずいき)し弟子となり、真宗に転じ、信順房正雲の法名と真蹟の本尊を与えられ、1498(明応7)年に坊舎を建立しました。
1579(天正7)年12月27日、35世空了の時、本山より唯専寺の寺号と安阿弥作の木像の本尊を授与されました。
翌年4月、顕如上人の石山退城の夜、当寺に1泊され、石山合戦に従軍した厚意を喜ばれ、持っておられた念珠の1粒を庭前に植えられたところ芽を出し成長し、周囲8尺(約2.4メートル)に及んで、「梢頭に結べる果実に、白き斑点2つ有り」と伝えられましたが、1914(大正3)年の市電道路の拡張の際に枯死しました。
1599(慶長4)年の検地によれば、その広さは東西32間(約58メートル)、南北28 間(約51メートル)あり、1602(同7)年の東西分派に際して東本願寺となりました。1606(同11)年に教如上人が当寺を訪れ、石山合戦の際の功を賞され、御堂作普譜諸子御坊格の御許しがあり、その後、当寺には山号はなく、跡見御坊と呼ばれてきました。
当時の寺地は南東の方角にありましたが、同年6月に現在地に移転し、現在は600坪余りとなっています。
1614(慶長19)年に焼失しましたが、1615(元和元)年に竣成し、1624(寛永元)年にも類焼しましたが1627(寛永4)年に再建されました。1945(昭和20)年の空襲により、全焼しましたが本尊は難を免れました。
唯専寺
寺には木津勘助の墓と義田碑があるほか、1954(昭和29)年6月26日、遷墓式を行った当時の木津勘翁彰徳会会長新野嘉雄氏の祭文が残されています。(祭文抜粋)
『翁は寛永16年飢饉の時、官倉を開いて窮民を救い責を負うて流罪に服さる。木津川の開発を始め赫々たる数多の功績を誇らず、自から勧んで官を憚り、歿後と雖も墓石の建立を排せられる。
翁の徳を慕える者、縁りの一石を持来りて寺内に安置し、以て翁の墓石となし世々伝りて今日に及ぶ。
然りと雖も、墓所の狭隘拝するに忍びず、同志相寄りこの所に墓台を設けて墓石を迎う。墓台並に附随せる、墓具一式は曽っての翁の銅像の門柱と袖石にして、その費は万人喜捨の浄財なり。敬愛措かざる吾等の翁よ永遠に安らかなれ』
木津勘助翁とその銅像(敷津西1丁目2番)
敷津松之宮・大国主神社の一隅に、右手に設計図を、腰に刀を帯び、脚絆姿(きゃはんすがた)の木津勘助の銅像が西南の方角を遠望する形で建っています。これは1630(寛永7)年大阪の水運の便を開くため、幕府に木津川の開さくを請願し、許されて自ら数万の人夫を指揮督励(しきとくれい)する当時を偲んで、今も木津川を臨む姿で立っています。
木津勘助は通称で本名は中村勘助義久と言い、1586(天正14)年8月13日に相州(神奈川県)足柄山に生まれました。1610(慶長15)年より1614(慶長19)年に至る青年時代は豊臣家に仕え、専ら堤防工事や新田の開拓に尽し、その功によりたびたび感謝状を受けていたようですが、後世まで大阪発展の恩人として、また民衆の敬慕してやまない義陜の士として高く評価されている真の面目は、木津川開さく工事を以て、道頓堀川を開さくした安井道頓と共に、商都大阪の発展の基礎に寄与した功績と、1939(寛永16)年の大飢饉(だいききん)における、世にいう「お蔵破り」の義陜によるものです。
銅像の碑文に「寛永16年近畿ノ稔ラス、塗ニ餓窮アリ、翁、産を傾ケ自ラ之ヲ救助シ、旦官ニ賑恤ラ求ム、吏逡巡為スナキヲ慨キ蹶然起チテ官倉ヲ発キ窮民ニ賑給シ、直ニ官ニ詣リ其ノ罪ニ服センコトヲ乞フ、官・特ニ死一等ヲ減シ葦島(アシジマ)ニ流ス云々」と当時の事情を伝えています。
敷津松之宮・大国主神社内にある木津勘助銅像
事実、1939(寛永16)年という年は気候不順な年で、近畿一円に夏の最中に冷害があり、そのうえ210日の台風災害で花を飛ばされた稲は、大阪近郊で一粒の米も採れない大飢饉の年で、新米はおろか旧米の粉米も貧乏人の手に入らない極めて危険な状態で、餓死者も多数にのぼったようです。
当時大阪は豊臣氏が滅亡し徳川家光の時代で幕府の基礎がようやく確立する時機であり、大阪を重視する政策は大名を配置せず、幕府天領地として城代職が置かれ、一朝有事に備えて多量の兵糧米が常に城内に蓄えられ、軍用以外に供する事は厳禁されていたようです。しかし木津勘助の止むに止まれぬ義侠心は、お蔵破りの大罪を犯してまで決行されるのですが、新野嘉雄著「木津勘助考」では当時の事情について、
「三軒家(葦島)の上田家の倉庫の大長持には、当時の往復文書や記録類諸証文等の貴重な古文書がぎっしり詰まっており、勘助翁に関する資料を探究するある日、古文書の中から1939(寛永16)年の日付の米の配給指令書のようなものがでてきた。数通あって何町へ何俵と言った割当表のようなものまであり、莫大な数量で、これはお蔵破り当日の当局の指図書であることに意見が一致した。なるほどいかに勘助翁が強大であったとしても、当時充実した幕府の倉庫を破って莫大な軍用米を長時間にわたって五千余俵も盗み出すなどと言うことが出来るはずのものでなく、これは当時の役人が幕府の指令を待つ時日がなかったため、勘助翁の任陜を見込んで盗み出させたものであろう。しかし、勘助翁にしてみれば江戸からの指令のいかんに拘らず、盗み出したと言う表向き責任は、絶対免がれないのだから、類を及ばさないために妻子を離別勘当までして、決然敢行したもので、もとより死を賭しての一大覚悟に相違ない、云々」と説明しています。
木津勘助の晩年時代、1647(正保4)年前後の事績で、今も願泉寺と唯専寺境内に残る「義田碑」の碑文には「村人勘助が田地若千を木津村に寄贈した。のち、これにならう村人もあって、村有財産となっていた。村人は此所に壇を設けて、200年余りの間絶えることなく勘助を祭ってきたが、1899(明治32) 年に木津が大阪市に属することになったので、その田地を売って小学校の新建築費に寄付し、またその一部をもって壇趾を記念するためこの碑を建てた」とあります。小学校というのは現在の敷津小学校と大国小学校のことであり、300余年前の木津勘助翁の善意が、今の両小学校の歴史の中にも生き続けられています。
翁の晩年は平穏無事の静かな余生を送り、1660(万治3)年11月26日、75才の天寿を全うして没し、唯専寺の墓所に眠っています。
勘助橋の碑(敷津西1丁目7番)
鴎町公園の中にある、木津勘助が架けた橋の跡地で、石碑の側面には「橋はなくとも 勘助橋は 渡りますぞえ いつまでも」の俗謡が彫られています。
折口信夫博士伝
木津が生んだ古今まれな国文学者、民俗学者であり、大歌人である文学博士折口信夫(おりぐちしのぶ)、釈迢空(しやくちょうくう) は、敷津小学校(もと木津尋常小学校、当時は大国神社の西北裏にあった)の卒業生です。
折口信夫は、もと西成郡木津村1231番地(現在の鴎町公園の南)の通称(木津)市場筋に、1887(明治20)年2月11日、医師折口秀太郎の4男として誕生し、1953(昭和28)年9月3日、東京信濃町慶応病院で胃がんのため66才で亡くなりました。生家は1945(昭和20)年の戦火に焼けて今はありません。
生まれつき聡明で、数え年4才で百人一首をすべて暗誦するほどの才をあらわし、同年木津幼稚園に入り、数え年6才(1892・明治25年)で、学令より1年早く小学校に入学しました。尋常4年を卒業後、南区の育英高等小学校、大阪府立天王寺中学校、東京の国学院大学に進学し、1910(明治43)年7月に同大学国文科を卒業しました。そして、翌年10月より1914(大正3)年3月までの約2年半の間、府立今宮中学校で教鞭をとりました。このわずかの間の生徒の中から、元東京天文台長の萩原雄祐(文化勲章受賞)、洋画家の伊原宇三郎ら多くの英才が輩出しました。
1913(大正2)年、柳田国男が創刊した民族学研究の雑誌『郷土研究』に、大阪の民俗を紹介した「三郷巷談(さんごうこうだん)」を発表して、たちまち柳田国男の認めるところとなり、以後終生の師と仰ぐこととなりました。
1915(大正4)年には同誌に、故郷の氏神である敷津松之宮の「だいがく」を解説した「髯籠(ひげこ)の話」を発表、1916(大正5)年に万葉集の全口訳並びに万葉集辞典を刊行するにあたっては、手もとに1冊の辞典も参考書も置くことなく、全巻を口述完訳したといいます。
1919(大正8)年、国学院大学の教壇に立ち、1922(同11)年教授となり、翌年より慶応義塾大学文学部でも教えることとなりました。独自に民族学を導入した国文学研究の世界を開拓して学界に新風を巻き起こし、1929(昭和4)年に『古代研究』3巻を発表しました。単に文献に頼ることなく、日本民族の生活の中に遺されている風俗習慣の奥に解明の道を求め、畿内はもちろん、沖縄・九州・愛知・長野・南紀・東北の各地を旅し、ことに祖父の出身である飛鳥を中心とする大和については、道の隅々まで知り尽すほどでした。
折口信夫は釈迢空の筆名で、短歌・詩・小説を発表、その作歌は幼い時に始まり、死の直前まで衰えることはありませんでした。短歌はその初期にはアララギに属し、島木赤彦のもとに研精しましたが、歌風に相容れないものを感じ、のちに独自の歌風を確立し、亡びゆく日本語の美しさを訴えるため、古語を駆使し、特異の句読法を作り出し、歌集『海やまのあひだ』『春のことぶれ』『天地に宣る』『水の上』『遠やまひこ』を著しました。没後には遺歌集『倭 (ヤマト)をぐな』が刊行されました。
また、晩年はうっ積した詩情の、短歌に盛り切れぬものを、矢継ぎ早に詩として発表、日本芸術院賞を受賞した詩集『古代感愛集』をはじめ『近代悲傷集』『現代襤褸(らんる)集』が、世人の目をみはらせました。
小説では、当麻寺の曼陀羅縁起の中将姫の伝説をもとにした奈良時代の小説『死者の書』をはじめ、木津の幼少時代を主題にした「口ぶえ」「生き口を問ふ女」などが遺されています。
没後、中央公論社より刊行された『折口信夫全集』全32巻は芸術院恩賜賞を受賞し、明治以来、欧米の学風にひたすら追随し、模倣してきた日本の学界に、日本独自の学説を認識させることになり、その学問体系は「折口学」と呼ばれるまでになりました。全集に続いて、門弟の筆記をまとめた『折口信夫全集ノート編』全19巻も刊行されました。
折口家は、代々医者兼生薬商を営み、岡本屋彦七(通称岡彦)の屋号で知られました。折口家の墓は願泉寺にあり、墓石には「累代墓」とあり、碑陰に「嘉永三年庚戌二月建立、岡本屋彦七」と刻まれていました。折口信夫の分骨もここに納められていますが、本墓というべきものは、硫黄島で戦死した養嗣子折口春洋の故郷である、石川県羽咋(はくい)市一ノ宮の、海辺に近い砂地原の村墓の高みに春洋と共に父子墓としてあります。
大阪市は市制施行70周年を記念して、1960(昭和35)年3月、鷗町公園内に「折口信夫生誕の地」碑を建て、木津の生んだ偉大を顕彰しました。
また、1978(昭和53)年に敷津松之宮の境内に有志による歌碑が建立されたほか、1983(昭和58)年には鴎町公園に「十日戎」の一文を刻んだ文学碑が建てられました。
久保田権四郎翁と徳風小学校
至難とされた水道用鋳鉄管の国産化に成功した久保田鉄工所(現在の株式会社クボタ)の創業者久保田権四郎氏は最初、南区御蔵跡町(現在の中央区)の長屋の一隅で「大出鋳物」を開業しましたが、3度の転居と社名変更の後、鉄管製造の基礎を固め、1908(明治41)年に南区船出町(現在の敷津東)に大工場を完成させ、事業を拡大していきました。
また貧しい少年時代を過ごした権四郎氏は社会貢献事業に大きな関心を持っており、貧しさから教育を受けられない子どもたちのために、1911(明治44)年に徳風小学校を開校しました(現在の日本橋西2丁目)。校名は「論語」の「君子の徳は風、小人の徳は草」に由来します。当初、授業は夜間に行われましたが、1913(大正2)年から昼間部を置き、1922(大正11)年に大阪市に移管されて「市立徳風尋常小学校」となりました。1938(昭和13)年に西成区に移転しましたが、大阪大空襲の被害によって1946(昭和21)年に萩之茶屋小学校に統合されました。
参考資料
- 「敷津」創立百周年記念誌
- 「敷津友愛」
- 難波元町小学校創立百十周年記念誌
- 大国小学校百周年記念誌
- 大阪木津卸売市場ホームページ
- 難波八阪神社ホームページ,
- 株式会社クボタホームページ
- 大阪あそ歩のまち歩き資料
- 大阪市ホームページ、浪速区ホームページ、懐かしの風景、甦えるわが街 など
(注)この記事は地域の語り部の方々の発言をもとに作成しております。歴史考証はしておりませんので、予めご了承ください。
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