木津勘助(きづかんすけ)銅像
2015年4月1日
ページ番号:899
所在地:浪速区敷津西1丁目2番(敷津松之宮・大国主神社内)
本名を中村勘助といい、天正14年(1586年)相模(神奈川県)で生まれました。豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽くしました。
徳川時代に木津川の開削により大阪の発展に寄与した功績とともに、寛永16年(1639年)に近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき、米(大阪城の備蓄米)放出を願い出ましたが聞き入れられず、私財を投げうって村人に分け与えました。それも限度がありついに「お蔵破り」を決行したことなどから今なお敬愛されています。
「お蔵破り」の罪で葦島(現在の大正区)に流され万治3年(1660年)75歳で亡くなりました。墓は唯専寺にあります。