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生野区の都市景観資源(わがまちナイススポット)

2024年1月30日

ページ番号:348474

生野区の都市景観資源(わがまちナイススポット)について

 大阪市では、生野区の都市景観資源の発掘のため、「生野区の自慢できる景観」を募集し、大阪市都市景観委員会の審議を経て、平成28年3月18日に18件を都市景観資源に登録しました。

都市景観資源一覧表
御勝山古墳 俊徳街道道標2基と西俊徳地蔵堂  舎利尊勝寺 
中高野街道沿いの家並み式内 横野神社跡地(伝 横野堤跡) 楠正長史跡公園 
平野川の自然的景観 鶴橋商店街 翠岩さん墓所と頌徳碑 
源ケ橋温泉 鶴橋地域に残る旧家の家並み  彌榮神社 
御幸森天神宮  安泉寺 つるのはし跡公園 
旧猪飼野村にある旧家・大東邸  木村権右衛門邸跡の神木 コリアタウン 

御勝山古墳(おかちやまこふん)

生野区都市景観資源(御勝山古墳)

所在地

生野区勝山北3丁目16番、勝山南3丁目3番

概要

 もとは岡山と呼ばれ、元和元年(1615年)夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠がここで戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになった。
 古墳時代中期の5世紀前半に造られた南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)と御勝山南公園になっており、後円部を残すのみである。市内では、茶臼山古墳(天王寺区)と帝塚山古墳(住吉区)と並んで重要な史跡の一つとなっている。御勝山南公園内には、歌人で万葉学者であり文学博士でもあった折口信夫の歌碑も建てられている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 幹線道路で分断されたが、前方後円墳の名残りがある地域にとっては重要な歴史的・文化的資産である。古墳時代以降も歴史的な変遷をたどり、その価値は高い。
 また、豊かな緑量により、沿道や周辺地域に貴重な緑景観を提供している。

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俊徳街道道標2基と西俊徳地蔵堂(しゅんとくかいどうどうひょう2きとにししゅんとくじぞうどう)

生野区都市景観資源(俊徳街道道標2基と西俊徳地蔵堂 )

所在地

生野区勝山北4丁目10番

概要

 生野区勝山北4丁目に西俊徳地蔵堂があり、等身大の座像石仏が祀られている。説明板には、俊徳丸が四天王寺へ参る際、清い流れの平野川のほとりで休憩したとある。この地蔵堂横には四天王寺南門からほぼ真東へ延びる俊徳街道の道標が二基ある。街道を東へ進むと東俊徳地蔵堂があり、尊像は堂内奥に安置されており、立派なお姿は拝めないが、彫刻様式から室町末期の作と思われ、地元の人々の手により手厚く祀られている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 歴史的街道の街角スポットに佇む地蔵堂は、地域のシンボル的な存在であり、道標2基の存在とも相まって、景観資源としての価値は高い。地元住民により維持管理されていることも評価できる。

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舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ)

生野区都市景観資源(舎利尊勝寺)

所在地

生野区舎利寺1丁目2番36号

概要

 正しくは、南岳山舎利尊勝寺。現在の本尊は、聖観世音菩薩である。約1400年前、用明天皇のころ、生野長者と呼ばれる長者に言葉の不自由な子が生まれた。長者が、四天王寺伽藍を建立するために来ていた聖徳太子にすがると、太子はその子に向かい「わたしが前世に預けた3つの仏舎利を返しなさい」といった。すると3つの仏舎利を吐き出し、それからは話せるようになった。太子はそのうち、ひとつを法隆寺に、ひとつを四天王寺に、残った1つを長者に渡し、長者がお堂を建てて、この仏舎利を奉ったのが、舎利寺の起源と言われている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 浪花百景にも描かれている山門が現存していることは貴重であり、歴史的・文化的価値が高い。また地域のシンボル的な存在であり、景観資源としての価値は高い。

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中高野街道沿いの家並み(なかこうやかいどうぞいのいえなみ)

生野区都市景観資源(中高野街道沿いの家並み )

所在地

生野区巽中4丁目、巽南3丁目

概要

 中高野街道は、京街道守口から分岐して大阪狭山市で西高野街道に合流する長大な街道である。途中、古くからの町々を通過しており、巽小学校から巽神社付近の沿道には、古い民家や念仏堂、碑がみられるなど、落ち着いた佇まいの家並みとなっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 旧街道沿いに古い民家やお堂等が点在し独特の雰囲気を醸し出している。中高野街道の風景を残す数少ない資産であり、価値のある景観資源といえる。

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式内 横野神社跡地(伝 横野堤跡) (しきない よこのじんじゃあとち[でん よこのつつみあと])

生野区都市景観資源(式内 横野神社跡地(伝 横野堤跡) )

所在地

生野区巽西3丁目9番

概要

 この社地は、もと河内国渋川郡大地村の神社で、古来より印地之宮(いんじのみや)または西之宮と呼ばれ、平安時代に編纂された神名帳にその名を記された延喜式の古社であった。御祭神は十一代垂仁天皇の皇子印色入日子の命で、社地は元々三百坪の境内であった。
 その起源は、日本書紀仁徳天皇十三年の條に「冬十月横野堤ヲ築ク」と云う記述があり、昔この付近を流れていた橘川(古平野川)の氾濫を防ぐため巨大な堤防を築かれたと云われ、その堤の安全と河水の緩流を願って造営されたのが当社の始まりといわれている。
 江戸時代前期、社殿の倒壊を受け、現在の巽神社の境内に御祭神を移したことがあった。享保年間には、国学者・並河誠所が当社地を調査し、由緒ある旧社である旨を報告した。これにより、享保16年公儀のお許しの下、村民によって再興された。以来、宮座を組み、神燈を守ってきたが、明治40年の神社合祀令により巽神社に合祀され廃社となった。正面の碑は大正8年宮座横野講の人々により建立されたものである。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 神社合祀令により廃社となり、現在は碑のみとなっているが、平安時代からあった神社の歴史を伝えるものであり、地域による維持活動も行われていることから、景観資源として歴史的・文化的価値が認められる。

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楠正長史跡公園(くすのきまさながしせきこうえん)

生野区都市景観資源(楠正長史跡公園)

所在地

生野区巽南4丁目2番

概要

 巽南の地は、もと河内国渋川郡四条村といい、この一画はその氏神、天神社のあった所である。楠正長は、南北朝時代の武将、楠正成の孫にあたる人物であり、文中元年(1372年)春、隣村の正覚寺村(しょうかくじむら)に生まれた。応永19年(1412年)桑原寺の近くにあった天神社に隠棲し、その祭祀を掌ったとされる。楠正長旧跡記念碑のある一帯が天神社で「遠宮さん(とおみやさん)」と呼ばれていた。当時は、広大な森や池、小高い山もあったとされ、ここに正長が住居を構えていたといわれている。現在では、クスノキの大木と正長の記念碑が残るのみとなっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 クスノキの巨木を保全するとともに、幹線道路に接しているといった立地にあり視認性が高い。さらに、地域のシンボル的な存在であり、美観性も高く、歴史・文化資源としての価値は高い。

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平野川の自然的景観(ひらのがわのしぜんてきけいかん)

生野区都市景観資源(平野川の自然的景観)

所在地

生野区巽南5丁目14、18、19番地先

概要

 かつての平野川(旧平野川)は、生野区「俊徳橋」の北辺りから東成区の「中本橋」辺りまでをきわめて曲折して流れていたため、しばしば氾濫の元になった。そこで流れを変えるため、大正12年(1923年)にいまの平野川(新平野川)のように直線に改修された。いまの平野川の延長は、大和川分派点~第2寝屋川合流地点まで、17.375m あり、平野川は、奈良朝より平安朝にかけて百済郡(くだらごおり)が置かれ、その中央を流れていたので古くは百済(くだら)川と呼ばれていた。
 平野川大橋から両国橋付近は、自然な川の流れやカルガモなどが見られる。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 河川沿いから対岸の浄水場の桜並木が眺められ、花の名所となっており、奥行き感のある貴重な景観を提供している。また、旧平野川(百済川)の歴史を継承する意味から、水辺景観として欠かせない資源といえる。

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鶴橋商店街(つるはししょうてんがい)

生野区都市景観資源(鶴橋商店街)

所在地

生野区鶴橋2丁目

概要

 鶴橋2丁目にある鶴橋本通商店街は、鶴橋本通商店会、鶴橋本通鶴商会、鶴橋本通鶴進会の3つからなる商店街で、近鉄鶴橋駅東口の近くにあり、鶴橋卸売市場(鮮魚、乾物、青果等)と接している。
 鶴橋本通り沿いに、グルメや衣料、小物などの店が数十件並び、市内のみならず市外からも多くの人が訪れ、賑わっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 古くは街道として、戦後は闇市として発展した商店街であり、歴史性が認められる。特徴ある店舗の集積により他にない地域固有の景観が形成されている。

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翠岩さん墓所と頌徳碑(すいがんさんぼしょとしょうとくひ)

生野区都市景観資源(翠岩さん墓所と頌徳碑 )

所在地

生野区中川東2丁目7番28号

概要

 約300年前、旧中川村に生まれ地域の福祉増進などに私財を投じた住吉屋太郎右衛門の墓である。住吉屋太郎右衛門は、後に、剃髪し翠岩と号したが生来慈善心に富み、公共心が強く、近郷の橋11カ所の架設や道路修理、社寺への寄金、村民への施米資金の寄付等、多くの功績が残されている。当時、寄付された土地は現在も中川町財産区として管理運営されており、福祉や地域振興に恩恵を与え続けている。墓石の入り口には、翠岩さんが架けた石橋の一部が記念石として置かれ、遺徳が偲ばれている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 地域でその功績をたたえられている翠岩さんの墓であり、小学校の教材となるなど、地域的な資源としての価値が高い。

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源ケ橋温泉(げんがはしおんせん)

生野区都市景観資源(源ケ橋温泉 )

所在地

生野区林寺1丁目5番33号

概要

 昭和10年(1935年)ごろ建てられ、平成10年(1998年)年10月に国の文化財(登録有形文化財)に指定された。平面は番台を挟んで男女別に区画され、浴槽部分は随時改修されているが、脱衣場及び浴室の構えは良く残っている。外観は、屋根は茶褐色の桟瓦を葺き、入浴(ニューヨークとかけた)自由の女神像がある。正面2階には彫像付きの洋風窓や丸窓を開く。市街地における木造の公衆浴場の好例で、広く利用されている。登録有形文化財の登録基準としては、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」であるとされる。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 戦前の建物として特徴のある外観であり、地域のランドマークとして特色ある景観を呈している。地域住民の利用も多く、貴重な歴史・文化的資源となっている。

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鶴橋地域に残る旧家の家並み(つるはしちいきにのこるきゅうかのいえなみ)

生野区都市景観資源(鶴橋地域に残る旧家の家並み)

所在地

生野区桃谷2丁目10、11、15、16、17番

概要

 桑津街道は、上町台地の細工谷を起点とし、東住吉区の桑津天神社に至る街道である。仁徳天皇が高津宮から、桑津に住む妃髪長媛(かみながひめ)のもとに通ったとされる。この街道は旧木野村(現在の桃谷2丁目周辺)の集落も通っており、この辺には旧家の家並みが残っている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 彌榮神社に続く旧街道であり、旧木野村集落の歴史性のある雰囲気をよく伝えており、歴史的・文化的価値は高い。

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彌榮神社(やえじんじゃ)

生野区都市景観資源(彌榮神社)

所在地

生野区桃谷2丁目16番22号

概要

 旧記には、神祖素戔嗚命(すさのおのみこと)を文禄年間に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分霊奉還したのがはじまりとある。その当時は、牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、創立以来旧木野(この)村の鎮守として崇敬厚く宮座を設けて奉仕し、明治5年(1872年)村社に列せられ、社号もこの時に彌榮神社と改められた。明治43年(1910年)、氏子協議のうえ大字岡村(現在勝山北4丁目)の御館神社を合祀した。その御館神社は、生土神(うぶすながみ)でいばらの神と呼ばれ、仁徳天皇の的殿の旧跡で、現在は彌榮神社の御旅所となっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 創立の由来が古事記に記載されるなど、古来より地域の集落の中心であったことが伺え、その歴史的・文化的な価値は高い。また、祭団体が存在し、地域活動が行われるなど、地域性がある。

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御幸森天神宮(みゆきもりてんじんぐう)

生野区都市景観資源(御幸森天神宮 )

所在地

生野区桃谷3丁目10番5号

概要

 仁徳天皇・少彦名命(すくなひこなのみこと)・押坂彦命(おさかひこのみこと)を主祭神としている。今から約1600年前の猪飼野は猪甘津(いかいのつ)と呼ばれ難波の入江の港であり、猪甘部(いかいべ)(猪を飼育していた古代の官職。鷹甘部(たかかいべ)などと同じ)が住まれていました。また当時、川辺にあった灯明台1基が今も残されている。難波に都を定められた仁徳天皇は鷹狩の折り等に度々当地の森にご休憩され、その由縁により御幸の森と呼ばれるようになった旨が社頭に立てられた由来碑に刻まれている。境内にある5本のムクノキ(椋)の老樹は『まちの貴重な緑をみんなで守っていこう』との願いから、市の保存樹林に指定されている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 鳥居や境内の豊かな緑が沿道へ貴重な緑景観を提供している。
 社殿が国の登録有形文化財、境内のムクノキが市の指定保存樹林となっており、猪飼野の貴重な文化遺産となっている。

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安泉寺(あんせんじ)

生野区都市景観資源(安泉寺)

所在地

生野区桃谷3丁目16番26号

概要

 創建年代不詳。古来村の念仏道場であったものが、徳川時代初期の寛文7年(1667年)に真宗大谷派末寺となった猪飼村固有の寺。村の中央部、鶴の橋60m北東にある。安泉寺は、徳川時代、村内の戸籍を預かり、寺小屋を開設していた。明治5年(1872年)に猪飼野小学校となり、明治20年(1887年)に平野川対岸の木野村小学校(宗玄寺も開設)と合併して、鶴嘴尋常小学校が建設されるまで村内のこどもたちの教育にあたって来ました。現在の本堂と庫裡(くり)と併せて大正14年(1925年)春、住職檀信徒協力して全面的に改築したもので、南面を西面本瓦葺に変え、太鼓楼を廃し、鐘桜門とし、井戸屋型手洗所を附属した、鐘桜門は木村権右衛門氏の寄贈による。平成6年(1994年)に至って、境内南西隅にあった猪飼野若中会館を、村内南50mの場所に移築し、老朽化した庫裡を廃し両跡地に安泉寺門戸会館と庫裡を新築し、本堂の全面補修を実施した。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 竜宮城を思わせる石造のアーチゲートが特徴的で個性的な景観を形成している。

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つるのはし跡公園(つるのはしあとこうえん)

生野区都市景観資源(つるのはし跡公園)

所在地

生野区桃谷3丁目17番

概要

 昔、このあたりに鶴が多数飛来したことから橋の名となったようである。一説には、西暦 323年に百済川に架設された橋で猪甘津橋の古跡ともいわれ、『日本書紀』仁徳天皇14年11月の条に『猪甘津に橋を為(わた)す。即ち、そのところを号(なず)けて小橋という』と記され、文献にでている橋ではわが国最古のものといわれている。『つるのはし』は、旧桃谷街道・鶴橋街道が旧平野川を渡る地点に架けられ、古くは河内・大和への交通の要所。新平野川の開削により、昭和15年(1940年)に廃橋、石碑と当時の親柱4本を記念に保存し、平成10年(1998年)3月に『つるのはし跡公園』として開設された。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 日本書紀にも関連した由緒があり、日本最古として認識されている橋の親柱が保存されており、その歴史的価値は高い。また、地域による保存が行われている点も評価できる。

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旧猪飼野村にある旧家・大東邸(きゅういかいのむらにあるきゅうか・おおひがしてい)

生野区都市景観資源(旧猪飼野村にある旧家・大東邸 )

所在地

生野区桃谷3丁目19番2号

概要

 旧家「大東邸」は、土蔵の外壁材は古い船板を使っており、300坪以上ある屋敷内には広大な庭園や古い石枠の井戸が現存し、母屋の中(昔の土間)にある井戸は現在も散水用などに使用しているという。昔の面影を残す旧家の大きいものがこれまでに多く解体され、旧猪飼野村(現在の鶴橋)では現存するものは珍しい。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 土蔵の外壁板に古い船板を使用するなど猪飼野村の旧家の風情を良く伝えている。沿道沿いの板塀が伝統的な雰囲気を形成しており、歴史的・文化的価値は高い。

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木村権右衛門邸跡の神木(きむらごんえもんていあとのしんぼく)

生野区都市景観資源(木村権右衛門邸跡の神木 )

所在地

生野区桃谷3丁目21番19号

概要

 木村重成(大坂夏の陣で討死。享年23歳)の姉婿 猪飼野左馬助の子孫である木村権右衛門邸宅の跡地にある。現在は駐車場となっているが、樹齢約400年の椎の木の神木と立派な石灯籠、庭石が残されている。神木は重成のお手植えといわれている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 樹齢約400年のシイ神木と立派な石灯籠、庭石が残されており、当時の豪邸の面影を偲ばせ、その歴史的・文化的価値が高い。

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コリアタウン

生野区都市景観資源(コリアタウン)

所在地

生野区桃谷3丁目、4丁目、5丁目

概要

 御幸通商店街はJR環状線の鶴橋駅と桃谷駅の間にある商店街で、韓国食料品店や飲食店、民族衣装の店が500m程の通りに約140店舗が軒を並べる。多くは在日コリアンの人々による経営で、街中はハングルにあふれ、全国で最も在日コリアンの人々が集中する地域とされる。近年では地元によりNGOが結成され、他地方から修学旅行などで訪れる中高生を相手にキムチ作り体験やハングル教室、街案内などを行っている。中央門、百済門はコリアタウンを象徴する意匠となっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 疎開により御幸通商店街のコリアタウン化したまちなみは、歴史的経緯を経て形成され、固有の景観を呈している。商店街の入口に設置された象徴的な門が個性を強調しており、文化的価値が高い。

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計画調整局 計画部 都市計画課(都市景観)
電話: 06-6208-7887 ファックス: 06-6231-3751
住所: 〒530-8201 大阪市北区中之島1丁目3番20号(大阪市役所7階)

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