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東住吉区の都市景観資源

2018年3月23日

ページ番号:430206

東住吉区の都市景観資源

 大阪市では、東住吉区の都市景観資源の発掘のため、「わがまち自慢の景観」を募集し、大阪市都市景観委員会の審議を経て、平成30年3月23日に26件を都市景観資源に登録しました。

都市景観資源一覧表
下高野街道庚申街道沿いの旧北田辺村の町並み北田辺の大楠
今川と今川緑道杭全交差点陸橋杭全住宅(平野西之町)および中町会会館
桑津環濠集落天神社(桑津天神社)大和川(東住吉区)
枯木八幡宮駒川商店街中臣須牟地神社
酒君塚古墳鷹合満願地蔵尊清岸地蔵
鷹合神社(素盞鳴尊神社)長居公園含松山 臨南寺
庚申街道(旧中野駅付近)中井神社佛願寺
針中野中野鍼・針中野中野小児鍼松原住宅(鶴ヶ丘経営地)阿麻美許曽神社
法樂寺山阪神社

下高野街道(しもこうやかいどう)

写真と地図

所在地

東住吉区北田辺1丁目~矢田7丁目

概要

 律令制度の崩壊によって、天皇家が奉祭する神道(しんとう)が衰退し、熊野詣がすたれていった。それに代わって、大衆仏教が興隆し、真言宗総本山の高野詣が、京都の天皇や公家ばかりでなく、武士や庶民にまで広がった。そこで、京都方面から淀川を舟で下って高野山に行く高野街道の1つとして、下高野街道が伝わっている。さらにこの街道は、大阪と堺、松原、狭山の村々を結ぶ生活道路としても発達したため、曲がりくねった長距離の街道となったものと推察される。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 高野詣の道として歴史を持つ街道で、現在も寺や神社が街道筋に残されている。往時の雰囲気が感じさせる地域の歴史景観資源である。

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庚申街道沿いの旧北田辺村の町並み(こうしんかいどうぞいのきゅうきたたなべむらのまちなみ)

写真と地図

所在地

東住吉区北田辺6丁目

概要

 庚申街道は四天王寺南大門から南下し、庚申堂(四天王寺庚申堂)を過ぎ東南方へ蛇行しながら文の里を通り、桃ヶ池の北端で東に折れ、旧北田辺村の北辺(この通り)を横断する。そこから、さらに東へ駒川を越え今川で川沿いを南下、針中野(旧中野村)、湯里(旧湯谷島村)、旧住道(すんじ)村を過ぎ、大和川に突き当たると川沿いに東へ古市街道と出合う明治橋北詰(旧川辺村)にいたるという街道である。

江戸時代の北田辺村は、大坂近郊の農村で木綿や田辺大根などの生産地であったが、庚申街道は四天王寺参りや庚申参りをする信仰の道であるとともに、日常的には牛馬車を使って農作物や肥料の運搬に利用されていた。

北田辺6丁目あたりは、今も昔からの町並みが残されている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 旧北田辺村の趣のある町屋が立ち並び、良好な地域景観をつくり出している。現在も地域で保存などの活動を行っているところも評価できる。

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北田辺の大楠(きたたなべのおおくす)

写真と地図

所在地

東住吉区北田辺6丁目2番

概要

 市道(昭和町-西脇町)が計画され、大阪市が移転(撤去)を決定した時に、道路用地内にあった樹齢300年、周囲:3.3m、高さ16mの大木を保存する運動が地元民から起きた。地元民の有志が「北田辺の大楠の保存を考える会」を発足し、6000名の保存署名を集め、公聴会で57%の保存要求決議を経て、存続が決まったものである。

 道路工事は、平成9年(1997年)に主な工事を終え、平成13年(2001年)2月に完了している。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

  市道計画の際に住民からの要望で保存することとなった樹齢300年の大楠で、現在も地域の愛着を集めている景観資源である。

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今川と今川緑道(いまがわといまがわりょくどう)

写真と地図

所在地

東住吉区杭全1丁目~湯里6丁目

概要

 今川は、平野区喜連西町と東住吉区湯里町との境界線と、長居公園通の交差点に、現在の今川の水源である人工の吐水口があり、平野下水処理場で高度処理された水が注ぎ込まれている。昭和の中頃までは、沿岸には田園地帯が多く、フナ、ナマズ、トンボ、シラサギなどが生息していたが、沿川の都市化に伴い固有水源を失い、降雨時以外は水枯れをおこすなど、河川環境が悪化していた。しかし、下水処理水が水源とされてからは、魚類が戻るなど、良好な河川環境が形成されている。

今川緑道は、平等橋を北上し、南港通と交差する川原橋までの250m程の間は、桜並木とユキヤナギが美しいところである。国道25号線との交差手前にある水門までの北側の緑道(2.1km)とは、南港通で分断されて、並木の様子も異なっている。北側の堤では、戦前は漆並木が有名であったが、南側の堤は松並木であった。この堤は冬には大阪湾の風が定常的に東向きに吹いていたので、松並木を背にして、東向きに多くの子供達が凧揚げに夢中になった場所である。南港通りの北側緑道は南側よりも9倍も長い桜並木で、戦前は漆並木で有名な「漆堤」の名称があった。面積約21,000㎡、昭和58年(1983年)3月開園。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 古くからの謂れを持つ堤が川や地域の歴史を今に伝えているとともに、桜の花や漆の紅葉が四季を感じさせてくれる貴重な自然景観資源である。

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杭全交差点陸橋(くまたこうさてんりっきょう)

写真と地図

所在地

東住吉区杭全3丁目、6丁目

概要

 国道25号(奈良街道)、森小路大和川線(今里筋)、美章園街道という幹線道路が交差し、大阪市内でも有数規模の五差路交差点である。

 この交差点は昭和35年(1960年)までは、ロータリーであったが、昭和35年(1960年)7月に交差点内に信号機が設置されロータリーがなくなった。杭全交差点には横断歩道がなく、昭和43年(1968年)に設置された歩道橋が交差点に進入する5方向からのそれぞれの歩道をつないでいる。森小路大和川線の工事は戦前から始められていたが、戦争期の中断をはさんで全線が開通したのは昭和47年(1972年)である。

 歩道橋が設置された当初は、歩道橋には自転車及び車椅子等のスロープが設置されておらず、自転車が認められた歩道を走行した場合、交差点で行止まり状態になっていた。様々な問題点を解決すると共に老朽化した歩道橋の取替について平成18年(2006年)より国と地元で協議され平成25年(2013年)5月より架替工事が開始され、平成26年(2014年)10月にエレベーターがついた陸橋として利用が開始された。(歩道橋部分は平成26年(2014年)6月利用開始)

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 幹線の五差路の大スケール感が印象的な景観資源であり、自転車対応のエレベーターが地域の足として親しまれていることも評価できる。

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杭全住宅(平野西之町)および中町会会館(くまたじゅうたく[ひらのにしのちょう]およびなかちょうかいかいかん)

写真と地図

所在地

東住吉区杭全7丁目、8丁目

概要

 昭和3年(1928年)に建設された大阪市営の分譲住宅である。

 大阪市では、生活の安定と良好な保健衛生を確保させることを目的に、快適な土地付き小住宅の分譲を行っていた。大正15年(1926年)に北畠、昭和2年(1927年)に高見、都島、元今里が建設され、杭全住宅を含め合計458戸が分譲された。当時の住宅は敷地25坪、建坪18坪程度の木造二階建で、畳建具・浴室・門塀・水道・電灯などの設備を施したものであった。なお、杭全住宅を最後に大阪市による分譲住宅建設は終了した。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 昭和初期の住宅の特長を持つ建物が、郊外住宅の開発の歴史を今に伝える景観資源となっている。現在も会館が地域の憩いの場となっているところも評価できる。

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桑津環濠集落(くわづかんごうしゅうらく)

写真と地図

所在地

東住吉区桑津3丁目

概要

 中世の摂河泉(せっかせん)一帯には、堺、平野をはじめとして、多くの環濠集落が成立していた。環濠集落建設の目的は一般的に、軍事的警察的自衛、保水灌漑、洪水対策  の三つであるといわれている。

 桑津の場合、軍事的警察的自衛手段として四周を水濠に囲まれ、竹薮で一部囲まれていた。 外周の濠の東南部に2カ所、金蓮寺(こんれんじ)東側に2カ所、それぞれ少しづつ離れて濠が広くなって池となっていた。外部に通じる集落内の道路は、ゆるいカーブのある直線道路が一本あるだけで他は複雑な屈曲をみせており、北に1カ所、南に1カ所、西に1カ所の計3カ所だけで、現在でもその地名として桑津北口・桑津南口などが残っている。これら入口には木戸が設けられ、夜間は閉ざされていた。

 また、保水灌漑として集落内の排水溝と考えられる箇所として、西側の南北に通じる道路は現在も低くなっている。

 さらに、洪水対策としては、桑津環濠集落は上町台地の東縁の緩傾斜地で外側とはっきりした段差が認められており、集落東側の川が氾濫しても集落内が浸水しにくくなっていた。

 桑津環濠集落は昭和はじめ頃まで、およそ400年間続いていた。今では、濠は埋められて道路に変わったが、細くて曲がりくねった道や、木戸口に祀られていた地蔵尊は今も残され、往時を偲ばせている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 北口地蔵や濠の石垣の跡が現在も残されており、入り組んだ道や古い家並みとともに環濠であった歴史を感じさせる景観資源である。

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天神社(桑津天神社)(あまつかむやしろ[くわづてんじんしゃ])

写真と地図

所在地

東住吉区桑津3丁目4番17号

概要

 「日本書記」によると応神天皇(4世紀)の頃、日向(ひゅうが)の国から美女の誉高い、髪長媛(かみながひめ)を召され桑津の地に住まわせたと記されている。媛はのちに仁徳天皇の妃となられた。

 髪長媛は桑津天神社に奉祀される以前は、明治6年(1873年)廃寺となった金蓮寺が髪長媛の宮跡であったことから、境内の八幡宮に奉祀されている。また桑津天神社には少彦名命(すくなひこなのみこと)も祀られているが、これは髪長媛の病気祈願のため医薬の祖神である少彦名命が祀られたと伝えられている。

 また、桑津天神社南側の桑津公園はもともと参道であり公園の南側には大鳥居(天保4年(1833年)設置、昭和54年(1979年)改築)がある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 緑が大きく育つ境内には木造の拝殿が残され、神社の歴史を感じさせる。鳥居のある参道は現在は公園となり、地域に親しまれる景観資源となっている。

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大和川(東住吉区)(やまとがわ[ひがしすみよしく])

写真と地図

所在地

東住吉区公園南矢田4丁目、矢田5丁目、7丁目

概要

 大和川付け替えの功労者、中甚兵衛(なかじんべえ)は僅か8ケ月の工事期間で大和川の付替えを完成し、東大阪の広大な地域の水害を解消しただけではなく、この地域の干拓工事により得た新田の払い下げにより、2年間で幕府が支出した工費を回収する快挙を為し遂げた。

 川幅が広く、東西に眺望が開けた場所であり、河川敷には、スポーツや遊びが楽しめる広場や、散策・サイクリングの可能な歩道も整備されており憩いの空間となっている。

 また、大和川沿いの大和川東公園(昭和63年(1988年)3月31日に開園した、大阪市都市公園の一つ。主として近隣に居住する者の利用に供することを目的とする公園(近隣公園)で、面積は12,552㎡。)には、桜並木があり花見の時期には多くの人が訪れる公園となっており、地域の方々に親しまれている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 淀川と並ぶ大河川として、大阪を代表する河川景観をつくり出しており、大和川東公園では桜の季節に花見が行われるなど、地域に親しまれる景観資源である。

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枯木八幡宮(かれきはちまんぐう)

写真と地図

所在地

東住吉区公園南矢田4丁目5番

概要

 旧枯木村の古い町並みの中に、さりげなく枯木八幡宮がある。かつての枯木村という地名に由来する社名の小さな神社である。祭神は火雷神(ほのいかずちのかみ)で、雷除や火災予防の神様とされている。由緒は不明だが、境内の土を屋根土に混ぜておくと、落雷しないとの伝承がある。今も枯木町八地保存会が、中秋の名月の前日に阿麻美許曽神社の神官のもと、例大祭をご奉仕している。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 住宅地の中に小さな神社がひっそりと残されている景観資源である。旧地名に由来する名称が歴史を感じさせるところも評価できる。

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駒川商店街(こまがわしょうてんがい)

写真と地図

所在地

東住吉区駒川4丁目~5丁目

概要

 10の商店会(昭和商店会、駒川日之出商店会、駒川ギンザ商店会、センター駒川商店会、駒川中央商店会、駒川南商店会、針中野駅前通り商店会、駒川オレンジ通り商店会、鷹宮(たかみや)南商店会、駒川コスモス通り商店会)で「駒川商店街」は形成されている。

 全長730mの中に日常生活に密着した物販や飲食、サービスなどおよそ200店舗が集積し、多くの人で賑わっている。また、100円商店街やバル、まちゼミ、セレッソ大阪に関連したイベント等を多数実施している。

 さらに毎年、夏に実施している「駒川まつり」では、約4万人が集まり、東住吉区最大級のイベントとなっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 大阪の三大商店街として、生活に根差した活気あふれる景観資源である。アーケードや舗装に工夫を凝らしているところも評価できる。

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中臣須牟地神社(なかとみすむちじんじゃ)

写真と地図

所在地

東住吉区住道矢田2丁目9番20号

概要

 中臣須牟地神社は、延喜式内(えんぎしきない)の大社で、中臣氏の祖先であり大和王権に仕えた一族、子孫が在住した由緒ある神社である。

 日本書紀などには、632年、唐からの使者に中臣須牟地神社で作ったお酒を振るまったとの伝承がある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 境内は社や樹木など様々な景観要素に富み、鎮守の森がしっかりと残されているところも評価できる。手入れの行き届いた境内が地域に愛されていることを感じさせる景観資源である。

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酒君塚古墳(さけきみづかこふん)

写真と地図

所在地

東住吉区鷹合2丁目5番

概要

 東住吉区東部にある鷹合・桑津・山坂の一帯には、かつて大きな古墳群があったことが、江戸時代の地籍図や古墳にまつわる伝承などから推定されている。駒川上流右岸にある鷹合の酒君塚古墳は、近年の発掘調査によって、江戸時代以降の盛土下に、長径35m以上、高さ2m前後の古墳の墳丘が確認された。

 さらに、出土した円筒埴輪から築造時期は四世紀末で、田辺古墳群では最も古い古墳であることも明らかになった。酒君塚古墳(平塚)は、御勝山古墳に次ぐクラスの平野川に至る駒川・今川水系の首長墓であり、田辺古墳群の被葬者の頂点に立った倭王権とも関わりの深い人物であったとされている。

 酒君については「日本書紀」の仁徳天皇四三年の条に、「依網屯倉阿弭古(よさみのみやけあびこ)が、不思議な鳥を捕まえて天皇にさしあげたところ、天皇はその鳥が鷹であることを知られ、百済王の一族である酒君に命じて鷹を養わせた。」とある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 古代の歴史を今に伝える古墳群の一つが公園として整備されており、現在は住民の生活の中に存在する景観資源として親しまれている。

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鷹合満願地蔵尊(たかあいまんがんじぞうそん)

写真と地図

所在地

東住吉区鷹合4丁目3番12号

概要

 毎年8月23日から24日にかけて行われる地蔵盆では、町内の人々が地蔵像を洗い清めて新しい前垂れを着せて飾り付け、提灯をつけ、花や菓子、果物を供える。子ども達はこれを楽しみに地蔵巡りをし、地蔵前の席で供養の菓子や手料理などをいただく。「盆踊り」もこの時期に多く行われている。

※現在、4つの世話グループにおいて、毎年当番による持ち回りで地蔵盆を運営している。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 毎年行われる地蔵盆では地域の人々が地蔵像を洗い清め飾り付けを行っており、地域に親しまれる景観資源であるといえる。

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清岸地蔵(せいがんじぞう)

写真と地図

所在地

東住吉区湯里1丁目19番29号

概要

 このお地蔵さまは明治初年のある日、畑を耕しているとクワの先にコチンと当たったものがあり不思議に思って掘り出してみるとお地蔵さまだった。お地蔵さまに清岸童女と刻んであることから清岸地蔵と呼び、現在の地に祀られている。(南百済小学校発行「歴史的に見た南百済」より引用)

 毎年8月23日から24日にかけて行われる地蔵盆では、町内の人々が地蔵像を洗い清め、子どもたちの健やかな成長を願った提灯を飾り、花や菓子、果物を供えている。

 また、子どもたちも提灯などの飾りつけや地蔵盆のおさがりを近所へ配る「お配り」の手伝いをしている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 毎年行われる地蔵盆では地域の人々が地蔵像を洗い清め飾り付けを行っており、地域に親しまれる景観資源であるといえる。

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鷹合神社(素盞鳴尊神社)(たかあいじんじゃ[すさのおのみことじんじゃ])

写真と地図

所在地

東住吉区鷹合4丁目5番22号

概要

 鷹合神社は、当初、鷹飼堂(たかかいどう)と呼ばれ、祭神は午頭天王(ごずてんのう)であった。明治5年(1872年)に村社の資格を与えられ、地名にちなんで鷹合神社と改められた。住吉神社の旧神官青蓮寺という家の記録の中に、延徳元年(1489年)8月云々、鷹合の祭り云々とあるので、創祀はそれ以前と考えられる。

 神社東南角の房本宅(ふさもとたく)内に、鏡池という池がある。ある日、酒君が鷹の行方を見失い、各地を探しあぐねこの池のそばで思案にくれていたところ、かたわらの椎の大樹にとまる鷹の姿が水面にうつり、喜んでとらえたという伝説がある。

 神社の敷地には、天照大御神を祭神とし、東方に位置する伊勢神宮を拝することを目的に建てられた、伊勢神宮遥拝所(昭和13年(1938年)頃設置)がある。

 境内にある「楠の古木」は、昭和55年(1980年)10月大阪市条例により「保存樹林」としての指定を受けている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 古い逸話が残る地域の氏神で、整えられた境内には伊勢神宮遥拝所や楠の古木などがある。名称も地名に由来しており、地域を代表する景観資源である。

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長居公園(ながいこうえん)

写真と地図

所在地

東住吉区長居公園

概要

 戦後当初は、競馬場(大阪競馬場)と競輪場(大阪中央競輪場)が設置されていたが、競馬は昭和34年(1959年)、競輪も昭和37年(1962年)に廃止された。昭和34年(1959年)から本格的な都市公園として整備され、球技場・競技場では平成10年(1997年)国民体育大会(なみはや国体)、平成19年(2007年)世界陸上が開催され、Jリーグ・セレッソ大阪がホームスタジアムとして使用している。公園内ではウォーキングやランニングする姿が多く見られ、長居ユースホステルには世界中から宿泊に訪れている。自然史博物館・植物園などには珍しい展示物や植物が数多くあり、見学の人でにぎわっている。

 敷地内にある花と緑と自然の情報センター(平成13年(2001年)4月オープン)では、大阪の自然に関する各種情報の蓄積・発信を行っている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 多くの市民が訪れる大競技場と広大な緑地を持つ都市公園で、地域を代表する景観資源である。ウォーキングやランニングの場として日常的に親しまれているところも評価できる。

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含松山 臨南寺(がんしょうざん りんなんじ)

写真と地図

所在地

東住吉区長居公園1番32号

概要

 以前は、国鉄(JRの前身)が臨南寺を駅名とした程の広大な(約33,000㎡)森を有する禅寺(曹洞宗)である。現在は森林の大部分は姿を消し、楠や椿・山茶花(さざんか)・金木犀等の樹木が僅かに残り、当時の面影を留めている。境内には樹齢700年の椎の大木があったが、昭和25年(1950年)のジェーン台風で倒れてしまった。今は万代池に住む白蛇と夫婦か兄弟の関係にあると云われた白蛇が宿る神木として地上に横たえられ、現在も祀られている。本堂内には、ご本尊・釋迦牟尼(しゃくむに)佛座像、弁財天なども祀られ、また、山門前に「葷酒(くんしゅ)山門入るを許さず」の石碑やその奥に馬頭観音碑がある。

 大坂代官と天草代官を歴任した鈴木重成が、先祖を弔うために、正保2年(1645年)この地に建立した。現在は葬儀会館や永代供養の合同墓のがっしょう園マトリもある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 境内の建物は比較的新しいが、現代様式のお堂も含め、良好な景観がつくられている。以前は広大な森を持っており、駅名の由来にもなっていた歴史を持つ点も評価できる。

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庚申街道(旧中野駅付近)(こうしんかいどう[きゅうなかのえきふきん])

写真と地図

所在地

東住吉区西今川4丁目、針中野1丁目~2丁目

概要

 庚申街道は四天王寺南大門から南下し、庚申堂(四天王寺庚申堂)を過ぎ東南方へ蛇行しながら文の里を通り、桃ヶ池の北端で東に折れ、旧北田辺村の北辺(この通り)を横断する。そこからさらに東へ駒川を越え今川で川沿いを南下、針中野(旧中野村)、湯里(旧湯谷島村)、旧住道村を過ぎ、大和川に突き当たると川沿いに東へ古市街道と出合う明治橋北詰(旧川辺村)に至るという街道である。庚申街道と南海平野線(大正3年(1914年)から昭和55年(1980年)まで)が交差する場所に中野駅があった。駅の北側は大正末期頃から市街化がはじまり、その頃の名残が銅板張の町屋などにうかがえる。駅の南側は古くからの街道の雰囲気がある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 昭和初期に流行した銅板張の町屋が街道沿いに今も残され、歴史を感じさせる景観資源となっている。それらの建物をいかした利用がなされていることも評価できる。

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中井神社(なかいじんじゃ)

写真と地図

所在地

東住吉区針中野2丁目3番58号

概要

 中井神社は、三代実録(901年)という書物に摂津の国「田辺東神(ひがしかみ)」と記されており、古くは、ご祭神にちなんで「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」とよばれていた。その昔、社前に清水の湧く井戸があり、人々は「汚れ(けがれ)のない霊水」として大切にしていたので、中野村の井戸の有るところのお社として、明治時代の初めに中井神社と改められた。(中井神社発行の神社暦による)中井神社の東神に対し西神が山阪神社といわれている。

 境内に、根元5mほど残った榎(えのき)は、世に異変のあるときは必ず夜間に轟音がすると言い伝えられていた。現在、白龍社(はくりゅうしゃ)のご神木として祀られている。また大阪市の保存樹林に指定された、大楠、公孫樹(いちょう)、メタセコイヤ、小賀玉木(おがたまのき)がある。

 元旦未明には初詣の参詣者に、干支いりの「かわらけ」で、お神酒が授与され、毎年除夜の鐘が鳴り出すと長い初詣の行列ができる。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 広い境内には、樹木や顕彰碑など多くの景観要素とともに、木造の拝殿が残されている。地域の行事が行われる場所として住民に親しまれているところも評価できる。

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佛願寺(ぶつがんじ)

写真と地図

所在地

東住吉区針中野2丁目3番59号

概要

 浄土真宗、仏光寺(ぶっこうじ)派に属し慶長4年(1599年)開基。

 天堂山の山号は、昔、近くを流れていた天堂川(天道川)に由来しているのではないかといわれている。

 山門の前(西側)には庚申街道が通っている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 隣の中井神社とともに庚申街道沿いのまちなみをつくり出している景観資源である。庭の樹木の手入れが行き届いているところも評価できる。

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針中野中野鍼・針中野中野小児鍼(はりなかのなかのはり・はりなかのなかのしょうにはり)

写真と地図

所在地

東住吉区針中野3丁目2番17号

概要

 針中野中野鍼・針中野中野小児鍼は、平安時代の延暦(782~805年)の頃に設立された、「中野降天鍼療院(なかのあまくだるはりや)」がその屋号である。平安時代から一子相伝を守り、男児が恵まれない時は、女性も当主としての鍼灸術を習得して、現在に至っている。

 明治の頃、第41代目新吉氏は医師の資格を取得された上で、西洋医学を取り入れて独自の鍼法を築かれたので、近畿一円から「中野鍼まいり」として、一日500人以上の人々が殺到し、屋敷内に遠路の来館者を泊める宿舎も建てられていた。

 大正3年(1914年)に南海平野線が開通した時には、中野駅から鍼院まで7ケ所の道辻に石の道標が建てられた。大正時代に中野家41代目が大阪鉄道(現近鉄南大阪線)の開通に尽力し、そのお礼として大正12年(1923年)の開通時には最寄りの駅名を「針中野」としたといわれている。現在も駅名が継続され、地名となって残っている。

 中野鍼の北東にある北向き地蔵尊は、地元の要望があり、敷地内から現在の場所へ移したものである。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 往時の鍼灸院の賑わいを感じさせる建物や駅からの道辻にある道標が歴史を感じさせる貴重な景観資源である。名称が駅名の由来となるなど地域と深い関わりがあるところも評価できる。

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松原住宅(鶴ヶ丘経営地)(まつばらじゅうたく[つるがおかけいえいち])

写真と地図

所在地

東住吉区山坂3丁目~4丁目

概要

 大正3年(1914年)4月に南海平野線が開通し、田辺停留所ができた時に住宅開発が始まり、昭和4年(1929年)7月に阪和線が和泉府中まで開通し、南田辺駅や臨南寺駅ができたので、この沿線での住宅建設が次第に盛んとなった。その頃の住宅建設は宅地の間に並木が植えられて、大変風情のあるもので、松原住宅の東西や南北の道路には、栴檀(せんだん)通、銀杏(いちょう)通、青桐(あおぎり)通など樹木にちなんだ名前が付けられていた。 

 また、松原住宅の中央部の交差点は円形に広くとられ、かつてはここで、バスが転回していた。

 しかし、この並木も次第に切り倒されて、今は昔年の面影を失ったが、ところどころに当時の樹木が残されている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 円形の広場や木造下見板張の住宅が戦前のモダンな雰囲気を残しており、当時の住宅開発の歴史を感じさせる景観資源である。

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阿麻美許曽神社(あまみこそじんじゃ)

写真と地図

所在地

東住吉区矢田7丁目6番18号

概要

 旧狭山西除天道川は参道の東側をジグザグに北上していたと思われ、大和川の開削後は干拓されて、元の川は西除川として、浅香山の方向に付け替えられている。現在の祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)、天児屋根命(あまのこやねのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)と一般に知名度の高い神様が並んでいるが、金剛寺本では1座とあり、主祭神名は不明である。

 拝殿は文久3年(1863年)建造のもので、本殿は独特の阿麻美造で昭和35年(1960年)に再建された。樹齢500年の楠木の群は大阪市条例で保存樹林に指定されている。手洗舎(ちょうずしゃ)の東側に「行基菩薩安住之地」の石碑が建っている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 昔からの本殿、拝殿とともに樹齢500年の楠が鎮守の森として残されており、大和川付替え後も地域の氏神として鎮座する貴重な景観資源である。

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法樂寺(ほうらくじ)

写真と地図

所在地

東住吉区山坂1丁目18番30号

概要

 真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派大本山紫金山(しこんざん)小松院法樂寺(田辺不動尊)が正しい名称で、昔から「田辺のお不動さん」の名で親しまれている。 

 平家の棟梁・平重盛公の創建。創建の趣旨は、保元・平治の乱(親、兄弟が敵となり戦った)で戦死した霊を怨親平等(おんしんびょうどう)の精神で祀るためであり、源為朝の念持仏・如意輪観音菩薩が安置された。本堂の建物は書院造り(移築)である。

 梵語(サンスクリット語)研究、人の道を説いた『十善法語』で知られる慈雲尊者(1718~1804)は13歳の時、ここで出家している。

 山門と本堂の間には力強い木組みの三重宝塔が樹齢一千年近い楠の大木と相対し、法樂寺の象徴となっている。

 また、境内には、書家で恩賜賞受賞作家の小坂奇石の作品四百点余を収蔵しているリーヴスギャラリー小坂奇石記念館がある。

 本堂裏側には樹齢3~400年の松の大木のある庭園と茶室「法雲庵」があり、趣のある空間となっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 近年建てられた木造の三重宝塔や樹齢一千年近い楠が見事な景観を形成している。地域のイベントなどが行われ、人々に親しまれている景観資源である。

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山阪神社(やまさかじんじゃ)

写真と地図

所在地

東住吉区山坂2丁目19番23号

概要

 山阪神社は一に田辺神社といい、三代実録にも掲載されている「田辺西ノ神」です。

 田辺の地名は、田辺宿禰(たなべのすくね)に関係ありといわれておりますが、確証は詳かではありません。

 天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫が、この土地に住し、その祖神 天穂日命を祀って社殿を建立しました。さらに、その同族土師(はじ)氏たる野見宿禰命(のみのすくねのみこと)を合わせて祀られたのが当社の創めとされています。

 御祭神は、天穂日命、野見宿禰命、猿田彦命(さるたひこのみこと)、素盞烏尊(すさのをのみこと)、宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)です。

 毎年7月の夏祭りでは、獅子舞の巡行、お囃子、御神輿の巡行、出店などで賑わっています。また、大相撲3月場所では、九重部屋の力士が稽古をおこなっています。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 広大な敷地に鎮守の森が広がる貴重な景観資源である。夏祭り等の地域行事が行われ、地域に親しまれているところも評価できる。

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都市計画局 計画部 都市計画課(都市景観)
電話: 06-6208-7885 ファックス: 06-6231-3753
住所: 〒530-8201 大阪市北区中之島1丁目3番20号(大阪市役所7階)

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