ページの先頭です

西成区の都市景観資源(わがまちナイススポット)

2024年1月30日

ページ番号:430429

西成区の都市景観資源(わがまちナイススポット)について

 大阪市では、西成区の都市景観資源の発掘のため、「わがまち自慢の景観」を募集し、大阪市都市景観委員会の審議を経て、平成30年3月23日に25件を都市景観資源に登録しました。また、令和4年3月31日に1件登録解除しました。

※なお、千本松大橋と千本松渡船場については、平成24年3月30日に大正区の都市景観資源として既に登録されています。

都市景観資源一覧表
大阪フィルハーモニー会館天下茶屋公園安養寺
天下茶屋跡南海電鉄高野線(西成区)久金属工業株式会社
てんのじ村記念碑大衆劇場 オーエス劇場鯛よし百番
波切不動明王生根神社南海電鉄玉出変電所
津守下水処理場津守神社大衆劇場 鈴成り座
苔山龍王梅谷歯科医院勝間街道(玉出中一丁目付近)
もと十三間川の鉄橋大衆劇場 梅南座阪堺線(西成区)
南津守さくら公園西成区の渡船場の景観千本松大橋と千本松渡船場

大阪フィルハーモニー会館(おおさかフィルハーモニーかいかん)

写真と地図

所在地

西成区岸里1丁目1番44号

概要

 この会館は、国内でも第1級のオーケストラである大阪フィルハーモニー交響楽団が世界的なオーケストラとして飛躍するよう、平成3年(1991年)7月に、(公社)大阪フィルハーモニー協会により建設された。楽団が練習会場として使用するメインホールのほか、市民スタジオやリハーサル室など、市民の音楽活動の場としての設備も併設されている。

 大阪フィルハーモニー交響楽団の前身は昭和22年(1947年)に結成された関西交響楽団で、昭和28年(1953年)の朝比奈隆氏最初の海外指揮旅行をはじめ幾多の演奏活動を行なって来たが、昭和35年(1960年)5月に大阪フィルハーモニー交響楽団を新たに設立し、国内外を問わず演奏活動を展開している。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 多くの市民に音楽活動の場を提供するとともに、大阪フィルハーモニーの本拠地であることが地域の誇りとなっており、市民に親しまれる景観資源として評価できる。

このページの一番上に戻る

天下茶屋公園(てんがちゃやこうえん)

写真と地図

所在地

西成区岸里東1丁目16番

概要

 天下茶屋公園は薬屋「是斎屋(ぜさいや)」の跡地である。薬屋「是斎屋」は寛永年間(1624~1644年)近江の国の津田宗右衛門が、住吉街道に面した当地へ来て「和中散(わちゅうさん)」という薬を商ったのが起こりで、街道の旅人達で大いに繁盛したという。また、茶屋としても有名であった。現在は、遊具や広場で子どもが遊び、ベンチで休憩される方も多く、近隣住民の憩いの場となっている。面積:8,052㎡、開園日:昭和26年(1951年)4月30日、公園種別:街区公園。

 公園内には、大阪府指定有形文化財である阿倍寺塔刹柱礎石(あべでらとうさつちゅうそせき)がある。阿倍寺は今の阿倍野区松崎町にあった奈良時代前期(白鳳期)の創建と考えられる寺で、この礎石も永く現地にあったが、現在はこの公園に保存されている。礎石は花崗岩でできており、中央に柱穴があり、その穴の中央に舎利穴が彫られている。

 また、「明治天皇駐蹕遺址(めいじてんのうちゅうひついし)」碑もあり、明治天皇が、明治元年(1868年)と明治10年(1877年)に住吉大社へ参拝される途中で、「是斎屋」に立ち寄られた際に、ご休息をされた御殿跡に建立されたものである。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 江戸時代の薬屋の跡地にできた公園で、奈良時代の礎石があるなど歴史性や文化性を有しているとともに、落ち着いた地域の公園として市民からも親しまれている。

このページの一番上に戻る

安養寺(あんようじ)

写真と地図

所在地

西成区岸里東1丁目7番15号

概要

 昌芳山安養寺は、浄土宗知恩院派一心寺の末寺で、本尊は阿弥陀仏、元禄2年(1689年)の創建。明治20年(1887年)の失火と昭和20年(1945年)の戦災で2度焼失し、現在の寺は昭和34年(1959年)再建のものである。境内には、紙治(かみじ)おさん、猪名川弥右衛門(いながわやえもん)、佐藤魚丸(さとうぎょがん)の墓がある。

 紙治おさんは、近松門左衛門の最高傑作の一つ「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」の紙屋治兵衛(じへい)に貞節を尽くした妻として有名である。おさんは夫の心中のあと、当寺の尼になったという。

 猪名川弥右衛門は、大坂相撲の名力士である。墓石には、仁愛深く相撲にひたすらうちこみ、よく稽古をしたため、その名は天下に広まったとの意の漢文が刻まれている。

 佐藤魚丸は優れた狂歌師で、江戸時代後期、寛政から文化年間(1789~1818年)頃にかけ活躍した文人であるが、生没年とも不明である。また戯作者、浄瑠璃作者としても高名であった。当時もっとも世にうけた蝙蝠連(こうもりれん)という狂歌グループのリーダーで得意のユーモアと風刺の利いた着想の妙で名をあげた。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 山門と高く育った樹木が落ち着いた景観をつくり出している。境内には狂歌師の佐藤魚丸など、大阪文化に縁ある人物の墓があり、歴史や文化を感じさせる景観資源である。

このページの一番上に戻る

天下茶屋跡(てんがちゃやあと)

写真と地図

所在地

西成区岸里東2丁目10番

概要

 今から400年余り昔、太閤秀吉が住吉大社参拝や堺への往来の際、ここの茶店で休息、茶の湯を楽しみ付近の風景を賞したことからこの茶店を天下茶屋と呼ぶようになった。その由来を示す建物(芽木(めき)家)は戦災で焼失し、現在は天下茶屋跡として、楠の大樹と土蔵、石像だけが残っている。昭和62年(1987年)に歴史の散歩道の一画の小公園として整備された。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 太閤秀吉が茶の湯を楽しんだという天下茶屋が、地名や駅名の由来となっており、地域と縁の深い景観資源であると評価できる。

このページの一番上に戻る

南海電鉄高野線(西成区)(なんかいでんてつこうやせん[にしなりく])

写真と地図

所在地

西成区北津守1丁目~玉出東1丁目

概要

 高野鉄道当時の明治33年(1900年)8月に汐見橋~堺東間が開通し、翌月に水陸運輸の連絡の要地として営業を開始した。

 南海電鉄高野線は浪速区の汐見橋駅から和歌山県の極楽橋駅までだが、昭和4年(1929年)には高野線の全列車が難波発着となり、汐見橋駅から岸里玉出駅までは支線扱いとなった。難波駅から極楽橋駅までの間に岸里玉出駅があり、和歌山方面から路線図をみると、岸里玉出駅を分岐点に難波駅方面と汐見橋駅方面に分かれる。現在、汐見橋駅と岸里玉出駅間は折り返し運転のみとなっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 駅舎は戦前の貴重なステンショ群として高く評価できるとともに、路線は短いながらも地域の足として親しまれており、レトロな下町の景観をつくりだす景観資源として評価できる。

このページの一番上に戻る

久金属工業株式会社(ひさきんぞくこうぎょうかぶしきがいしゃ)

写真と地図

所在地

西成区北津守3丁目8番31号

概要

 大正4年(1915年)に桜川にて「久製作所」を創業し、貿易用金属容器及びガラス瓶キャップの製造を始め、昭和9年(1934年)に「合名会社久金属製作所」に組織変更し、現在地の西成区北津守に移転した。

 昭和19年(1944年)には「久金属工業株式会社」に組織変更し、現在は本社のほか、東京支店、滋賀工場を有している。

 建物(本社事務所)は、昭和12年(1937年)建築の洋館で、その応接室には昭和の趣が残る。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 ファサードや門柱が特徴的な景観をつくり出している名建築である。創業から100年を超える企業が、発祥の地で当時の社屋を守りながら事業を営み続けていることも評価できる。

このページの一番上に戻る

てんのじ村記念碑(てんのじむらきねんひ)

写真と地図

所在地

西成区山王1丁目10番

概要

 戦前から戦後にかけて山王1丁目~3丁目辺りには、多くの漫才師などの演芸人や興行師などが集まり居住しており、戦災を免れたこともあり一時は関西の芸人の大半が集まり、洒落めかして自ら天王寺(てんのじ)村と呼んでいた。

 昭和52年(1977年)に建てられた全長6m余りはある青石の碑であり、是が非でも「てんのじ村」という芸人の街の痕跡を後世に残したいという一念で芸人の有志が一丸となって資金を調達し、やっとの思いで建立されたものである。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 界隈に多くの関西芸能人が集まり、上方庶民文化の拠点があったことを伝える碑であり、大阪の文化の歴史を示す景観資源である。

このページの一番上に戻る

大衆劇場 オーエス劇場(たいしゅうげきじょう オーエスげきじょう)

写真と地図

所在地

西成区山王2丁目14番20号

概要

 大阪市西成区にある大衆演劇場。近くに同じく大衆演劇小屋「梅南座」「鈴成り座」がある。

 西成区は数多くの役者が一息入れるため利用する喫茶店や食堂、銭湯があり、大衆演劇場の文化を受け入れられた街にある独特の雰囲気を持つレトロな劇場として、周囲にも馴染んでいる。

 昭和29年(1954年)に開業した。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 大衆演劇は庶民の楽しみとして親しまれており、のぼりや看板が醸し出すレトロな雰囲気は、大阪の下町らしい景観をつくり出す資源として評価できる。

このページの一番上に戻る

鯛よし百番(たいよしひゃくばん)

写真と地図

所在地

西成区山王3丁目5番25号

概要

 旧飛田新地の一角に、大正時代中期に建てられた建物で、平成12年に国の登録有形文化財に登録された。木造2階建、入母屋造、桟瓦葺で、2階に擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)を巡らし、角を隅切りとして玄関に唐破風を付けている。内部は、日光東照宮陽明門を模すなど、部屋毎に趣向を凝らし、大阪歓楽街の雰囲気を色濃く今に伝えている。大阪の下町において洋風の意匠を積極的に取り入れた大正期建築である。現在も料亭として使用されており、多くの人に利用されている。

 建築面積:291㎡、階高:2階建、構造:木造。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 大正時代に作られた独特の意匠を持つ名建築であり、現在も料亭として活用されながら、地域の歴史を今に伝える貴重な景観資源である。

このページの一番上に戻る

波切不動明王(なみきりふどうみょうおう)

写真と地図

所在地

西成区聖天下1丁目6番22号

概要

 昭和14年(1939年)に現在の松1丁目(旧 橘西3丁目5番地)で発掘され、大きさは約150cm、同年西宝寺のそばに祀られた。

 戦時中、数度の空襲で周囲は焼失したが、不動明王は難をまぬがれたことなどで、参拝者が絶えず、地元では「水かけ不動さん」とも呼ばれ、願いを込めて水をかけられ続けられたことから美しい緑色に苔生している。

 波切不動明王とは、空海(後の弘法大師)が唐からの帰路、嵐に遭い、嵐を鎮めるために師の恵果(けいか)和尚から授かった霊木に自ら一刀三礼(いっとうさんらい)に不動明王を刻み、その不動明王を船首に据えたところ、火焰を放ち手にした利剣で荒波を切り裂く様に船は進み無事に日本へと導いたことから「波切」の名前が付されている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 多くの参拝者から水を掛けられることにより苔むしたお不動さんは、生活に息づいた景観資源であるといえる。地域によって大切に手入れされている点も評価できる。

このページの一番上に戻る

生根神社(いくねじんじゃ)

写真と地図
別ウィンドウで開く

所在地

西成区玉出西2丁目1番10号

概要

 住吉大社の摂社・生根神社(奥の天神)から少彦名神の分霊を勧請(かんじょう)、勝間村(こつまむら)玉出の産土大神(うぶすなおおかみ)として祀ったのが始まりとされる。主祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、蛭児命(ひるこのみこと)、菅原道真公(すがわらみちざねこう)。

 神社には、昭和47年(1972年)に大阪府指定有形文化財1号に指定された「だいがく」が保存されている。高さ約20mの柱に約70個の提灯を飾り付けた櫓(やぐら)をとりつけたお神輿で、毎年7月24・25日には、清和天皇(858年頃)の時代に始まったとされる、雨乞いが実った際の感謝の念を表す「だいがく祭り」が開かれる。

 また、神社内には、勝間南瓜石(こつまなんきんいし)や浜村淳歌碑、天神牛(てんじんうし)、かえる石、天瓊矛立太子禮記念碑(あまのぬほこりったいしのれいきねんひ)が建てられている。

 天瓊矛は、日本神話でイザナギ・イザナミの二神が国産みに用いたという、玉で飾った矛(ほこ)で、迪宮(みちのみや)裕仁親王(昭和天皇)の大正5年(1916年)11月3日の立太子の礼を記念して建立されたものである。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 空が広く解放的な境内には天瓊矛立太子禮記念碑など歴史ある碑も存在し、「だいがく」を用いた特徴的な祭事とともに、地域を代表する景観資源となっている。

このページの一番上に戻る

南海電鉄玉出変電所(なんかいでんてつたまでへんでんしょ)

写真と地図

所在地

西成区玉出東1丁目12番

概要

 明治44年(1911年)12月に、阪堺電気軌道の変電所として竣工。

 煉瓦造2階建ての建物は、赤煉瓦の外壁やアーチ型窓、建物正面のくし形ペディメント(妻壁飾り)の意匠が特徴的である。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 煉瓦造りの建物は装飾性が高く、明治時代に建てられた歴史を感じさせる外観となっている。線路近くからの眺望など様々な視点場を持つことも評価できる。

このページの一番上に戻る

津守下水処理場(つもりげすいしょりじょう)

写真と地図

所在地

西成区津守2丁目7番13号

概要

 昭和6年(1931年)から10年の歳月をかけて建設され、昭和15年(1940年)4月に通水した大阪市で最初の大型下水処理施設。

 市中央部から西部にかけての雨水の排除や、家庭や工場などから排出される汚水を処理し、放流先の木津川や大阪湾の水質浄化に寄与している。

 また、市民の方に親しまれる下水処理場をめざし、ヒラドツツジをシンボルツリーとして場内の緑化を進め、ツツジの開花時(4月下旬)には、津守下水処理場を一般公開している。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 市内最初の大型下水処理施設であるという歴史を持ち、広い構内はつつじや高いヤシの木が配置されている。つつじの開花時には一般公開を行っていることも評価できる。

このページの一番上に戻る

津守神社(つもりじんじゃ)

写真と地図

所在地

西成区津守3丁目4番1号

概要

 津守新田開発の時に勧請された。初めは五所神社、五社大明神といわれ、元禄時代には単に稲荷神社と呼ばれたが、明治4年(1871年)津守神社と改称し、同5年(1872年)村社に列した。同40年(1907年)6月新饌幣 料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)として指定され、同42年(1909年)例祭、祈年祭、神嘗祭(かんなめさい)には、大阪市から共進使が参向して、公の祭祀が執行された。氏子は現在津守町全般で6千戸に及んでいる。

 始めは津守町の北端、剣先と称する所にあったが、明和年間(1764~71年)に現在に移した。新田は開発以来、幾度か地震や大津波を受け、その度に堤防や田畑、住宅に莫大な損害を被り、その度に地主、農民は共に大神の守護を祈願した。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 津守新田開発の際に勧請されたという地域の歴史に深くかかわる神社であり、人工的な周辺環境の中で、変わらず存在する貴重な地域の景観資源である。

このページの一番上に戻る

大衆劇場 鈴成り座(たいしゅうげきじょう すずなりざ)

写真と地図

所在地

西成区鶴見橋2丁目9番1号

概要

 国道26号線側より鶴見橋商店街を歩いて約4分、左脇に入ってすぐにある大衆演劇場である。ここ鈴成り座は平成13年(2001年)に改装され、館内は近代的で明るく、広々としてゆったりとお芝居を楽しめる。劇場入り口前には駐輪場があり、自転車で来場されるお客さんもいる。劇場内に休憩所が併設されており、幕間には飲食も出来る。一度観るとリピーターになるお客さんも多い。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 大衆劇場らしさのある外観が特徴的であり、のぼりや看板とともに大阪の下町らしい景観をつくり出しており、昭和の文化を今に伝える景観資源であるといえる。

このページの一番上に戻る

苔山龍王(こけやまりゅうおう)

写真と地図

所在地

西成区天下茶屋1丁目32番

概要

 織田信長時代の土佐藩の家老夫婦がこの地で返り討ちに合い、後に豊臣、徳川の冬の陣・夏の陣の戦に天下茶屋一帯が戦場となり、多くの霊がさまよい、徳川家光の慶安3年(1650年)正月にこの碑が建てられた。

 その後長い年月の間に碑が倒れ、いつの間にか溝川の橋に使われていたが、昭和4年(1929年)南海電鉄線路改修の際、その溝川が埋められた時この碑が出てきた。

 当時の町名をとり苔山龍王と命名、地域の守護神として祭られている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 歴史ある碑とお堂が鉄道の高架下にあることにより、独特の景観をつくり出している。地域の住民に大切に手入れされていることも評価できる。

このページの一番上に戻る

梅谷歯科医院(うめたにしかいいん)

写真と地図

所在地

西成区天下茶屋3丁目16番16号

概要

 大正11年(1922年)頃建築の歯科医院で、平成11年2月に国の登録有形文化財に登録されている。木造3階建で道路に面して建ち、外観は1階をタイル貼り、2・3階を下見板張りとするなど洋風の意匠になる。内部は、伝統的な町家の平面を継承した形で、一部を除き和風とする。大阪の下町において洋風の意匠を積極的に取り入れた大正期建築の好例である。建築面積:98㎡、階高:3階建、構造:木造。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 保存状態がよい木造の洋風3階建ては近代建築の秀作であり、景観資源にふさわしい高い美観性を持つ建築物である。

このページの一番上に戻る

勝間街道(玉出中一丁目付近)(こつまかいどう[たまでなかいっちょうめふきん])

写真と地図

所在地

西成区玉出中1丁目

概要

 江戸時代、難波より木津を通って粉浜中在家(現在の住吉区東粉浜)で紀州街道(住吉街道)と合流していた街道。

 「勝間」の名称は、西成郡勝間村として大正時代まで残っていたが、現在、そのあたりは「玉出」と呼ばれている。

 玉出1丁目付近には、現在も通りに面して歴史のある建築物が残っており、昔の名残を偲ばせる。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 区の中央を南北に走る街道沿いに、檜皮葺の壁面を持つ旧家があり、その場所の歴史に思いを馳せることができる景観資源となっている。

このページの一番上に戻る

もと十三間川の鉄橋(もとじゅうさんげんがわのてっきょう)

写真と地図

所在地

西成区北津守1丁目

概要

 十三間川は、津守新田の開発を始めた元禄11年(1698年)に河村瑞軒(かわむらずいけん)により開削されたものと伝えられている。当初、七瀬川(津守の北端、浪速区との境を流れていた)から中在家村(住之江区粉浜)まで開削され木津川の水を受けて南へ流れていたが、宝永元年 (1704年)に大和川の付け替えが行なわれて大和川まで延長されると、流れ込む土砂のたい積とともに南部の川床が上がり、逆に北流するようになった。明治の始めごろまでは、農業用水路として利用されただけでなく、両岸に松の並木、楊柳(やなぎ)などがあり、頗る風情にとみ大坂より住吉に遊ぶものが多く、また、十三間川の名はその幅員が十三間あったからだと言われている。

 今はほとんどが埋め立てられ、昭和45年(1970年)2月に開通した阪神高速道路堺線の敷地となっているが、南海電車高野線の鉄橋にその名残を見ることができる。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 十三間川が埋め立てられた後も、線路敷に存在し続けている鉄橋がつくり出す景観は特徴的であり、その場所の歴史を伝える景観資源となっている。

このページの一番上に戻る

大衆劇場 梅南座(たいしゅうげきじょう ばいなんざ)

写真と地図

所在地

西成区梅南1丁目8番21号

概要

 梅南座は、昔ながらの下町情緒あふれる住宅街の一角にある、平成10年(1998年)に新しく建てられた大衆演劇場である。舞台構成は「ミニショー」、「お芝居」、「歌謡・舞踏ショー」の3部構成からなる。コンパクトな劇場なので、演者とお客さんの距離も近く、熱心なファンに喜ばれている。公演が終わると、毎回、一座の役者さんたちがお見送りをされるので、また足を運びたくなる、ハートフルな劇場である。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 特徴的な外観ではないが、入口が開かれていることで、建物内の活動が溢れ出しており、大衆演劇の情緒を伝える景観資源となっている。

このページの一番上に戻る

阪堺線(西成区)(はんかいせん[にしなりく])

写真と地図

所在地

西成区萩之茶屋1丁目~ 玉出東2丁目

概要

 会社は明治42年(1909年)に設立され、同44年(1911年)に恵美須町~浜寺駅前間が開業された。しかし、同方向に鉄道事業を展開する南海鉄道と熾烈な競争が展開され、大正4 年(1915年)合併し、南海阪堺線と呼ばれるようになったが、昭和55年(1980年)12月南海電鉄から独立し、新たな事業展開をおこすため新会社を設立し現在に至る。

 今では、大阪市内でただ一つの路面電車であり、趣をこらした図柄が描かれた車体や親しみのあるほのぼのした沿線の表情が下町の情緒を漂わせている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 100年を超えて利用されている市内にただ一つの路面電車であり、下町のノスタルジックな景観資源として、地域の代表的な景観をつくり出している。

このページの一番上に戻る

南津守さくら公園(みなみつもりさくらこうえん)

写真と地図

所在地

西成区南津守1丁目2番36号

概要

 南津守さくら公園(スポーツ広場、テニスコート、児童公園)は、平成12年(2000年)9月30日に完成した。公園内のスポーツ広場は、天然芝のグラウンドと人工芝のグラウンドの2面である。また、それぞれのグラウンドには観覧席も設けられ、平成24年(2012年)までサッカーJリーグチーム・セレッソ大阪のトップチームをはじめ、育成選手などの練習場として使用されていた。平成25年(2013年)には、セレッソ大阪のトップチームは舞洲グランドに練習場を移し、現在はセレッソ大阪アカデミー(U-15)(U-12)の練習やプレナスチャレンジリーグ(なでしこリーグ1部)に参戦した「セレッソ大阪堺レディース」がホームグラウンドとして公式戦や練習場として使用している。

 また、南側にはテニスコートやグランド、児童公園が整備されており、春には花見に利用されるなど地域のコミュニティの場として親しまれている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 スポーツ広場はサッカーチームの拠点として地域に親しまれているとともに、桜の季節には花見の場として地域コミュニティの場となっていることも評価できる。

このページの一番上に戻る

西成区の渡船場の景観(にしなりくのとせんじょうのけいかん)

写真と地図

所在地

落合上渡船場:西成区北津守4丁目15番、大正区千島1丁目29番
落合下渡船場:西成区津守2丁目8番、大正区平尾1丁目1番
千本松渡船場:西成区南津守5丁目6番、大正区南恩加島1丁目11番

概要

 市内には8カ所の渡船場があり、その内西成区と大正区の境を流れる木津川に3カ所の渡船場がある。1時間に4回程度、運航しており、区民の生活に欠かせない貴重な交通手段となっている。

 また、夕暮れ時には川べりが赤く染まり、渡船場の姿と相まってノスタルジックな雰囲気を醸し出している。

・落合上渡船場:西成区北津守4丁目と大正区千島1丁目を結ぶ(岸壁間100m)。

・落合下渡船場:西成区津守2丁目と大正区平尾1丁目を結ぶ(岸壁間138m)。

・千本松渡船場:西成区南津守5丁目と大正区南恩加島1丁目を結ぶ(岸壁間230m)。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 木津川の渡船は区民にとって欠かせない生活の足であるとともに、渡船場は地域産業にまつわる営みを望むことができる貴重な水辺景観資源となっている。

このページの一番上に戻る

千本松大橋と千本松渡船場(せんぼんまつおおはしとせんぼんまつとせんじょう)

写真と地図

所在地

千本松大橋:西成区南津守5丁目、大正区南恩加島1丁目

千本松渡船場:西成区南津守5丁目6番、大正区南恩加島1丁目11番

概要

 千本松大橋の両岸一帯は江戸時代に開かれた新田地帯で、明治の後期ごろから工業化が進み、造船所などが建設されるようになった。大正区は、市内有数の工業地帯となっていたが、水運に恵まれている反面、陸上交通は不便で、自動車は遠く市の中心部まで迂回しなければならなかった。このような状態を改善するため、木津川河口を結ぶ千本松大橋が建設された。木津川を船が安全に航行できるよう、桁下を水面から33mの高さにする必要があり、両岸の取付部は2段のらせん形状が採用されている。その形状から"めがね橋"の愛称で呼ばれている。全長:1228.3m 幅員:9.75m 完成:昭和48年(1973年)。

 千本松渡船は西成区南津守5丁目と大正区南恩加島(みなみおかじま)1丁目を結ぶ(岸壁間230m)。千本松の渡しが設けられた年代ははっきりしないが、大正時代の中頃に初めて設けられたものと思われる。現在も通勤通学の貴重な交通手段として利用されている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 特徴のあるらせん形状の橋とノスタルジックな渡船場が共存する地域を特徴づける水辺景観資源であり、どちらも地域の交通手段として親しまれているところも評価できる。

このページの一番上に戻る

ダウンロードファイル

Adobe Acrobat Reader DCのダウンロード(無償)別ウィンドウで開く
PDFファイルを閲覧できない場合には、Adobe 社のサイトから Adobe Acrobat Reader DC をダウンロード(無償)してください。

SNSリンクは別ウィンドウで開きます

  • Facebookでシェア
  • Xでポストする

探している情報が見つからない

このページの作成者・問合せ先

計画調整局 計画部 都市計画課(都市景観)
電話: 06-6208-7887 ファックス: 06-6231-3751
住所: 〒530-8201 大阪市北区中之島1丁目3番20号(大阪市役所7階)

メール送信フォーム