弘済院附属病院の沿革
2024年5月1日
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大阪慈恵病院の創設
大阪市立弘済院附属病院の前身は大阪慈恵病院です。
大阪慈恵病院は、明治21年2月、当時大阪市内に経済的な理由から病院にかかれない人達のための施設がないのを憂えた医学界の先覚者、緒方惟準、緒方拙斉、高橋正純、高橋正直、山田俊郷など、有志の人びとにより設立され、まず同年6月、東区唐物町(現大阪市中央区南本町)1丁目円光寺内に仮病院を開設、ついで11月に東区北久太郎町(現大阪市中央区久太郎町)の元浪華小学校跡を購入、これを改築して12月に開院しました。
さらに、明治27年1月、東区(現大阪市中央区)粉川町に転じ、建物設備を整備し、漸次事業を拡張、明治時代における最大の経済的理由から病院にかかれなかった人達の治療機関として業績をあげました。
また、大正13年には現大阪市立生野工業高校の敷地に移転し、昭和19年、大阪市に移管されましたが、昭和20年の戦災で焼失しました。現在、大阪市立生野工業高校の玄関には大阪慈恵病院跡の石碑が建立されています。
財団法人弘済会の設立
明治42年7月、1万戸余りを焼失させた「北区大火」の後、大阪府知事、大阪市長、朝日新聞社長、毎日新聞社長の4名を発起人として、明治44年8月財団法人弘済会が設立されました。
弘済会の発足により、大阪慈恵病院は弘済会と合体することになり、大正2年5月その名称を弘済会救療部大阪慈恵病院と改め、その後、昭和9年、弘済会山田事業所開設と同時に事業の主体を同事業所に置くことになりました。
大阪市立弘済院の誕生
昭和19年4月、国及び地方公共団体を主体とする社会事業体制の確立を理由に、弘済会のすべての事業を大阪市が継承し、大阪市立弘済院が誕生しました。
戦後~現在へ
現在の附属病院は、弘済院再建整備計画の一環として、昭和43年に建設(昭和46年増設)されたものです。
入院患者は、終戦後まもなくは大阪市内の戦災負傷者および住む家をなくした病弱者が大多数を占めていました。その後、第1特別養護老人ホームや養護老人ホームの増設が行われ、また社会のニーズにあわせ第2特別養護老人ホームの建設も行われました。
そして現在は、大阪市を中心とする高齢者医療の基幹的な専門病院としての将来を目指しています。
明治21年2月 | 有志により大阪慈恵病院設立 |
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6月 | 東区唐物町(現中央区南本町)円光寺内に仮病院開設 |
12月 | 東区北久太郎町(現中央区久太郎町) 元浪華小学校跡改築開院 |
27年1月 | 東区(現中央区)粉川町に転所 |
44年8月 | 財団法人弘済会設立 |
大正2年5月 | 弘済会と合体・弘済会救療部大阪慈恵病院と改名 |
昭和9年 | 弘済会山田事業所開設 |
19年4月 | 弘済会事業を大阪市が継承、大阪市立弘済院として発足 |
21年10月 | 生活保護法による医療保護施設指定 |
32年7月 | 保険医療機関指定 |
41年8月 | 基準給食・基準寝具実施 |
43年 | 弘済院再建整備計画の一環として建物建設 |
46年 | 建物増設 |
47年6月 | 病床数 138床→200床 |
49年3月 | 運動療法施設承認(現 理学療法II) |
58年4月 | 特例許可老人病院指定 |
63年6月 | 基準看護(基本看護)実施(特例許可老人病院指定取消) |
平成元年2月 | 基準看護(特I類)実施 |
3月 | 労災保険指定 |
12年1月 | 病床数 200床→172床 |
20年4月 | 病床数 172床→90床 |
21年4月 | 認知症疾患医療センター指定 |
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