1.天保山(てんぽうざん)渡船場
2024年3月19日
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天保山(港区築港3丁目)と此花区桜島3丁目を結ぶ(岸壁間400メートル)位置に天保山渡船場がある。明治38 年に開設されたこの渡しは、大阪港の繁栄を企図した大阪市が港湾振興策の一環として始めたもので、昭和15年までは市の港湾部が所管していた。当初は天保山、桜島、築港大桟橋の間を三角運航していたが、大阪港の繁栄につれて利用者が増え、築港桟橋を基点に木津川、尻無川方面にも運航区域を広げ、大正11年に天保山桟橋が完成して内航客船が発着するようになってからは、天保山~桜島間を終夜運航した時代もあったが、昭和元年には現在のルートになった。昭和初期には桜島付近の重工業化が進んで通勤用としても利用された。昭和12年12月1日午後9時ごろ、渡船が突風にあおられて転覆、軍需工場帰りの乗客53人の犠牲者を出す事故があった。昭和15年に経営は土木部(現建設局)に移され、現在にいたっている。昭和42年には1日平均1,700人の利用者があったが、令和5年度現在、1日平均795人が利用している。
「浪花百景」より「天保山」
渡し場所在地(築港側発)
・築港側 大阪市港区築港3丁目2-25
Osaka Metro(大阪メトロ)中央線「大阪港駅」下車、北へ徒歩約10分
・桜島側 大阪市此花区桜島3丁目10-34
JRゆめ咲線「桜島駅」下車、南西へ徒歩約10分
天保山について
江戸時代、安治川の開削によって上流の流砂が堆積し諸国廻船の航行に支障が生ずるようになったので、幕府により、天保2年から2年の歳月と延べ10万1200余人を動員して「御救大浚」と呼ばれる大工事が行われた。このときの捨土を盛り上げたものが出船、入船の目標となった。そこでこれを幕府は「目標(めじるし)山」と命名、やがて人々は、天保山と呼ぶようになった。「摂津名所図会大成」(寛政5年(1793)~万延元年(1860))に『安治川口の下海辺にあり廻船目印山と号す 天保二年御仁恵によって成就の地なればとて世俗天保山と号す 山の高さ凡十間許周廻百間余嶋の周廻千間余石垣の高さ五間余 橋十二箇所茶店貨食屋(りょうりや)等あまたありて春秋とも賑わし 又高燈炉を建てて夜走(よばしり)の舟の目あてとす その結構厳なり』とある。
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