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中央部下水道改良事業の下水道敷(通称「太閤下水」) 1件

2019年1月9日

ページ番号:9095

中央部下水道改良事業の下水道敷(通称「太閤下水」)

ちゅうおうぶげすいどうかいりょうじぎょうのげすいどうじき(つうしょう「たいこうげすい」)

分野/部門

記念物/史跡

所有者

大阪市

所在地

大阪市中央区・西区

紹介

総延長  7077.44m
中央部下水道改良事業の下水道敷(太閤下水) 写真

 近代的下水道が整備される以前、大阪の上町や船場には都市の発展とともに築かれてきた下水道があった。この中には今も現役の下水道として利用されているものがあり、「太閤下水」あるいは「背割下水」と呼ばれ広く市民にも認知された存在である。近世に造られた下水道が、改良されながらも現在まで使われ続けている事例は全国的に見てもほとんどなく、大阪の都市史を考える上でも貴重な資料である。そこで、近世以前に造られたことが明らかで、現在も下水道として使用されている約7kmについて、史跡として指定する。
 大阪市は明治27年~30年(1894~1897)にかけて、最初の近代下水道事業である「中央部下水道改良事業」を行った。この時に工事が行われた区間は、昭和2年(1927)の『大阪下水道平面図』に明示されており、総延長120kmに及んでいる。この時の改良事業は、明治27年にあった下水道の溝床にコンクリートを打ってU字形とし、その表面にモルタルを上塗りして下水の流れを良くするとともに、開渠であった下水道に石蓋をかぶせ暗渠とする工事であった。
 南大江小学校の西側に設置されている下水道の公開施設では、明治27年に改良された下水道の姿を見ることができ、側面の石組や溝床の様子がわかる。またこの付近で、実際に下水道敷を発掘調査した事例があり、その成果によれば、明治時代に改修を受けた現存する石組溝が、江戸時代後期に築造されていることが判明している。石組溝の下層に素掘の溝が存在する場合もあった。また、慶安1年~万治1年(1648~1658)の「三郷町絵図」には、南大江小学校付近に水色に彩色された水路が描かれており、江戸時代前期にすでに水路が存在していたことがわかる。この事例から考えると、まず江戸時代前期に素掘りの水路が掘られ、同じ位置に江戸時代後期になって石組溝が築造され、さらに明治27年の改修を経て、現在まで継承されたものと考えられる。まさに近世の下水道網が現在まで生きていることを証明する非常に貴重な資料といえよう。
 ところで、今回指定する石組下水道は「背割下水」あるいは「太閤下水」とよばれている。「背割下水」は町境の位置にある下水道のことをさす用語であり、今回指定する下水道敷の一部は「背割下水」であるが、通りや筋の側溝も含まれており、指定地すべてが「背割下水」ではない。現存する近世の石組下水道が豊臣時代に遡るかどうかは、現時点の発掘調査では確認されていない。したがって、史跡の名称については、今回の指定の要件が明治27年の中央部下水道改良事業の時点で改修された下水道敷であることから、「中央部下水道改良事業の下水道敷」とし、すでに広く市民に浸透している「太閤下水」の通称を冠して併記する。

用語解説

暗渠(あんきょ) 地下に埋設された、あるいは地表にあっても蓋(ふた)をした導水路。閉水路ともいい、排水、下水、用水などに利用される。これに対し、上側が開いた水路を開渠(かいきょ)という

参考文献

大阪市下水道局『大阪市下水道事業誌』第1巻 1983年3月
山野寿男『近世大阪の水道 背割下水の話』2003
大阪市文化財協会 「第96次発掘調査概報」「第146次発掘調査概報」『難波宮跡研究調査年報』1975~1979年6月 1981年

 

⇒「大阪市指定文化財(平成17年度)」にもどる

 

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