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西国巡礼三十三度行者満願供養塔 1基

2019年1月9日

ページ番号:9099

西国巡礼三十三度行者満願供養塔

さいごくじゅんれいさんじゅうさんどぎょうじゃまんがんくようとう

分野/部門

有形民俗文化財

所有者

宗教法人 四天王寺

所在地

大阪市天王寺区四天王寺1

紹介

総高  5.1m
西国巡礼三十三度行者満願供養塔 写真

 西国三十三箇所観音霊場は、全国にあるさまざまな巡礼霊場のうちで、最も古くまで遡るものと考えられている。浄土教信仰の盛り上がりと山岳信仰が結びついて、平安時代後期には原型が成立していたといわれる。中世には極楽浄土への希求の高まりや、観音信仰の展開とともに、さまざまな階層の人々の厚い信仰を集めた。近世になって、徳川幕府による寺請制度(てらうけせいど)が確立し、一般の人々が自由に移動することが難しくなってからも信仰は衰えず、各地方に西国巡礼を模した三十三観音霊場が設けられるほど、厚い信仰を集めた。大坂では、17世紀末には市中に三十三箇所観音霊場が設けられた。これは全国的に見てもかなり早い事例であり、移動が困難な市中の人々が巡拝を重ねた。
 しかし、ここでいう西国巡礼三十三度行者とは、特定の会所に属し、その支配を受けることで、自由に移動し巡礼を続ける特権を得た人々のことである。お背板と呼ばれる笈を背負い、生活用具に加えて、西国観音札所の本尊像のミニチュアや曼荼羅などを持ち歩き、旅の先々で観音信仰の絵解きをする遊行の宗教者で、 1年に3回ずつ、本物の西国三十三箇所観音霊場を巡礼し、11年これを繰り返して、合計33度の巡礼を行った。女性の行者もおり、尼三度などと呼ばれた。行者が所属する会所としては、西国巡礼の中興と伝える花山法皇ゆかりという、太子町葉室の仏眼寺が有名だが、大阪では住吉の西之坊が、住吉組という組を組織し、巡礼行者の元締としての役割を果たしていた。西之坊には行者が用いたお背板が残っており、大阪府指定の有形民俗文化財に指定されている。
 西国巡礼三十三度行者満願供養塔とは、33度の巡礼を終えて満願結縁した記念に建立されるもので、大阪市内には数少ない。このうち、四天王寺西門、石鳥居の北側に立つ供養塔は、文久2年(1862)3月に建立されたもので、花崗岩製、約5mの巨大な宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。銘には「西国 三十三度供養塔」「住吉西之坊五人行者之内真道」という記載があり、前述した住吉組に属する行者真道の満願に結縁して建立された供養塔である。下三段の台石については後補の可能性がある。
 四天王寺西門は、日想観の聖地として知られ、極楽往生への入り口として、厚い信仰を集めてきた。その聖地に建つこの供養塔は、西国巡礼にかかる行者と浄土教信仰の深いつながりを体現するものであり、近世大阪の信仰を考える上で重要な史料である。

用語解説

寺請制度(てらうけせいど) 江戸幕府が宗教統制の一環として設けた施策。人々を寺院に帰属させ、寺院が発行する寺請証文を受けることを民衆に義務付けた

結縁(けちえん) 世の人が仏法と縁を結ぶこと。仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ること

宝篋印塔(ほうきょういんとう) もともとは宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔をさす。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいう。のちには供養塔・墓碑塔として建てられた

参考文献

田中智彦・北川央「大阪寺町および周辺寺院に遺る巡礼供養塔」 (『大阪女子短期大学紀要』21 1996)

 

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