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絹本著色牛頭天王曼荼羅図 1幅(志紀長吉神社)

2019年1月9日

ページ番号:9122

絹本著色牛頭天王曼荼羅図

けんぽんちゃくしょく ごずてんのうまんだらず

分野/部門

有形文化財/美術工芸品[絵画]

所有者

宗教法人 志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)

所在地

大阪市平野区長吉長原2

紹介

 法量 : 縦114.0cm × 横55.0cm
絹本著色牛頭天王曼荼羅図 写真

 中世には永原大宮と称して政治的・経済的な支配の拠点としての役割を果たした志紀長吉神社であるが、近世には日蔭大明神と称し、牛頭天王をまつり、祈雨祈願に霊験あらたかであるとして、信仰を集めていた。志紀長吉神社には、大嘗祭の際に近くの山で日蔭蔓を奉納していたという伝えがある。日蔭蔓とは、近くの山の日蔭に生えた蔓を用いて作った冠飾りの一種と伝えている。日蔭大明神と称したのは、この日蔭蔓に起因するものと考えられる。志紀長吉神社の祭神は、葛城長江襲津彦命と事代主命の二神とされるが、神宮寺の僧によって江戸時代にあらわされた「日蔭大明神廟記」には、牛頭天王の尊像が垂迹し、その本地は薬師如来であると記されている。平城天皇(へいぜいてんのう)の代、弘仁8年(817)には、旱魃の際に祈雨したところ霊験があったという。その際に、天皇の夢に現れた牛頭天王の姿を画工に描かせ、あわせて日蔭大明神の神号を授与したと伝える。
 この牛頭天王曼荼羅が、平城天皇が描かせた画像にあたるかどうかは不明だが、志紀長吉神社と牛頭天王信仰の深いかかわりを示す作品である。智証大師筆、後伶泉天皇寄進と伝える作品で、弘法大師画像と同様に、神宮寺関係の遺品のひとつである。中央に白牛に騎乗した牛頭天王を描く。前述の「日蔭大明神廟記」で天皇の夢にあらわれたという、三面十二臂の姿をとっている。内郭の四隅に、弁財天、毘沙門天、三宝荒神と俗形の男神を描く。中郭には、当初は八神が描かれていたと見られるが、画面の向かって右側が焼損しており、童形の二神、俗形の男女神、忿怒形の一神の姿がうかがえる。外郭には十二支をあらわすが、七支のみが残る。牛頭天王の姿は一定せず、一面二臂の忿怒形や童子形をとる場合もあるが、牛頭をつける点が共通する。この画像でも、三面それぞれ額に牛頭を戴いている様子がうかがえる。
 中央に牛頭天王を描き、内・中・外の3区でそれを囲むという図様は極めて珍しく、牛頭天王に対する強い信仰に基づいて描かれた特殊な曼荼羅と考えられる。牛頭天王は丸みを帯びた量感のある堂々とした面相で、忿怒の表情には迫力がある。筆致は精緻というよりもむしろおおらかであり、稜線には勢いがある。周囲に配される諸神の描写には粗さが散見され、形式化の傾向も見られるが、全体としては、強い特別な信仰に支えられた筆者の気力をうかがわせる作品である。制作年代は室町時代前期、14世紀代と考えられる。大阪市内に牛頭天王を祭神とする神社は多く、中世から近世にかけて厚い信仰を集めていたのではないかと考えられる。ただし、その信仰を物語る史料は限られており、中世まで遡る牛頭天王像の遺品はこの画像のみと思われる。また、全国的に見ても、牛頭天王像の遺品としては、京都の大将軍神社や堺・石原町の彫像の平安時代に遡る作例が知られているが、中世以前に制作が遡る絵画の作例は非常に希少である。一部焼損していることが惜しまれるが、市内の歴史を考えるうえで、重要な作品である。

用語解説

牛頭天王(ごずてんのう) 日本の神仏習合思想における神。元来はインドの守護神であり、仏教に取り入れられ祗園神ともいう

神宮寺(じんぐうじ) 神に仕える目的から神社に付属して営まれた寺院

垂迹(すいじゃく) 仏・菩薩が衆生(しゅじょう)を救うために仮の姿をとってこの世に現れること。また、その仮の姿

参考文献

井上正雄『大阪府全志』巻之四(1922)
大阪市立博物館『大阪市神社文化財図録』(1981)

 

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