ページの先頭です

志紀長吉神社文書 一括(11点)

2019年1月9日

ページ番号:9124

志紀長吉神社文書

しきながよしじんじゃもんじょ

三好実休禁制(永禄3年7月日)・織田信長禁制(永禄11年10月日)・杉原家次書状(8月8日)・木下藤吉郎書状(正月22日)・徳川秀忠書状(極月28日)・後亀山天皇宸筆・後柏原天皇宸筆・後奈良天皇宸筆・豊臣秀吉消息・日蔭大明神廟記(2月21日)・妙楽寺了締書状(卯月15日)

分野/部門

有形文化財/歴史資料

所有者

宗教法人 志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)

所在地

大阪市平野区長吉長原2

紹介

志紀長吉神社文書 織田信長禁制(永禄11年10月日) 写真

 志紀長吉神社は、室町時代から戦国時代にかけては永原大宮と称し、地域の政治的・経済的な拠点として、重要な役割を果たしていた。それを物語るのが、伝来する志紀長吉神社文書である。明治18~19年(1885~1886)に修史局が調査を実施し影写本を作成した。東大史料編纂所所蔵の影所本がそれであるが、そこには現在は所在不明の文書が含まれている。長久4年(1043)・永承2年(1047)・天喜4年(1056)の3通の神祇官符であり、いずれも日蔭大明神への叙位の内容である。日蔭大明神の称号は近世に用いられたもので、影写本にも真偽不詳とある。
 このように散逸してしまった文書も存在するが、現在は11点の文書が伝来している。
 永禄3年(1560)7月日付、河州永原大宮宛ての三好実休禁制は、三好長慶が河内守護である畠山高政を討つために出兵した時に、長慶の弟義賢(実休)が発給したものである。
 永禄11年(1568)10月日付、永原□□宛の織田信長禁制(左の画像)は、信長が足利義昭を奉じ入京した一か月後に発給されたものである。これらの文書は、文面は通例の禁制ではあるが、16世紀中頃の永原大宮が、河内国を支配するにあたって、戦略的に極めて重要な役割を果たす存在であったことをうかがわせる。
 年紀不明だが、正月22日付、なかはら大宮権之守社家宛の木下藤吉郎書状は、青銅の献上に対する礼状である。
 また、8月8日付、浅野長政宛の杉原家次書状は、長原神領、すなわち永原大宮の社領を安堵する内容である。これらの書状から、永原大宮が広大な領地を持つ有力な領主であったことがうかがえ、四天王寺や住吉大社と同様に、地域支配の核となる社寺であったことを示している。この4点の中世文書はいずれも永原大宮と関連するものだが、宸筆(しんぴつ)3点と、豊臣秀吉が茶々に宛てた仮名書き消息と、徳川秀忠が松平忠吉に宛てた見舞い状については、内容は直接永原大宮と関連しない中世文書である。
 秀吉消息は、鶴松への思いがうかがえて興味深く、秀忠書状には、見舞いの使者として、後に大坂町奉行となる久貝正俊の名が見える。
 日蔭大明神廟記は、神宮寺である阿弥陀寺の僧是心が記したもので、年紀はないが江戸時代の縁起である。中世には荘園領主であった永原大宮が、近世には牛頭天王信仰に支えられた日蔭大明神へと転換をはかっていったことを如実に示す。
 妙楽寺了諦書状も、年紀不明だが江戸時代のものである。実休禁制が一時神社を離れ、再度神社に納められたことを記している。
 以上のような文書で構成される志紀長吉神社文書は、市内に残る数少ない中世文書を含むだけでなく、中世における河内国の領国支配のありようや、近世における牛頭天王信仰の展開などを考察するうえで、貴重な情報を含んだ重要な歴史資料である。

用語解説

宸筆(しんぴつ) 天皇の直筆(じきひつ)。勅筆

参考文献

大阪市立博物館『大阪市神社文化財図録』(1981)
大阪市教育委員会:大阪市文化財総合調査報告64『志紀長吉神社文書について』(2005)

 

⇒「大阪市指定文化財(平成17年度)」にもどる

探している情報が見つからない