絹本著色弘法大師画像(志紀長吉神社) 1幅
2019年1月9日
ページ番号:9130
絹本著色弘法大師画像
けんぽんちゃくしょくこうぼうたいしがぞう
分野/部門
所有者
宗教法人 志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)
所在地
大阪市平野区長吉長原2
紹介
志紀長吉神社は、平野区長吉長原の旧集落の中に位置する神社である。創建の年代は不明と伝えるが、志紀長吉神社の社名は『延喜式(えんぎしき)』の神名帳(じんみょうちょう)に見える。中世文書を多く伝えており、その記述などから、中世には永原大宮と称され、地域支配の政治的・経済的な拠点として重要な役割を果たした神社であったことがわかる。
社地については、江戸時代には既に現地にあったと考えられるが、当該地は近世では河内国志紀郡にはあたらない。これについては、郡域が変化したのか、社地が移転したのかは不明である。因みに、現地の周辺は長原遺跡にあたり、古代から中世にかけての遺構が多数発見されている。
中世には永原大宮と称した志紀長吉神社だが、中世の終焉とともに荘園領主からの転化をはかったようで、江戸時代には日蔭大明神と称し、牛頭天王(ごずてんのう)をまつる神社として信仰を集めていた。神宮寺は阿弥陀寺と号し、その僧侶が記した縁起も神社に伝来している。しかし、明暦年間(1655~58)には、神宮寺か、あるいはその一坊が真宗に転じた。現在境内南東にある阿弥陀寺がそれであるが、神宮寺関係の史料は伝来していない。一方で、幸運なことに、神仏分離の際にも散逸せず、神社に神宮寺関係の史料がいくつか伝来している。
弘法大師画像は、神宮寺関係の史料のひとつである。志紀長吉神社には、弘法大師書写・寄進と伝える法華経8巻が伝来しており、この画像をあわせて、真言系の神宮寺であったことを類推させる。空海の肖像画としては、高野山御影堂の転写本と伝える12世紀後半の作である金剛寺本がよく知られている。いわゆる真如親王様とよばれる図様であり、本画像もそれを踏襲する。柿渋色の袈裟を纏って、朱塗りの椅子形の牀座(しょうざ)に、右斜め前を向いて趺坐(ふざ)する空海を描くもので、右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に念珠を持す。画面向かって右下に木履(きぐつ)と水瓶を置く。
空海の肩越しの画面右上方には、山中から釈迦如来が出現する様子を描いている。これは讃岐国で修行中の空海のもとに釈迦如来が現出したという伝承を踏まえたもので、同形式の画像が善通寺の宝塔に安置されていたことから、特に善通寺御影として別称され、類例は少ない。
口唇の朱をはじめ、衣、牀座、木履の彩色には修理の手が及んでいる可能性があるが、幅広の面相には生気があり、肩幅の広い肉身も堂々とした量感を感じさせる。腹部や足元の衣の折り返し処理も的確であり、稜線は精緻である。牀座の手摺の部分が短いため遠近感に乏しい点や、釈迦如来の描写に形式化を感じさせる。以上のような点を踏まえると、制作年代は室町時代、15世紀代と考えられる。全国的に見ても類例の少ない善通寺御影の一例であるとともに、市内に残る希少な中世仏画である。
用語解説
延喜式(えんぎしき) 平安時代中期に編纂された格式(きゃくしき)。律令格の施行細則。巻9・10が神名帳(じんみょうちょう)になっており当時の主要な神社とされていた官社が記載されている
牛頭天王(ごずてんのう) 日本の神仏習合思想における神。元来はインドの守護神であり、仏教に取り入れられ祗園神ともいう
神宮寺(じんぐうじ) 神に仕える目的から神社に付属して営まれた寺院。8世紀初頭からあらわれたものと推定され、神仏習合思想の発現を示している
五鈷杵(ごこしょ) 古代インドの武器。後に密教で、煩悩を打ち砕く仏の智慧を象徴する法具
趺座(ふざ) 足を組んだ座り方
参考文献
関連ページ
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