木造阿弥陀如来立像(光津寺) 1躯
2024年1月15日
ページ番号:9137
木造阿弥陀如来立像
分野/部門
所有者
宗教法人 光津寺(こうしんじ)
所在地
大阪市東住吉区桑津3
紹介
法量 : 像高 92.9cm
光津寺は桑津の旧集落内に所在する真宗仏光寺派の寺院である。応永年間(1394~1428)に観明が建立したが、後の兵火で焼失し、寛政5年(1793)に円成が再建したという。
本尊は阿弥陀如来立像で、本堂中央の宮殿に安置される。来迎印をとる約三尺の立像である。
一説には恵心僧都の作と伝える。螺髪(らほつ)は矧ぎ付けによる。旋毛を彫出するものとしないものがある。錆漆(さびうるし)を接着剤とする。白毫珠は旋毛形の水晶を嵌入するが、肉髻珠は失われている。髪際は中央が下がり、両端が奥に切れ込む。玉眼を嵌入し、耳朶は環状である。鼻孔は彫出される。面相の各部は中央に寄り、面長で頬はふくよかである。目尻はやや上がり、小振りな鼻や口唇は引き締まった端正さを感じさせ、意志的な表情を示す。頸には三道相をあらわす。
左腕は掌を正面に向けて垂下し、第1指と第2指を捻じる。右腕は屈臂して、右胸前で第1指と第2指を捻じる。左足先をわずかに前に踏み出して蓮台上に立つ。
大衣、褊衫(へんさん)、内衣、裙(くん)を着す。大衣は左肩からかかり、端が右肩を覆う。左肩から腹前にかけて1段折り返す。褊衫は右胸前でたくしこまずに垂下し、右前膊にかかる。胸前から褊衫と内衣が大きくのぞく。裙は正面で左前に打ち合わす。腹部から脚部中央上部にかけてU字状の衣文を繰り返し彫出する。太い衣文と細い衣文を使い分け、相互の間隔もあえて均等にせず、適度に間隔に変化をつけて、動きのある表現を見せる。U字状の衣文に添うように、両腰から直線状の衣文が発し、衲衣(のうえ)の下端に及ぶ。腹部の曲線を主体とした表現と、脚部の直線を主体とした表現の対比が鮮烈である。全体に、衣文の彫り口は明快で鋭く、勢いがある。
衣文の表現にはいくつかの装飾的な特徴が見られ、宗風の仏画の影響をうかがわせる。褊衫を右胸前でたくしこまずに腹部下側まで垂下させてから右臂にかけること、胸前で衣を重ねた複雑な処理が見られること、左胸の大衣の縁と、左肩にかかる大衣の一段折り返しの部分が波打つように表現されること、腹部から脚部にかけてのU字状の衣文が単純な繰り返しではなく、適度な抑揚をつけて彫出されていること、両袖の垂下部分にはためくような表現をとること、などである。
肉身部は金泥によって彩色され、漆箔が施される衣部には、盛り上げ彩色と截金による文様がよく残っている。大衣の条葉部と縁には盛り上げ彩色によって唐草文を描く。衲衣の田相部(でんそうぶ)には截金によって卍繋ぎ文を描く。大衣の裏側にはやはり截金によって麻の葉繋ぎ文をあらわす。右袖外側には円形に囲った内側に多弁の花文を複数描いている。この文様はオーソドックスなものである。
台座は、仰蓮(ぎょうれん)・反花(かえりばな)・框座(かまちざ)からなる。光背は筋光を伴う舟形光背である。台座、光背ともに漆箔で覆われる。
構造については、頭部は三道下で体部に接合する。材の寄せ目ははっきり確認できないが、頭部、体部根幹部ともに前後2材と思われる。両体側にはそれぞれ縦に別材を寄せる。両袖内側、右前膊半ばから先、両手首先も別材である。右手第3指、左手第1指・第2指・第5指も別材で彫出する。
大衣に接合する裙から下の部分は別材で制作し、衲衣の下端に差し込む構造をとる。像底からの観察によれば、裙から下の部分は正中で2材を寄せ、前面に薄く1材を補う。両足先は別材である。足ホゾは別材で足裏に差し込む。
白毫珠、右手前膊先、両手首先、両足先、表面の彩色及び漆箔、光背、台座は後補である。左手第3指の第1関節から先は欠失している。
像本体には銘はないが、台座の6角形に組まれた下框の裏側に、宝永2年(1705)の台座の再興銘が墨書で記される。
快慶後期の様式を踏襲した安阿弥様を示す像だが、褊衫をたくしこまずに垂下させる点など、快慶の様式には見られない特色がある。装飾的な要素を巧みな彫技で堅実に処理し、まとまりのある作風を示す。制作年代は鎌倉時代、13世紀後半~14世紀前半と考えられる。大阪市内に残る鎌倉彫刻の貴重な作例のひとつである。
用語解説
恵心僧都(えしんそうず) 平安時代中期の天台宗の僧侶・源信(942-1017)。比叡山延暦寺の横川の恵心堂に隠居していたことによる呼称
三道(さんどう) 仏像の首にある三本のしわ
螺髪(らほつ) 巻き毛状になった如来の髪。彫り出したものと別に作って貼り付けたものがある
白毫(びゃくごう) 仏像の額中央にある白色の巻き毛。水晶などで表現する
安阿弥様(あんあみよう) 鎌倉時代前期に活躍した仏師快慶の創始した彫像の作風。快慶が安阿弥陀仏と号したことに由来する