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大念佛寺山門 附 扁額・棟札

2019年1月9日

ページ番号:9159

大念佛寺山門 附 扁額・棟札

だいねんぶつじさんもん つけたり へんがく むなふだ

大念佛寺山門1棟・扁額1枚・棟札2枚

分野/部門

有形文化財/建造物

所有者

宗教法人 大念佛寺(だいねんぶつじ)

所在地

大阪市平野区平野上町1

紹介

大念佛寺山門の写真

 融通念仏宗の総本山である大念佛寺の創建は平安時代後期の大治2年(1127)に、開山良忍上人(りょうにんしょうにん)が修楽寺の別院香花院に念仏道場を開いたことに始まるというが、中世の大念佛寺の状況については詳らかでない。
 江戸時代前期の元和元年(1615)に寺地(じち)が定まり、寛永から寛文年間(1624~1672)には、総本山にふさわしい伽藍(がらん)が営まれた。
 また大通上人(1649~1716)の時代以降は、大念佛寺を中心とする融通念仏が一宗として幕府公認の教団組織をもつようになり、元禄年間にかけて境内の諸堂宇が建立され、伽藍が整備された。
 総本山の寺院にふさわしく、広大な境内には、山門のほかに、府下最大規模を誇る本堂(昭和13・1938年建立)をはじめ、経蔵(元禄年間)、南門(17 世紀前期)、円通殿(江戸中期)、宝庫(江戸中期)、鐘楼(江戸末期)、毘沙門堂(江戸末期)など、多くの木造建築が並び寺観を整えている。
 山門は三間一戸の形式であるが、中央間を高い切妻屋根(きりづまやね)とし、両脇間は段違いに低い切妻屋根をのせ、その前後に転びの大きな控え柱をつけた特異な形式である。
 類例として、黄檗宗(おうばくしゅう)寺院である萬福寺総門や東光寺総門(共に元禄6・1693年建立)にみることができるが、当山門はこれらと比べて規模も大きく豪壮であり、構造形式にも異なった点がある。
 まず、中央間の両側に長大な親柱を立て、この間に女梁、男梁に挟まれた3間通しの冠木を入れ、この上に根肘木(ねひじき)つきの虹梁(こうりょう)を組む。
 虹梁上には拳鼻つきの花肘木(はなひじき)を詰組様に2組載せ、さらに屋根出桁を支える腕木を補強するために尾垂木(おだるぎ)付き挿肘木(さしひじき)を組むなど、華やかな構成となっている。このようにして中央部の屋根を高く構えるとともに、梁と組物の架構の妙をみせている。
 また、冠木中央間の上部には菊花の大輪をあしらった蟇股(かえるまた)を載せ、冠木上の腕木と両側の落屋根の破風板(はふいた)が接する位置に連続して一体となった絵様を彫り込んでいる。さらに男梁、女梁、腕木、尾垂木と落屋根の地垂木鼻にも絵様繰形をつけるなど、独特の創意がみられる。
 このような絵様繰形や詰組、挿肘木などを積極的に用いた手法は中国の牌楼(はいろう)の系統に極めて近く、わが国では稀有のものといえる。
 異色ともいえるこの門は、大念佛寺の一宗独立の高揚した気分を象徴する重要な遺構といえる。
 当山門には棟札が2枚伝わっている。1枚は造立の際の棟札であり、宝永3年(1706)の銘と大通上人の名がみえ、これにより山門の創建時期が同年であることがわかる。
 もう1枚は、明治31年(1898)の火災で建物の一部を損傷したため、明治34年(1901)に修理した時のものである。
 扁額は、山門中央間の虹梁に掲げられていたものであり、「大源山」の山号が記されている。創建時のものと思われる。
 これらはいずれも当山門の創建から後の修理等の情況を示す重要な資料と考えられる。

用語解説

伽藍(がらん) 仏道を修める所。ひいては寺の建物。寺院。主に、俗世間との境界を示す山門、本尊を祀る本堂、仏塔、学習の場である講堂、僧の住居である庫裏、食堂(じきどう)、鐘楼、東司(とうす)などで構成される。これらの要素の名称、配置や数は宗派、時代によって異なる

 

参考文献

大阪府教育委員会 『大阪府の近世社寺建築』(1987)

 

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