城東区の都市景観資源(わがまちナイススポット)
2024年7月26日
ページ番号:162411
城東区の都市景観資源(わがまちナイススポット)について
大阪市では、城東区の都市景観資源の発掘のため、城東区ゆめ~まち~未来会議との連携により「わがまち自慢の景観」を募集し、大阪市都市景観委員会の審議を経て、平成24年3月30日に10件を都市景観資源に登録しました。また、令和5年3月1日に3件を、令和6年2月29日に8件を追加登録しました。
城北川日新製糖今福工場の艀 | 皇大神宮 | 野崎街道の家並み | 諏訪2丁目の大いちょう | 関目2丁目・4丁目の楠並木 |
中浜下水処理場の桜 | 白山神社 | 野江水神社 | 野江水流地蔵尊 | 大阪信愛学院 |
諏訪神社 | 関目神社(須佐之男尊神社) | 城東区複合施設 | させん堂不動寺 | 東本稲荷神社 |
八劔神社 | 大日寺と宝篋印塔 | 若宮八幡大神宮 | 蒲生行者講 | 蒲生四丁目周辺の再生された古民家のある町角 |
関目スラローム道路 |
平成24年3月30日登録の都市景観資源
城北川日新製糖今福工場の艀(しろきたがわにっしんせいとういまふくこうじょうのはしけ)
所在地
城東区今福西6丁目8番
概要
日新製糖今福工場は、昭和27年(1952年)に新光製糖の今福工場として建設されたが、平成25年(2013年)の日新製糖との経営統合により現名称に変更になった。精製糖、氷砂糖、液糖の製造販売等を業種とする会社で、かつて“水の都”といわれた大阪において、地の利を活かしてCO2排出量の少ない、艀(はしけ)輸送を操業開始時より続けている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
川のまち城東区のシンボル的存在であり、希少価値がある。城北川の遊歩道沿いでランドマーク的な景観を生み出している。産業遺産としても、大変魅力的であり、景観資源としてふさわしい。
皇大神宮(こうたいじんぐう)
所在地
城東区今福南2丁目12番31号
概要
皇大神宮は、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)を祭神とし、神宮様と称して広く崇敬され栄えてきた由緒ある神社である。現在の社殿は、享保2年(1742年)、天保13年(1842年)、明治13年(1880年)に改修され、昭和7年(1932年)に大阪城の設計を手がけた古川重春氏の設計により改築された、桃山様式の風雅な流造の社殿である。平安時代末期に摂津国今福村が開発された時、同地に天照皇大神をお祀りしたのが始まりと伝えられている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
手入れも行き届いており、様々なストーリーが埋もれている雰囲気がある。地元の方の憩いの場。歴史を伝える外観や境内の石碑などが特徴的で、地域との繋がりも強く感じられる。
野崎街道の家並み(のざきかいどうのいえなみ)
所在地
城東区蒲生4丁目1~3番
概要
野崎街道は、通称「野崎の観音さん」で知られる曹洞宗福聚山慈眼寺(そうとうしゅうふくじゅざんじげんじ)(大東市野崎)へ参詣するルートである。野崎参りは 17世紀後半の延宝(1673~1681)・元禄(1688~1704年)に始まり、明治の末頃まで、大坂の町や近郷から行楽を兼ねてお参りをする人々で賑わった。今でも旧街道沿いに、古い伝統的な家屋が点在しており、かつての街道筋だった面影が残っている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
諏訪2丁目の大いちょう(すわ2ちょうめのおおいちょう)
所在地
城東区諏訪2丁目11番8号
概要
大阪市指定<昭和43年(1968年)10月1日>の保存樹で、高さ16.5m、幹まわり3.3mに達する。宅地内にあるが、樹高が高いことから遠くから眺められ、落葉の季節には、道一面に黄色いじゅうたんが敷きつめられたように美しくなる。幹まわりから見ても、かなりの樹齢であると推察され、この地域のシンボル的存在である。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
住宅に住んでいる方が管理されている庭木のイチョウである。大木のため、塀越しにその姿を見ることができ、落ち着きのある地域景観の形成に貢献している。住んでいる方が丹誠込めて育ててきたことが察せられるとともに、誇りが感じられる景観である。
関目2丁目・4丁目の楠並木(せきめ2ちょうめ・4ちょうめのくすのきなみき)
所在地
城東区関目2丁目8番、9番、関目4丁目2番、10番
概要
関目2丁目、4丁目の道路にある楠並木。延長100m強の「クスノキ並木」で、高さ約10m、枝振りも立派で手入れもよく行き届いた「癒しの空間」となっている。真夏の昼下がりや軽やかなそよ風に触れる事の出来る、貴重な緑陰空間である。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
中浜下水処理場の桜(なかはまげすいしょりじょうのさくら)
所在地
城東区中浜1丁目17番
概要
中浜下水処理場は、大阪市で3番目の下水処理場として昭和35年に通水した。場内に整備された「中浜せせらぎの里」周辺には、約300本の桜並木が毎年春に見事な桜のトンネルを作り、多くの人々の目を楽しませている。。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
白山神社(しらやまじんじゃ)
所在地
城東区中浜2丁目3番15号
概要
白山神社は、菊理媛神(くくりひめのかみ)を祭神としている。創建年月は不詳であるが、明治5年(1872年)までは、白山権現と称していた。応永(1394年)の頃から中浜・鴫野・森の諸村の氏神であった。天正4年 (1576年)織田信長が石山本願寺を攻撃した時、社殿を焼失したが、慶長8年(1603年)豊臣秀頼により再建された。しかし、同19年(1614年)大阪冬の陣による兵火で再び焼失した。元和3年(1617年)再建されるが、その後も幾度かの改築・修理が加えられ現在に至っている。また、神社の境内にある「イチョウ」の木は、大阪府の天然記念物に指定されている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
銅葺き屋根が美しく、イチョウの大木と一体となり、どこから見ても美しい良好な景観を形成している。石山本願寺と信長との攻防、大坂冬の陣など、大阪の歴史と大きなかかわりを持つ神社である。イチョウは見事な枝振りの大木で、大阪府指定天然記念物に指定されている。
野江水神社(のえすいじんじゃ)
所在地
城東区野江4丁目1番39号
概要
水波女大神(みずはのめのおおかみ)を祭神とし、一般には水神社・水神さま・水神宮・野江神社などと呼ばれている。伝えられるところによれば、天文2年(1533年)三好政長が榎並城を築く際、たびたび水害を被ったので、水火除難の守護神として城内に小さい祠を造営し、祀ったのが起源といわれている。現在の社殿は、明治18年(1885年)の大洪水で倒壊したため、明治21年(1888年)に再建されている。この地は榎並猿楽発祥の地でもある。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
稠密な町の中で突如として景色が変わり、急に現われてくる開放的な緑と歴史的な空間である。社殿の瓦に独特な細かい文様をもち、美しい。日常は駅への抜け道でもあり、お参りする人も多く、地域の神社として親しまれている。
野江水流地蔵尊(のえすいりゅうじぞうそん)
所在地
城東区野江4丁目1番39号
概要
大阪北部一帯を襲った、未曾有の大洪水時(明治18年)に、当地に流れ着いたとの謂れがあり、城東区民にとって忘れてはならない出来事の証人として、守り伝えなければならないお地蔵さんとされている。地元町会に守られ、地蔵盆などの行事は欠かさず毎年行われている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
お地蔵さんが可愛らしくて雰囲気があり、ストーリー性も感じられる。お参りしている人も多く、地元の方に愛されている。野江水神社の鳥居脇に位置し、景観上も目に付きやすく、地蔵盆などで地域とのつながりも強い。
大阪信愛学院(おおさかしんあいがくいん)
※令和6年5月20日名称改正
所在地
城東区古市2丁目7番30号
概要
学院の歴史は明治17年(1884年)に川口居留地に開校したことに始まる。現在地の城東区古市(当時は東成区千林町)に移転した時に建設されたのが本館で、今でも幼稚園から短大まで続く同学院の中で、中学校校舎の一部として使用されている(開設:昭和7年(1932年))。また、聖堂は、第25回(2005年)大阪まちなみ賞(大阪都市景観建築賞) 大阪市長賞を受賞しており、街路の角地を生かして聖堂の祭壇を配置し、外壁をセットバックさせて街路と一体になった緑地と水盤を設け、周辺環境への積極的な配慮を行っている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
本館の伝統を感じさせる外観、教育施設としての端正な佇まいは、地域の景観資源として相応しい。重量感のある外壁と尖塔を持った聖堂は周辺地域のランドマークとして美しい景観を生み出している。建築物のボリューム感や色調のバランスだけでなく、細部ディテールまで美しく配慮された建物である。
令和5年3月1日登録の都市景観資源
諏訪神社(すわじんじゃ)
※秋祭り後から、節分の日まで展示しています。
所在地
城東区諏訪2丁目15番16号
概要
長野県にある諏訪大社の、全国に5千ある分社のひとつである。創建の年代は不明であるが、境内の石灯籠に承和3年(836年)寄進とあり、平安時代に創建されたと考えられている。祭神は、建御名方刀美命(たけみなかたとみのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)である。延喜元年(901年)、菅原道真が筑紫への左遷される時に当社に立ち寄り、休憩したとされている。諏訪大明神が身の行く先を助け導く神と聞き、御神号の額一面を奉納されたという。道真が座ったとされる腰掛石は現在も残っており、この石に触れると学業成就の願いが叶うと伝えられている。また、豊臣秀吉が天正18年(1590年)に天下統一をかけた小田原攻めで勝利したときには、大阪城鎮護の神として日頃尊崇している諏訪神社の霊験を得たとして、雌雄一対の獅子を奉納したと伝えられている。雄を白豊号、雌を白雲号と称していたが、明治18年(1885年)の大水害で雄獅子は流出し、現在は雌獅子のみが保存されている。秋祭りの際には、獅子舞の奉納が行われる(市指定無形民俗文化財)。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
正面には唐破風、後方と側面には千鳥破風を有する本格的な社殿となっており、神社林に囲まれ、荘厳な景観が保持されている。また無形民俗文化財の獅子舞など、歴史・文化性に富み地元に親しまれている点も評価できる。
関目神社(須佐之男尊神社)(せきめじんじゃ[すさのおのみことじんじゃ])
所在地
城東区成育5丁目15番20号
概要
須佐之男尊(すさのおのみこと)を祭神とし、現在は関目神社と呼ばれている。天正8年(1580年)、豊臣秀吉が大阪城築城の際、防備の一策として関目より古市森小路の間十余町の道路を特に屈折させて(七曲り)、敵兵の進軍を俯瞰し、その軍容兵数を察知するのに便利なようにした。これと同時に北の護りとして、武神の須佐之男尊を祀り崇敬すると共に、浪速の鬼門に当るので、鬼門鎮護の神として毘沙門天王を勧請して小祠を建立したことに始まる。 社殿は正徳年間(1711年~1716年)の台風により罹災し、明治18年(1885年)の大水害により流出したが、明治21年(1888年)に復興した。現在の社殿は、昭和52年(1977年)10月に建て直されたものである。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
城東区複合施設(じょうとうくふくごうしせつ)
所在地
城東区中央3丁目5番45号
概要
老朽化した区役所の建替えにあわせて、区内に点在する区民センター・図書館・老人福祉センターを集約した複合施設である。隣接する公園に面した北側は、来訪者同士の出会いや交流が生まれやすい空間とするために、施設の主要縦動線・共用スペース・ホールホワイエなどが配置され、透明感のあるつくりとなっており、東西に長い地域特性を生かすリズミカルな勾配屋根となっている。一方、道路に面した南側等は壁面緑化や木製ルーバーが設けられ、まちなみに潤いを与える立面となっている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
東西に長い地域特性を生かすリズミカルな勾配屋根、透明感のある北側の意匠、南側等の壁面緑化や木製ルーバーによって、まちなみに潤いを与えている。長大な壁面の圧迫感を軽減して、周辺の並木、隣地の公園や街路樹とも調和している。
令和6年2月29日登録の都市景観資源
させん堂不動寺(させんどうふどうじ)
所在地
城東区諏訪2丁目13番5号
概要
不動明王を本尊とする真言宗の寺院。豊臣秀吉が大坂城を築城した際、現在の生國玉神社のあたりにあった不動堂は取り壊され、1602年(慶長7年)に東成郡木野村において僧宗寛により再建されたと伝わる。その後、水害に見舞われ、1759年(宝暦9年)に第九代善戒により現在の場所に移転。了宅の代には友三寺と称しており、境内には友三寺の名が刻まれた石柱と了宅の名が刻まれた石塔が建つ。江戸時代の「摂津名所図会」に「左専道不動尊」として描かれ、日々参拝の人が絶えなかったと伝わる。現在は大阪四不動尊詣の「東方不動尊」として東方を担っている。1782年(天明2年)の銘が刻まれた梵鐘は、美術史上、保存の必要性があるとして戦時中も供出を免れた。
また、毎月28日「お不動さんの日」には、護摩法要が行われている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
東本稲荷神社(とうほんいなりじんじゃ)
所在地
城東区中浜3丁目18番11号
概要
衣食住の神様、商売繁盛の神様として知られている。1576年(天正4年)の兵乱で神殿を焼失したが、1603年(慶長8年) 豊臣秀頼により再建された。しかし、1615年(元和元年)戦乱でふたたび焼失し、その後、江戸時代に大坂城代阿部備中守正次が再建するも、1885年(明治18年)の大洪水により流出と、興亡をくりかえした。1928年(昭和3年)に境内地を拡張して神殿を再建し、今日に至っている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
八劔神社(やつるぎじんじゃ)
所在地
城東区鴫野東3丁目31番8号
概要
主祭神は八劔大明神、武速須佐雄大神(たけはやすさのおのおおかみ)、罔象女大神(みづはのめのおおかみ)。 1396年 (応永3年)、鴫野村のある住民の夢枕に一人の老翁が現れた。同じ夢を見たという村人が十数人も現れたことから御告げの河辺に確かめに行くと、一匹の小蛇が河辺に現れ、岸に上がると悠然と歩みを進め、鴫野村に入り留まった。そこに小さな祠を建ててこれを祀ったことが始まりと伝わる。1614年(慶長19年)11月26日大坂冬の陣、1885年(明治18年)の大水のため社殿が罹災、1896年(明治29年)に新しい社殿や鳥居が再建された。1914年(大正3年)天王田村の氏神八阪神社と永田村の氏神水神社を合わせ祀る。2000年(平成12年)、現在の社殿に大改築する。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
大日寺と宝篋印塔(だいにちじとほうきょういんとう)
所在地
城東区鴫野東3丁目31番17号
概要
弘仁年間(810~824年)弘法大師が当地を訪れた際、世の女性の難産を除くために一刀三禮(いっとうさんらい)の大日如来像を刻み、大日寺を建立したと伝わる。豊臣秀吉が大坂城築城の際、鬼門除けにお詣をし、境内で休息したと伝わるほか、「摂陽群談」「摂津名所図会大成」にも「大日堂」の名が見え、「子安の大日」として広く信仰されていたことがわかる。
また、境内のゲージの中に安置されている宝篋印塔は鎌倉時代のものではないかといわれている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
若宮八幡大神宮(わかみやはちまんだいじんぐう)
所在地
城東区蒲生4丁目3番16号
概要
祭神は若宮八幡大神(仁徳天皇)。創建年月不詳。社地は古来村内の小丘にあり、クスノキ、エノキ等が繁って昼なお暗かったと伝わる。そのうちのクスノキの老樹は、1885年(明治18年)ごろまで神木としてあがめられていた。境内にあるクスノキやムクノキなど11本の樹木が、1997年(平成9年)10月31日大阪市保存樹林に指定された。1482年(文明14年)、畠山政長が守口城を攻めた時、神前で武運成就を祈願したと伝わる。また、境内にある石碑は、大坂冬の陣で徳川方の武将佐竹義宣が境内に陣を張り、戦勝を祈願したことを伝えるもの。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
蒲生行者講(がもうぎょうじゃこう)
所在地
城東区蒲生4丁目10番24号
概要
創立年は不詳だが、洞川の宿場の宿帳に元禄時代(1688~1704年)の蒲生行者講参りの記録が残されていることから、三百余年の歴史を有すると考えられる。蒲生の村民の安全と繁栄を念じ、不動明王、光永大明神(当所の地主大神)、役行者神変大菩薩、弘法大師像を村の守護神として祭り続けている。奈良県にある大峯山上の行場で厳しい修行を終えて下山してきた人に体をまたいでもらうと強くなるというので、人々は道に横たわってまたいでもらっていたという。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
蒲生四丁目周辺の再生された古民家のある町角 (がもうよんちょうめしゅうへんのさいせいされたこみんかのあるまちかど)
所在地
城東区蒲生3~4丁目、今福西1丁目
概要
「がもよん」の愛称で親しまれる大阪市城東区蒲生4丁目周辺のエリアでは、一般社団法人「がもよんにぎわいプロジェクト」が閉業した昭和の商店や古民家などの空き家を事業用店舗に再生する事業を推進している。
所有者から地域単位の活性化を求められたことがきっかけで2008年6月、老朽化した米蔵をイタリアンレストランへ再生したことからスタートし、「がもよんばる」などの飲食イベントを定期的に開催し、店舗運営を継続できる環境づくりと飲食店同士が支え合いながら、地域の魅力を押し上げる仕組みを積み上げてきた。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
関目スラローム道路(せきめすらろーむどうろ)
所在地
城東区古市2~3丁目
概要
1990年(平成2年)に鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会」へのアクセス道路の1 つとして整備された。地域の環境にあった景観整備にも重点をおいて、鶴見緑地の豊かな自然のイメージがにじみ出た環境整備を目的として、数種類の線形を模型やコンピューターグラフィックス等で検討を行なった。大阪市ではじめて曲線を主体としたスラローム型線形(蛇行型)を採用した。車道幅員は4.0mまで縮小し、最低歩道幅員2.5m、最大4.5mまで歩道を拡幅し、緑地帯を設けて快適な歩行者空間を確保した。また交差点は赤系の色でイメージハンプを設け、自動車交通へのスピード抑制もうながしている。
講評〔大阪市都市景観委員会〕
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計画調整局 計画部 都市計画課(都市景観)
電話: 06-6208-7887 ファックス: 06-6231-3751
住所: 〒530-8201 大阪市北区中之島1丁目3番20号(大阪市役所7階)