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淀川区の都市景観資源(わがまちナイススポット)

2024年1月30日

ページ番号:348721

淀川区の都市景観資源(わがまちナイススポット)について

 大阪市では、淀川区の都市景観資源の発掘のため、「淀川区の自慢できる景観」を募集し、大阪市都市景観委員会の審議を経て、平成28年3月18日に1件を都市景観資源に登録しました。また、令和5年3月1日に新たに9件を追加登録しました。

都市景観資源一覧表
淀川河川敷(淀川区)    香具波志神社 新淀川橋梁(阪急) 
 神津神社 十三大橋 塚本神社
 上淀川橋梁(JR) 新淀川大橋 大願寺と長柄人柱碑

 蒲田神社

  

淀川河川敷(淀川区)(よどがわかせんじき[よどがわく])

淀川区都市景観資源(淀川河川敷(淀川区))

所在地

淀川区塚本1丁目~西中島1丁目

概要

 淀川区内の淀川河川敷に、都市部における貴重なオープンスペースとして淀川河川公園の西中島地区と十三野草地区があり、西中島地区は、野球場や芝生広場が整備されており、休日は野球やバーベキュー利用で賑わっている。十三野草地区は交通アクセスがよく、イベント会場としても利用されており、花火大会やマラソン会場等の利用で賑わっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 都市の中の貴重な水辺のオープンスペースとして開放的で潤いのある景観を提供している。淀川右岸の梅田の高層ビル群への眺望景観は、現代の大阪の景観として価値があり、重要な地域景観資源といえる。

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香具波志神社(かぐはしじんじゃ)

香具波志神社2
香具波志神社4
家具波志神社7
香具波志神社24
香具波志神社地図

所在地

淀川区加島4丁目4番20号

概要

 平安時代の天徳3年(959年)に鎮座した古い歴史を持つ神社。昭和34年(1959年)に鎮座一千年、平成31年(2019年)に鎮座千五十年の記念祭を実施。本殿は、文久3年(1863年)建のものであったが、平成7年(1995年)阪神・淡路大震災により崩壊し、その後再建された。境内には様々な史跡が残る。南北朝のころ、武将楠木正儀(くすのきまさのり)が、佐々木氏との合戦時に焼却した旧神崎橋である「康安年間ゆりあげ橋橋脚」や当社に戦勝祈願した際に愛馬をつないだという「楠木正儀、駒つなぎの楠」である。この駒つなぎの楠は、その後大阪市一の巨木になり、昭和13年(1938年)には大阪府の天然記念物に指定されたが、河川暗渠化のために枯死し、今は切り株が残されている。他にも戦国時代、三好長慶(みよしながよし)が戦勝祈願に朱大鳥居を奉納した「三好長慶、奉納の朱塗大鳥居の社名額、礎石」や、令和4年大阪市有形指定文化財に指定された「蔵王権現神像(ざおうごんげんしんぞう)、童子像」、昭和34年大阪市史跡に指定された「上田秋成(うえだあきなり)奉納和歌帖、文化資料、遺品」、「加島銭座(かしまぜにざ)奉納品、運営資料、作成道具」などが残されている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 社殿は鉄筋コンクリートによる再築ではあるが、神社らしい景観を有している。境内にはクスノキの巨木を含めた緑豊かな環境が確保され、隣接する保育園の園児の遊び場となっている。

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新淀川橋梁(阪急)(しんよどがわきょうりょう[はんきゅう])

新淀川橋梁(阪急)1
新淀川橋梁(阪急)12
新淀川橋梁(阪急)16
新淀川橋梁(阪急)18
新淀川橋梁(阪急)地図

所在地

淀川区十三東1丁目・北区中津4丁目間

概要

 新淀川橋梁(阪急)は、阪急京都線、宝塚線、神戸線の3線が淀川をわたる部分に架けられている橋梁である。宝塚線及び神戸線の橋梁は、鋼トラス橋(大正15年(1926年)架橋)、京都線の橋梁は鋼鈑桁の橋梁(昭和34年(1959年)架橋)である。梅田から北へ延びる阪急電車の線路は、十三駅を要にして、神戸、宝塚、京都方面へと扇のように広がっている。その始まりは、明治43年(1910年)宝塚線の開業によって十三駅が開設されたことにより、続いて大正9年(1920年)に神戸線、翌年に京都線が開業した。梅田~十三間を繋ぐ宝塚線、神戸線の橋梁は、大正15年(1926年)架橋されたものである。その後、高度経済成長を迎えた昭和30年代、人口増加に対応した輸送量の増強が課題となった。当時、梅田~十三間には京都線の線路がなく、宝塚線の線路を使っていたため、この間に京都線の線路を増設して輸送力を増強を図ることになった。その増設工事では、淀川の鉄橋の架橋工事が難関だったといわれ、軟弱な地盤に対応するため、深さ28mまで杭を打ち込んで強化、陸上輸送が困難な巨大な橋桁は淀川の水路を使って運ぶなどされた。昭和34年(1959年)梅田~十三間の三複線化工事が完成して、各線ともスムーズな輸送が行えるようになった。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 隣接する連続アーチの十三大橋とともに、トラス橋の形態が、良好な都市景観を形成している。また、通過する列車と上空を通る航空機を同時に視認できる場所があることも、地域独特の良好な都市景観を形成していると評価できる。

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神津神社(かみつじんじゃ)

神津神社3
神津神社7
神津神社9
神津神社13
神津神社地図
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所在地

淀川区十三東2丁目6番39号

概要

 天正年間(1573~1592年)に創建された神社で、初めは、八幡大神を祭り、武士の信仰を集めていた。明治42年(1909年)、近辺のいくつもの神社を合わせ、神津神社となった。戦後勧請した十三戎(とみえびす)は、発音がトミ(富)に通じるところから商売繁盛の神様として、大変な人気がある。境内に「吉向がま」が再現・保存されている。現在の本殿は、昭和47年(1972年)に改築されたものである。 「吉向がま」とは、享和の初め(1801年頃)、戸田治兵衛が十三村(中津川の南岸にあった)に開いたのが起こりである。時の将軍家の慶事に際し、鶴と亀の食籠(じきろう)を献上したところ、海亀の食籠が大層気に入られ、亀甲、すなわち、吉に向かうに通じ、「吉向」としてもてはやされ、当地区の名物焼物となった。その後、吉向がまは、明治18年(1885年)の淀川大洪水後、中津川改修のため移転した。その後、高津を経て、現在交野市と東大阪市に二家ある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 幹線道路の淀川通からも視認でき、また境内は適度な緑によって一体感があり、落ち着きのある景観を形成している。また、「十三(とみ)戎(えびす)」や毎月行われる「十三市(とみいち)」など、地域との関わりについても評価できる。

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十三大橋(じゅうそうおおはし)

十三大橋5
十三大橋7
十三大橋8
十三大橋9
十三大橋地図

所在地

淀川区新北野1丁目・北区中津7丁目間

概要

 十三大橋は、十三の名称の由来のひとつとされている「十三番目の渡し」のあった付近にある、橋長681.24m、幅員20mの橋である。この地に初めて橋が架けられたのは、明治11年(1878年)である。それ以前の江戸時代には、淀川には1本の橋も架けられていなかったが、明治になってから架橋の運動がおこり、この機運の中で、成小路村の村人13人の共同経営の木橋として、明治11年(1878年)7月に竣工した。私設橋のため、有料であった。その後、明治18年(1885年)の大洪水を契機に淀川が開削され、明治42年(1909年)に新たな大橋(鉄橋)が架けられた。大正期に入ると、大阪の都市域は急速に拡大し、大阪市では第一次都市計画事業を策定、大阪府でも十大放射路線の計画事業をスタートさせた。現在の十三大橋は、旧能勢街道を府県道大阪池田線として拡幅整備するのに伴い、昭和7年(1932年)に架橋されたものである(鋼タイドアーチ5連、ゲルバー式鋼鈑桁橋)。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 5連アーチが特徴的でかつ印象的な90年を超える歴史を持つ橋であり、隣接する新淀川橋梁とともに良好な都市景観を形成している。また、通過する列車と上空を通る航空機を同時に視認できる場所があることも地域独特の良好な都市景観を形成していると評価できる。

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塚本神社(つかもとじんじゃ)

塚本神社3
塚本神社6
塚本神社7
塚本神社地図
塚本神社13

所在地

淀川区塚本2丁目2番7号

概要

 慶長15年(1610年)京都の八坂神社より分祀、塚本八坂神社と称し、現在の北側に広大な境内を有し、付近住民の尊崇を集めていた。小さな塚本村の氏神様であったが、明治42年(1909年)の政令で富島神社に合祀された。合祀の是非の基準は、必要な建物、境内地があること、年間300円以上の収入があること、専任の神職がいることで、数十戸の塚本村では達成できず、合祀せざるを得なかった、とされている。戦後、復興の気運が起こり、昭和37年(1962年)に社務所、昭和38年(1963年)に本殿が完成した。境内入って右側には、交差して生えた2本の松の木があり、御神木として祀られている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 社殿には歴史性が感じられ、交差して茂る2本の松が印象的な境内である。また、神輿の格納庫等もあり、地域とのつながりも評価できる。

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上淀川橋梁(JR)(かみよどがわきょうりょう[ジェイアール])

上淀川橋梁(JR)1
上淀川橋梁(JR)9
上淀川橋梁(JR)13
上淀川橋梁(JR)20
上淀川橋梁(JR)地図

所在地

淀川区西中島1丁目・北区本庄西3丁目間

概要

 東海道本線上り線、下り線、東海道本線貨物支線(梅田貨物線)の3線で構成される。明治時代に入ると、それまで主流だった駕籠と馬での交通は終わりを告げ、鉄道と人力車という新しい交通手段の時代が到来することとなった。政府は、明治5年(1872年)に東京-横浜間の鉄道を敷設したのを手始めに、同7年(1874年)には大阪-神戸間、10年(1877年)には大阪-京都間の鉄道を建設した。その後、新淀川の開削に伴い明治34年(1901年)に新しく架橋されたのが、上淀川橋梁(現在の上り線)である。以後、東海道本線は最重要幹線として利用度が増大し、沿線地域の発展に伴い大阪近郊の鉄道輸送機関としての役割も大きくなった。その後昭和に入り、現在の貨物線(昭和3年(1928年)開通)、下り線(昭和14年(1939年)開通)が完成した。上り線及び貨物線は下路プラットトラス、下り線は上路プレートガーダー形式である。トラス橋は、それまで殆どがイギリス流であった橋梁設計に、アメリカ流(クーパー型)が導入されたことを象徴するものである。年月を経てクーパー型トラス橋が姿を消しつつある昨今であっても、高密度の列車加重に耐え、未だに現役で使われていることは特筆すべき事項と言える。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 建造100年を経た上り線(下路(かろ)プラットトラス)は貨物線らしい意匠であり、下り線(上路(じょうろ)プレートガータ)は旅客線にふさわしい意匠となっており、共に河川敷レベルに近く、視覚的なインパクトのある景観を形成している。また柱脚も魅力的である。

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新淀川大橋(しんよどがわおおはし)

新淀川大橋2
新淀川大橋4
新淀川大橋10
新淀川大橋16
新淀川大橋地図

所在地

淀川区西中島1丁目・北区豊崎6丁目間

概要

 新御堂筋は大阪市内と北大阪を結ぶ一大動脈であり、これが淀川を渡る所に架かるのが新淀川大橋である。大正15年(1926年)、人口の急増や都市機能拡大に対処するため、御堂筋線が計画決定され、また、市域拡大に対応して昭和7年(1932年)にスタートの第2次都市計画事業の一つに、御堂筋の北進があった。この2つの計画に基づいて、道路・鉄道の併用橋の建設が始められた。しかし、昭和14年(1939年)に下部工事が完成したものの、戦時体制に入り、資金不足から中断された。その後、20余年を経て新幹線建設が契機となって建設が再開され、東京オリンピック開催の直前、昭和39年(1964年)、地下鉄1号線(御堂筋線)と上流側の道路が完成した。また、下流側の道路部分は、日本万国博覧会の開催にあわせて、昭和44年(1969年)に完成、全線の開通をみた。上部構造としては、自碇式吊橋が計画されていたが、結局鉄道部はランガー桁アーチ形式、道路部は三径間連続鋼床板桁橋として完成した。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 シンプルな形状の「用」「強」「美」を備えた道路部(新御堂筋)がランガー桁アーチ形式の鉄道部(大阪メトロ御堂筋線)をはさんだ形状で、鉄道と車道が並走しており、独特な景観を形成している。鉄道・道路共に大動脈として機能している一方、橋上から干潟も見ることができるなど、地域にとって欠かせない役割を果たしている。

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大願寺と長柄人柱碑(だいがんじとながらじんちゅうひ)

大願寺と長柄人柱碑3
大願寺と長柄人柱碑5
大願寺と長柄人柱碑17
大願寺と長柄人柱碑18
大願寺と長柄人柱碑地図

所在地

淀川区東三国1丁目4番5号

概要

 推古天皇の時代、長柄の架橋工事を成功させようと人柱になった巌氏(いわうじ)を弔うため、推古天皇の勅命で創建されたお寺だとされている(623年創建)。巌氏は吹田の豊かな長者であったが、報恩の念が強く、人々の難儀を救おうと自ら犠牲になった。その後、巌氏の愛娘・照日(てるひ)は北河内に嫁いだが、父が人柱になったショックで口がきけなくなった。困り果てた夫は照日を実家に帰すべく垂水の近くに来たところ、鳴き声をあげて飛び立った一羽の雉(きじ)を射落とした。それを見た照日は、「ものいわじ 父は長柄の橋柱 鳴かずばキジも 射られざらまじ」と詠った。妻が口を開いたのを喜んだ夫は、雉を手厚く葬り、来た道を取って返して北河内へ戻ったという。大願寺北側の飛び地である境内地には、長柄人柱碑が建っている(昭和11年(1936年)建立)。大願寺は、宝永6年(1709年)、法華宗の信徒で大坂の豪商、天王寺屋弥右衛門の浄財で再建されている。寺宝として「浪速の笑い地蔵」で親しまれている地蔵菩薩像などがある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 本殿の建造物が力強く、また、緑も適切に管理されている。境内全体の景観が美しく保たれている。

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蒲田神社(かまたじんじゃ)

蒲田神社2
蒲田神社7
蒲田神社15
蒲田神社22
蒲田神社地図

所在地

淀川区東三国2丁目18番12号

概要

 御祭神は、宇賀御魂大神(うがのみたまのおおかみ)と別雷大神(わけいかづちのおおかみ)である。もとは稲荷神社であったが、その昔、京都から別雷大神のご分霊を乗せた船が、この付近でつむじ風に遭い、風待ちをされた由縁から別雷大神もあわせておまつりすることになったという。明治42年(1909年)から蒲田神社となった。境内には多くの大楠があり、また正面鳥居少し奥には、樹齢千年余以上といわれる古い切り株が安置されている。この切り株の上には、白光(しらみつ)さんという、稲と水の神様で巳(み)さんをお祀りしている小さな祠がのっている。本殿裏には、樹齢1,000年を超える千年楠が残る。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 手入れが行き届いた境内に、分社が参道に沿って配置されている。巨樹、巨木が保存された神社林は力強く、また風格が感じられる形態・意匠となっている。

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計画調整局 計画部 都市計画課(都市景観)
電話: 06-6208-7887 ファックス: 06-6231-3751
住所: 〒530-8201 大阪市北区中之島1丁目3番20号(大阪市役所7階)

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