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区内南西部

2011年4月4日

ページ番号:779

鴫野

  この付近一帯は、旧大和川と寝屋川が合流するデルタ地帯であり、大和川付け替え工事以降干拓が進んだ見渡すかぎりの水田地帯で、その水田にシギが群がっていたところから鴫野と名付けられたともいわれています。

 戦国時代からこのあたりを志宜荘(志宜野とも書く)という荘園名で呼ばれていました。

 当地は昔から野菜の苗株栽培が盛んで、鴫野苗と呼ばれ近郷で評判でした。

 

白山

 白山神社が当町域にあることに由来します。昭和6年(1931)5月町名変更により中浜町から白山町になりました。

 

 

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中本

  町名は、明治22年近郷の6村が合併に際し、区域の大きかった中道・中浜・本庄の村名を交互折衷して村名として用いたことに由来します。

 砲兵工廠や陸軍被服支廠の下請け工場街、ボタン・洋傘などの家内工業の町として発展しました。

 

中道

  町名は、旧村名によりますが、中道の名称は鎌倉時代から存在し、江戸時代に大坂から暗峠(くらがりとうげ)に向かう奈良街道が村の中を通っていたことに由来します。

 付近一滞は低湿地で、鯉や鯰などの淡水漁業が盛んなところでした。

 

中浜

  中世の歴史によく出てくる新開荘の一つの集落であり、元禄14年(1701年)に書かれた『摂陽群談(せつようぐんだん)』にも人々から「奈加未村(なかまむら)」といわれていたことが記されています。中間村と呼ばれていたこともありましたが、後になって中浜と称するようになったとされています。

 また、平野川と千間川が流れていたころ、鴫野・森という二つの集落の中央に位置し、そこが川浜辺になっていたことから中の浜といわれていました。

 

布屋

 町名は、新田名(布屋新田)によりますが、この地は綿作地帯であり、布屋の名は開発者の屋号と思われますが、開発の記録がないことから確証はありません。

 

 

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森之宮

 当地の前身はその殆どが森町に含まれており、環状線の森ノ宮駅に隣接していたため、この地にあった会社や事業所では森ノ宮の名称を冠していました。駅名の森ノ宮は氏神の社名である鵲森宮(かささぎのもりのみや/通称森之宮神社)に由来すると思われます。

 

森町

  日本書紀に記載されている難波杜が当地域の森にあたるとし、この「杜」にちなむとする伝承が有力です。森とは難波の森又は鵲(かささぎ)の森を略したものです。

 当地は、『新勅撰和歌集』(しんちょくせんわかしゅう)などにある玉造江に当たり、城東練兵場ができるまで「駒ヶ池」、「大蛇ケ淵」(おろちがふち)があったそうです。

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