区内南東部
2011年4月4日
ページ番号:780
城東区の新旧の地名の由来についてご紹介します。

左専道
一説にはそれ以前に左遷道と呼ばれていたと伝えられるが、いずれにせよ左遷という名は有り難くないところから、村人たちが長い年月とともに「左専道」(もっぱらのみち)と改めたともいわれています。
当地は、昔から木綿の耕作地でしたが、木綿が衰えてから蔬菜(そさい)づくりが盛んとなり「させんど青物」の名で知られたところです。
諏訪

天王田
後に天王田と改められますが、初め天皇田と称していたのは、当地が用明天皇を祀る鵲森神社(かささぎのもりじんじゃ/中央区森ノ宮中央)の神領であったところからといわれています。
永田
地名の由来は不明ですが江戸時代からの村名で、永田を含むこの地域が新開荘という四天王寺の荘薗として記録に現れるのは、興国元年(1340年)です。旧大和川・寝屋川などの河口の低湿な沼地を開いた荘園ということから、新開荘と名付けられたものと思われます。
また、室町時代の応仁2年(1468年)に蓮如上人の教えを受けた村人が、この永田の地に蓮乗寺を建てたことが同寺の縁起にも記されています。なお、蓮如上人は、明応5年(1496年)現大阪城のあたりに石山本願寺を造営したことでも有名です。

放出
まず、阿遅速雄(あじはやお)神社の由来によれば、熱田神宮から「天叢雲(あまのむらくも)の剣」を盗んで逃げた新羅の僧を乗せた舟が、暴風雨に遭い難破してこの地に漂着したとき、その剣を「放」り「出」したことによるといわれています。
また、天智天皇7年(668年)に、この地に「牧」をおいて多くの馬を放し飼いにしたことから、この飼育地を放出と呼んだとする説もあります。
さらに、昔は「はなてん」と読まずに、「はなちでん」から「はなちで」と称していました。当地は古代から中世にかけて、河内湖からの湖水が大和川や寝屋川の流れと合流して淀川(現在の大川)に注ぐあたりに位置し、仁徳天皇の頃にも旧大和川の氾濫が多かったことから、この地に樋を作りその水を調節して水を「放」ち「出」したところから、その名が起こったともいわれています。
中世の戦史によく出てくる「放出の渡し」はこの地にあったとのことです。
三組
三カ所に点存する地域を組み合わせた新田の地域であることに由来します。この地は、放出町・今津町や東大阪市の森河内・菱屋・稲田などに囲まれた細長い地域でした。
大正14年(1925年)4月大阪市に編入されるまで榎本村に属していました。
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