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区内北西部

2011年4月4日

ページ番号:768

榎並

   野江・関目を中心とした周辺一帯をいい、平安時代以降は榎並荘として史上によく知られていたのは、この地が近衛家の荘園であったからです。

 言い伝えによると、この地一帯は大榎の繁茂した地であり、その森には鬼女が住んでいて、往来の人々を苦しめていたのを北面の武士の橘氏をはじめ36人が勅命によってこれを討ち取りました。この功によりこの地を与えられ、榎を伐採して開懇したことにより榎並の名が起こったといわれています。

 また、当地は河内の入江と大川の間に形成された干拓地で、茨田堤の構築により陸地化が進み、平安時代には農地になりますが、この地が大川の南、つまり「江南」に「榎並」の字をあてたともいわれています。

 明治22年4月、野江村・関目村・内代村の3村が合併して榎並村となり、大正3年(1914年)10月に榎並町になりました。

 

蒲生

   旧大和川(寝屋川)の北岸に位置し、洪水に苦しんだ低地帯であり、蒲生の名が使われるのは、江戸時代に入ってからで、以前は16軒の地主がいたので16軒村と呼ばれていました。

 また、文保元年(1317年)僧法蓮が奉進した「薬師寺鐘銘(やくしじしょうめい)」(『集古群類』)には摂津国榎並蒲生薬師寺とあり、蒲生は古くからの呼び名であったともいわれています。

 古来この地は蒲穂の産地であり、地名もこれに由来するものと考えられています。

 江戸時代の「五畿内産物図会」には、深江(東成区)の「菅笠」とともに蒲生村の「蒲穂」が名産品として紹介されています。

 

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新喜多

 宝永元年(1704年)旧大和川の河川敷跡に開発された新田で、現在の都島区東野田から城東区の蒲生・今福・放出を細長く斜めに横切って、東大阪市の高井田にかけてこの呼び名が汲んでいたのもそのためでした。地名の起こりは、新田開発者である鴻池新十郎・鴻池喜七・今木屋多兵衛の名前の頭文字を1字ずつ寄せて付けられたもので、もとは新喜多新田と称していました。

 

成育

 昭和24年に開設した榎並小学校分校が、昭和25年に榎並小学校から分離独立することになりました。独立準備委員会では校名を決めるに当たり、関目・野江の2地区が小学校の校下になることから、地名を用いることを避けることになり、同委員会では三つの候補を挙げ、その中から保護者に採択された学校名の「成育」(新しく成育する願いを込めたもの)からきています。

 

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聖賢

 昭和22年に聖賢小学校と改称された鯰江第2尋常小学校が開校(大正7年)した当時から、学校の前を流れる鯰江川に通学用に架けられた橋を聖賢橋と称していました。ここに学ぶ子どもたちが「聖人」のように知徳にすぐれ、道理に通じる「賢人」になるようにとの願いを込めて聖賢と名づけられたものです。いまでは、この橋も川も埋め立てられて道路になっています。

 

野江

 淀川左岸から寝屋川右岸に至る湿地帯の南部に位置する旧榎並荘25ヵ村の一つです。「野」は野原、「江」は岸を意味すると考えられ、室町時代に淀川によって運ばれた土砂が堆積し、湿地帯の陸地に誕生した村といわれています。

 また、伝承によると奈良時代の孝謙天皇(在位749~757)に油を献上した故事から、「油え」と称した地域に当たるとして、野江が「油江」から転じたとの説もあります。

 

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