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区内北東部

2011年4月4日

ページ番号:775

今福

  今福という名前の由来も、この村の形成された時期も明確ではありませんが、すでに鎌倉時代に村落が存在したことは栄照寺(今福南1-5-21)の古文書により明らかです。「今」は新しいこと、「福」は荘園時代の田地・米蔵などの意味の封戸(ふこ)と読むことができます。室町時代の荘園名の「久岐今福御厨(くきいまふくみくりや)」の一部が当町域にあたることに由来するともいわれています。

 江戸時代には油などを運ぶ剣先舟の拠点の港でもあり、交通の要路でもあったことから商業が繁栄しました。市町村制のはじまった明治22年(1889年)から鯰江村の大字名の一つでした。

 

新喜島

 当町の一部が新喜多新田の一部にあたることと、楠根川・城東運河・寝屋川に囲まれた三角形の島状の地域であったことに由来します。

 

 

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関目

 この地名は、古くは榎並荘の時代からあったもので、関目というのはこの地に見張所(目で見る関所)があったことから起こったといわれています。

 

鯰江

 現在の今福、蒲生、新喜多一帯を古くは鯰江といいました。鯰江川(現在埋め立てられて道路となっている)の名に由来しており、『摂陽郡談』によるとこの川に網を入れると鯰がよく取れたので鯰江川と称したといわれています。

 また、鯰江備中守がこの川を掘り開いたことからとか、大阪冬の陣の今福の合戦で、この川が戦死者の血で赤く染まったことから生血(なまぢ)川と呼ばれるようになったとの説もあります。

 さらには、この地と近江との関係から近江国愛智郡(滋賀県愛知郡)東鯰江の名を採り、現在の字が当てられるようになったともいわれています。

 

 

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古市

  平安時代の『和名類聚妙(わみょうるいじゅしょう)』によると、東生郡五郷の一つである「古市郷」が、河内の国茨田堤の下流にあたる当町付近の総称とされていることに由来します。

 また、茨田堤の下流部にあたり、古市は「淵」の語句が延びたものとする説もあります。

 古くから米・麦・菜種の栽培と下駄・櫛・筆の製造が盛んで河内木綿の取引も行われていました。

 明治22年4月千林村・森小路村・南島村・今市村が合併し古市村になりました。

 

森小路

 江戸時代からある地名で、かつて付近一帯に樹木がうっそうと繁茂し、その森の中に小路がうねうねと続いていたことによると伝えられています。

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