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区の歴史その2

2011年4月4日

ページ番号:814

掲載年月日:平成18年12月1日

 

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都市化によるまちなみの変化

 鉄道の開通により農村地帯から工場・商店・住宅が目立つようになった京橋・蒲生・新喜多新田などの集落を持つ鯰江地区には、明治23年頃から硝子工場が進出し、メリヤス工場なども増加する中で、人家が増え、明治21年から大正元年にかけて人口増加率229%にまでなりました。これにより、明治43年町制に移行しました。

 日清・日露戦争を契機に紡績工場・鉄工場などの大工場が操業をはじめ、なかでも明治3年に大阪城内に設立された造兵司(明治12年大阪砲兵工廠に改称)は大きな影響を与え、近接する西南部(現東中浜・中浜地区)一帯は、町工場と職工の住宅地となり、農村地帯から工業地域へと変化するとともに、人口の大幅な増加による都市化が図られました。

 

工場・住宅が建ち並び移り変わる大正~昭和初期のまちなみ

 大正2年、鴫野に大規模な紡績工場が進出し、翌年には今福と大阪天満橋を結んだ城東巡航船が開通、寝屋川は築堤浚渫工事によって運河化が図られるなど、大正期を通じて、当区の工業化と都市化を進める基盤整備が進んでいきました。また、大阪砲兵工廠が拡張されていくなか、城東線の京橋・森ノ宮間の西側すべてが工場用地となり、寝屋川沿い一帯には電気製作所・紙業会社・鋳物・ガラスなどの工場が建ち、これらの就労者向けの借家も次々と建てられ、それまでの田園風景は一変していきます。

 明治期に引き続き、大正期にも人口は大幅に増え、鴫野などで人口増加が著しかった城東村では、317%の増加率をみました。

 

大阪市への編入

 都市化が進むにつれ道路・下水道・保健施設などの整備が問題となった大阪市は、明治30年の第一次市域拡張に引き続いて大正14年第二次市域拡張を行い、当区域の東成郡榎並町、鯰江町、中本町、城東村、榎本村は大阪市に編入され東成区の一部となりました。

 また、市域編入と前後して都市計画法に基づき組合施行による土地区画整理事業が進みました。城東区域では、昭和2年に菫之荘区画整理組合が結成されたのをはじめとして、昭和12年までに野江・京阪沿線・今福・福田・放出・西放出・城東・諏訪・今津の9土地区画整理組合が設立され、区の面積の約5分の2にあたる633.5ヘクタールにわたって土地区画整理事業が昭和20年代まで行われました。

 

進む鉄道網の整備

 大正2年、桜ノ宮線の新喜多-桜ノ宮駅間が廃止され、昭和4年には廃止された線路の一部を利用して淀川貨物駅(現都島区)と吹田を結ぶ城東貨物線が建設されました。片町-木津間は片町線と改称され、昭和 8年には新たに鴫野駅が設置されるなど整備が進みました。また、昭和7年に片町線、同8年には城東線が電化されました。京阪電車も昭和8年に蒲生~守口間の高架複々線工事が完成し、京街道沿いの平地を曲がりくねっていた路線が直線の高架となり、今までの野江駅に加えて関目駅が設置されました。

 京橋駅は国鉄・私鉄が乗り入れる駅としてターミナル化が進みました。

 

地図の画像

明治43年の城東区域

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