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区の歴史その1

2011年4月4日

ページ番号:797

 掲載年月日:平成18年12月1日

 

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城東区の生い立ち

 かつての城東区域は、上町台地の東側の入り組んだ海でしたが、淀川と旧大和川が運び込む土砂によって次第に陸地化しました。標高は1~2メートルと全般的に低く平坦で、当区域が入り海だった時代には、難波江、難波潟と呼ばれていました。その後、陸地化してからは旧大和川が南北に流れ、大阪冬の陣では、大和川を挟んで今福と対岸の鴫野が戦場であったといわれています。

 江戸時代初期には、現在の地名のもととなる村々がほぼ成立していましたが、淀川と大和川の合流点に近く土地が低いため、昔から数え切れないほどの洪水に見舞われていました。しかし、宝永元年(1704年)に大和川が現在の流路に付け替えられてからは、洪水が減少し、旧大和川の河川跡には、新喜多新田・左専道新田・布屋新田などが開かれました。

 

水田が広がる明治初期の様子

 明治時代に入ってからの城東区域は、大阪府東成郡に属していました。旧大和川の付け替えにより開発された河川跡や自然堤防はやや高台になっており、集落は、旧大和川の堤防の上か、旧天井川の高台の上に分散独立しており、その周囲の低地には水田が広がり人家は一戸もありませんでした。

 

浸水した森之宮一帯の画像

大水害により浸水した森之宮一帯
(明治18年)

 

 この当時の主な交通手段は村内を通る幹線道路である京街道や古堤街道を利用していました。現在の城東区域内で最大の集落であった今福は、寝屋川や鯰江川に沿って水利に恵まれ、江戸時代から舟運の中継基地として栄えていました。また、広い宅地用地が得られたこと、東成郡の中心的位置にあったことから、明治のはじめから警察・消防関係の官庁が置かれていました。

 こうした静かな田園地域に明治18年、淀川大洪水があり、最も高台にあった今福を含めて当区にも大きな災害をもたらしました。 この災害をきっかけに淀川改修の猛運動が起こり、明治42年に大運河の新淀川が開削されました。この結果広い宅地用地が得られ、その後の都市化が進む大きな要因となりました。

 

明治後期に相次いだ鉄道の開通

 現在のJR環状線の一部となる城東線は、明治26年に敷設工事に着手し、天王寺~玉造間、玉造~大阪間を漸次開通させ、明治28年天王寺~大阪間が全通しました。また、明治28年には浪速鉄道の片町~四条畷間が開通しました。浪速鉄道は明治30 年に片町駅を貨物駅とし、網島駅(現在の都島区東野田交差点付近)~寝屋川間が旅客線となりました。さらに、明治34年には網島駅から桜ノ宮まで延長し、桜ノ宮~木津間が桜ノ宮線と改称されました。その後、浪速鉄道が明治30年、大阪鉄道会社が明治32年に関西鉄道と合併しましたが、鉄道国有法に基づき明治40年に政府に買収されました。

 

鉄道の画像

八劔神社より鉄道を望む
(大正13年)

 

 明治43年、区内を走る唯一の郊外電車として開通した京阪電鉄は、現行路線の北側を蒲生駅(現扶桑会館付近)経由で野江駅まで直進し、野江を過ぎると京街道沿いの守口・枚方方面へと進み京都まで伸びる天満橋~五条間を開業しました。区域内には、蒲生・野江駅ができました。

 

京阪電車の画像

開通当時路面を走る京阪電車

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