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区の歴史その3

2011年4月4日

ページ番号:817

掲載年月日:平成18年12月1日

 

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河川・運河整備がもたらした工業の発展

 城東区域は、河川・運河が多く、農業・生活用水や船運に大きな役割を果たしましたが、市街化にともない大雨による浸水被害は一層大きくなりました。大正から昭和初期にかけて、区内の河川・運河は大幅に整備が進められました。寝屋川の浚渫工事をはじめ、昭和4年から平野川分水路(城東運河)の開削が始まり(昭和33年完成)、昭和5年から8年にかけては鯰江川の改修も行われました。城北運河は昭和 10年から着工され、15年に竣工しています。こうした河川・運河の開削や整備は、船による交通の便を高め、当区域の工場地化が進む大きな要因になりました。

 

寝屋川上流の画像

新喜多付近から寝屋川上流を望む
(大正末期)

 

 一方で、河川の氾濫による災害もこの時代に起こっています。昭和9年9月、近畿地方一帯を襲った室戸台風は、当区域にも影響を及ぼし、寝屋川・平野川の氾濫によって新喜多・鴫野・蒲生・今福・放出・中浜方面で多数の家屋が浸水しました。

 抜本的な治水対策は、戦後になって実現し、第2寝屋川や平野川分水路の完成によって、洪水の危険は大きく減少しました。

 

大阪国技舘

 大日本相撲協会は、大相撲大阪場所興行のため国技館の建設を計画し、昭和12年関目町(現古市2丁目)に敷地6千坪・収容人員2万5千人・鉄筋コンクリート4階建の大阪大国技館が完成しました。しかし、建設された国技館は数回の興行を行っただけで、時局の悪化とともに休館が多くなり、戦時中には倉庫に転用されていました。戦後まもなく解体され、その跡地は共同住宅団地の一部となっています。

 

大阪国技館の画像

大阪国技館の館内

昭和18年城東区発足と空襲による被害

 第二次大戦中の昭和18年4月、大阪市の22区制実施にともなう7増区の1区として、東成区の北部地域と旭区の南部地域を併せて分区独立し、初めて城東区が誕生しました。

 終戦の年となる昭和20年には、当区及び東・都島・東成各区の軍事施設が爆撃されました。特に大阪砲兵工廠は壊滅的な打撃を受け、造兵廠に隣接する鴫野・天王田・放出地区などは大きな被害を受けました。この時京橋駅も破壊され、乗降客に多数の死傷者を出しました。

 

空襲跡廃墟の画像

空襲で廃墟と化した大阪陸軍造兵廠跡

戦災からの復興

 敗戦前日まで続いた空襲によって、大きな被害を受けた城東区ですが、戦後の復興はいち早く行われました。戦災被害の少なかった区内の古い集落を除くほとんどの地域において区画整理が行われ、城北運河の西側はほとんどが市街化されたほか、古市や中浜、中本、放出などにも市街地が広がっていきました。

 朝鮮戦争による特需から始まった好景気に支えられ、再び工業生産が回復すると、寝屋川・第2寝屋川沿いや城北川を中心に金属・機械・化学関係の工場が集中する城東区は、生野区、東成区とともに市内東部の工業地帯を形成してきました。

 

諏訪の画像

現東中浜4丁目あたりから諏訪を望む
(昭和32年)

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