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49.大坂城跡(天守閣)・50.旧大阪市立博物館

2022年9月26日

ページ番号:9663

中央区大阪城

オオサカシティバス「大手前」下車 東約400m

 

 最初の城地は、本願寺蓮如(れんにょ)による石山御坊の創建にはじまる。そして大阪も寺内町として発展してきた。しかし織田信長との11年にわたる合戦で焼失、そのあとに豊臣秀吉が入り「天下人」にふさわしい築城がはじまった。
 秀吉築城にかかる大坂城は、天正(てんしょう)11年(1583)9月の起工である。このときの資料は乏しく、全貌は正確にはわかっていない。最近の発掘調査によると、現天守閣東南約100m地点の地下から、自然石を積み重ねた野面(のづら)積みの石垣が発見された(現石垣の石積法とは異なる)。また当時のものと思われる本丸平面図などと照合すると、本丸の大きさは現在とほぼ変わりないが、天守閣の位置は現位置より東北であり、高さも徳川天守閣より約20mばかり低かったものと想像されている。そしてそれらは全て夏の陣で焼失してしまい、当時のものは何一つ残っていない。
 現在の大阪城は、堀も石垣も全て江戸時代に徳川幕府の威勢を示すために構築されたものである。2代秀忠は堀の深さ、石垣の高さを旧の2倍にするよう計画、元和(げんな)6年(1620)から寛永6年(1629)まで3次にわたる工事によって完成した。夫役(ぶやく)を命じられた諸大名は、幕府に対する忠誠心から競って工事にはげみ振袖(ふりそで)石・蛸(たこ)石・肥後(ひご)石に代表されるような巨石を用いて築城した。天守閣は寛永3年8月完成したがその後40年目に落雷で焼失、以後幕府による再建はなかった。当時のもので現存するものは大手門や櫓・金蔵・桜門など13棟あり、いずれも重要文化財に指定されている。
 現天守閣は、昭和6年市民の寄付により再建されたもので、俗に黒田屏風とよばれる「大坂夏の陣図屏風」(天守閣蔵)によったものである。また、館内は郷土歴史博物館として活用され、秀吉にまつわる遺物が多く集められている。

 天守閣に並んで立つ旧大阪市立博物館は、天守閣と同時に着工した旧軍の第四師団指令部の建物である。ヨ一ロッパ中世風の城郭建築を模したもので、戦後は警察の庁舎に利用したりしていたが、昭和35年に大阪市立博物館となった。大阪歴史博物館の開館に伴い、平成13年3月31日に閉館した。

「大阪城跡(天守閣)」の写真

大阪城跡(天守閣)

「旧大阪市立博物館」の写真

旧大阪市立博物館

 

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