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大阪市(おおさかし)の歴史(れきし)

2019年12月19日

ページ番号:437615


難波宮(なにわのみや)の時代(じだい)【古代(こだい)】

復元された難波宮の写真

この時代(じだい)、難波宮(なにわのみや)があった頃(ころ)、大阪(おおさか)は日本国内だけでなく、中国大陸(ちゅうごくたいりく)や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)などと行き来するときの交通の中心で、鑑真(がんじん)など中国から渡(わた)ってきた偉(えら)い僧(そう)も難波(なにわ)の港(みなと)を利用(りよう)しました。
この港(みなと)は5世紀(せいき)ごろ「古墳時代(こふんじだい)」に作られ、そのあともたいへん栄(さか)えました。

石山本願寺(いしやまほんがんじ)の時代(じだい)【中世(ちゅうせい)】

中世の町並みのイメージ

戦国時代(せんごくじだい)、いまの大阪城(おおさかじょう)の場所にあったのは、石山本願寺(いしやまほんがんじ)というお寺です。この石山本願寺(いしやまほんがんじ)はたくさんの商人(しょうにん)や職人(しょくにん)が住(す)む町を内部(ないぶ)にかかえ、おおいに栄(さか)えていました。
堀(ほり)や土塁(どるい)にかこまれ、大坂城(おおさかじょう)と呼(よ)ばれることもあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、全国各地(ぜんこくかくち)の戦国大名(せんごくだいみょう)たちと同盟(どうめい)して、織田信長(おだのぶなが)と10年以上(ねんいじょう)ものあいだ戦(たたか)いました。

太閤(たいこう)さんの時代(じだい)【近世(きんせい)1】

大坂城の写真と豊臣秀吉の肖像画。太閤さんとは、豊臣秀吉のことです。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は大坂(おおさか)を拠点(きょてん)に天下統一(てんかとういつ)を成(な)し遂(と)げました。大坂本願寺跡(おおさかほんがんじあと)に大坂城(おおさかじょう)を築(きず)き、堀川(ほりかわ)などを掘(ほ)り、大坂(おおさか)は海運(かいうん)・水運(すいうん)の拠点(きょてん)となりました。
また、各地(かくち)から商人(しょうにん)を移住(いじゅう)させ木綿(もめん)、油(あぶら)、薬種(やくしゅ)、金属加工業(きんぞくかこうぎょう)などの産業(さんぎょう)の集中(しゅうちゅう)を図(はか)り、東南(とうなん)アジアなど海外(かいがい)との交易(こうえき)にも力を入れました。

天下(てんか)の台所(だいどころ)の時代(じだい)【近世(きんせい)2】

青物市が描かれた絵画

江戸時代(えどじだい)の大坂(おおさか)は、流通(りゅうつう)・経済(けいざい)の中心地として、全国(ぜんこく)からたくさんの特産物(とくさんぶつ)が集(あつ)まり、また大坂(おおさか)からいろいろな品物(しなもの)が各地(かくち)に送り出されるなど「天下の台所(だいどころ)」といわれました。
また、町人文化(ちょうにんぶんか)がさかえ、歌舞伎(かぶき)や人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)、文楽(ぶんらく)などが流行(りゅうこう)しました。

大大阪(だいおおさか)の時代(じだい)【近現代(きんげんだい)】

御堂筋が幅を広げていったときの写真

明治時代(めいじじだい)には工場(こうじょう)が次々(つぎつぎ)に作られて、工業化(こうぎょうか)が進(すす)みました。
そして、大正時代(たいしょうじだい)には工業生産(こうぎょうせいさん)日本一の都市(とし)となりました。
大正時代(たいしょうじだい)の終(お)わりには市の面積(めんせき)が拡大(かくだい)し、人口も増(ふ)え、全国第(ぜんこくだい)1位(い)となり、「大大阪(だいおおさか)」と呼(よ)ばれました。

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