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天王寺区の都市景観資源

2019年2月27日

ページ番号:258471

天王寺区の都市景観資源について

 大阪市では、平成15年度に天王寺区の都市景観資源(旧・指定景観形成物)を2件を登録するとともに、平成24年度に天王寺区の都市景観資源の発掘のため、「天王寺区の自慢の”ええトコ”情報」を募集し、大阪市都市景観委員会の審議を経て、平成26年3月20日に34件を都市景観資源に登録しました。

都市景観資源一覧表
一心寺総本山四天王寺天王寺七坂(真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂)
生國魂神社齢延寺銀山寺
うえほんまちハイハイタウン上本町YUFURA(上本町新歌舞伎座ビル)安居神社
一心寺三千佛堂清寿院(関帝廟)真田山公園前の道
真田山公園お寺のまち・下寺町と斜面緑地学園坂
四天王寺西門前の参道大阪市立大江幼稚園大阪ガス 実験集合住宅 NEXT21
U氏邸鶴橋駅周辺の焼肉店の多い街並み楞嚴寺
總本家釣鐘屋超願寺(竹本義太夫の墓)三光神社
天王寺公園・天王寺動物園慶沢園茶臼山・河底池・和気橋
堀越神社大阪市立美術館四天王寺庚申堂
大正湯の煙突伝藤原家隆墓愛染堂(愛染さん)
大江神社清水寺吉祥寺(赤穂義士の寺)

平成15年度登録の都市景観資源(旧・指定景観形成物)

一心寺(いっしんじ)

登録年月日

平成15年4月11日

所在地

大阪市天王寺区逢坂2丁目8番69号

概要

 約800年前に法然上人が、四天王寺の西、海に沈む夕陽が望めるあたりに造った草庵が一心寺のはじまりで、骨仏の寺として全国的に有名。昭和20年(1945年)、戦災によりほとんど焼失したが、その後、昭和41年(1966年)には本堂が再建され、その後も念仏堂・山門など伽藍の再興が進められている。

講評

天王寺区都市景観資源(一心寺)

 大阪の歴史発祥地、上町台地の集積の中で、古代の四天王寺、近代の美術館や通天閣をつないでいる。大勢の参詣者の姿と一体となった納骨堂や本堂。次々再建されていく伽藍建築が個性的で、斬新なデザインの山門と境内の静寂な墓石群の妙がある。また谷町筋の大通りと四天王寺西門からの坂道の交差する地点にあり、昔からのランドマークを保っている。また近辺の参詣する人々のための仏具や花の店々との一体性が景観を柔らかくしている。 [大阪市都市景観委員 槙村久子]

総本山四天王寺(そうほんざんしてんのうじ)

登録年月日

平成15年4月11日

所在地

大阪市天王寺区四天王寺1丁目11番18号

概要

 四天王寺は、推古天皇元年(593年)聖徳太子により創建された日本最古の官寺で、南北一列に並ぶ伽藍配置は四天王寺様式と呼ばれる。たびたびの戦火や災害にあたってきたが、西門の石鳥居や、元和9年(1623年)再建の六時堂(ろくじどう)・五智光院(ごちこういん)・本坊方丈(ほんぼうほうじょう)などは重要文化財に指定されており、中心伽藍は昭和38年(1963年)に鉄筋コンクリート造で再建が完成した。

講評

天王寺区都市景観資源(総本山四天王寺)

 歴史のある建造物として大阪市内においてももっとも有名なものの1つである。建物の中には昭和の再建もあるが、全体として四天王寺様式を伝える重要な建造物であるとともに、広大な伽藍は付近の景観を形成する重要な要素である。4月の舞楽大法要はじめ年中行事は建築物だけでなく、人々と渾然一体となった文化の香りを持つ。木造建築物は門前町とともに伝統的な大阪を伝えるまちなみを形成している。 [大阪市都市景観委員 荏原明則]

平成26年3月20日登録の都市景観資源

天王寺七坂(真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂)(てんのうじななさか[しんごんざか、げんしょうじざか、くちなわざか、あいぜんざか、きよみずざか、てんじんざか、おうさか])

天王寺区都市景観資源(天王寺七坂)

所在地

天王寺区生玉町、逢阪1丁目、下寺町1丁目・2丁目、伶人町付近

概要

 谷町九丁目から四天王寺西門の南北と谷町筋から松屋町筋までの東西の地域には寺や神社が多く、その名を付けた坂や坂の形から呼ばれるようになった坂などがあり、その七つの坂は天王寺七坂と言われている。

口縄坂を上りきったところには織田作之助文学碑があり、松屋町筋と逢坂の交わる公園北口交差点の南東には道しるべの石標なども存在し、坂道とともに歴史的なまちなみを形成している。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 上町台地の起伏を体感させてくれる「七坂」。「七坂」が、それぞれ個性的であることが、地区全体を特徴づける上で重要である。坂とその沿道景観は、その歴史性だけでなく、文教地区・観光スポット寺町の景観をより高める役割も担っている。

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生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)

天王寺区都市景観資源(生國魂神社)

所在地

天王寺区生玉町13番9号

概要

 皇紀元年より3年前(約2700年前)、神武天皇が九州から難波津に到着の折、大阪湾に浮かぶ石山碕(現大阪城を含む一帯)に生島神(いくしまのかみ)、足島神(たるしまのかみ)を祀られたのがはじまりとされる。中世、神域内に石山本願寺が建立されたが、これは信長との石山合戦の後、寺内から出火し焼失してしまった。その後、天正11年(1583年)に豊臣秀吉が大阪城を築く地を同地と定めたため、現在の地に生國魂神社は遷された。明治維新後も官幣大社に列せられ、天下の名社として崇敬を集めたが、明治45年(1912年)の「南の大火」で炎上。大正3年(1914年)に国費により再建される。昭和20年(1945年)第1次大阪大空襲により灰塵に帰すも、同25年(1950年) には占領下にもかかわらず市民の赤誠により再建。翌26年(1951年)にジェーン台風により倒壊するも、またもや市民が中心となり同31年(1956年)に再建された。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 多くの市民に「いくたまさん」として親しまれており、広々とした境内には、上方落語発祥の地の碑や井原西鶴像などがあり、大阪の文芸などを学ぶ上でも興味深い。また、「生國魂造り」の本殿は、様式的に特色ある造りであり、建造物として価値のあるものである。

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齢延寺(れいえんじ)

天王寺区都市景観資源(齢延寺)

所在地

天王寺区生玉町13番31号

概要

 元和6年(1620年)僧義春によって曹洞宗の寺として真田山に開創され、元和9年(1623年)に現在の場所へ移転しており、志摩国領主稲葉家の菩提寺でもあった。江戸時代は「齢延寺の彼岸桜」と呼ばれた桜の名所で、今も大樹古墓の多い風格のある寺として知られる。境内には、幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳(とうがい)・南岳(なんがく)父子や、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師(かじし)の左行秀(さのゆきひで)の墓がある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 源聖寺坂の石段のすぐ脇に位置し、山門の見事な彫刻が目を惹く景観要素となっている。また、境内は整備され、地域の人々に開放されている。前面道路の源聖寺坂と共に歴史的なまちなみを形成している。

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銀山寺(ぎんざんじ)

天王寺区都市景観資源(銀山寺)

所在地

天王寺区生玉寺町6番26号

概要

 天正19年(1591年)に豊臣秀吉の城下町建設の一環である寺町建設の中で現在地に創建され、当時の寺号は大福寺といったが、後に太閤秀吉の命により寶樹山銀山寺(ほうじゅざんぎんざんじ)と改称された。
その後寛永8年(1631年)に本堂・大方丈・庫裡・表門・裏門が中興され、元禄14年(1701年)には鐘楼・梵鐘・観音堂が建立された。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 落ち着いた雰囲気の寺院であり、山門や本堂には風格が感じられる。ちょうど源聖寺坂の角に位置し、寺町の風景としては欠かせない歴史・文化的資源である。

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うえほんまちハイハイタウン

天王寺区都市景観資源(うえほんまちハイハイタウン)

所在地

天王寺区上本町6丁目3番31号

概要

 上本町駅前の商業施設は、第二次世界大戦で廃墟と化したが、商業閉鎖の危機を乗り切り、これを機に住民が「復興速進会」を発足し、昭和23年(1948年)「国際商店会」に発展していった。昭和52年(1977年)に再開発事業の認可を受け、昭和55年(1980年)に完成した。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 再開発ビルの先例、にぎわい景観が継続している好例ともいえる。足下のデザインに工夫があり、人がたまるようなにぎわい空間が確保されている。今もまだ衰えを感じさせない。

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上本町YUFURA(上本町新歌舞伎座ビル)(うえほんまちゆふら[うえほんまちしんかぶきざビル])

天王寺区都市景観資源(上本町YUFURA(上本町新歌舞伎座ビル))

所在地

天王寺区上本町6丁目5番13号

概要

 平成22年(2010年)8月、大阪上本町駅南の近鉄劇場跡地に、近鉄創業百周年記念事業として建築されたショッピング・ゾーン。同年9月には、この6階に、大阪新歌舞伎座が半世紀ぶりに新開場した。広場に面した西面ファサードのアルミキャストルーバーは旧大阪新歌舞伎座の連続唐破風をモチーフにしており、隣接する駅・ホテル・百貨店と立体的に接続した広場をつくっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 上本町の新しいランドマークとして発展を期待できる。隣接する近鉄百貨店やシェラトン都ホテル大阪とも調和し、一体感のある都市空間を形成している。

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安居神社(やすいじんじゃ)

天王寺区都市景観資源(安居神社)

所在地

天王寺区逢阪1丁目3番24号

概要

 少彦名神(すくなひこなのかみ)、菅原道真を祀る古社。昌泰4年(901年)菅原道真が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母覚寿尼(かくじゅに)を訪ねて行く途中、ここへ立ち寄って安井(休憩)した。当時、道真に同情した村人がおこしを差し上げると、お礼にと菅原家の紋所「梅鉢」を渡した。これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれている。安居天神社は、その道真の死後の天慶5年(942年)、道真の霊を祀るために村人たちが建てたもの。当地は四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することもあり、「安井」が「安居」になったという。また、享保11年(1726年)、大丸の業祖下村彦右衛門氏が、社殿の破損荒廃の甚だしい事を嘆き修理するなど、歴代大丸店主の神社に対する信仰は篤く、世に大丸天神と称せられる所以である。
境内には、道真も口にしたといわれる天王寺七名水のひとつ「かんしづめ(癇鎮め)の井」のほか、大坂夏の陣で徳川方に討たれて戦死した真田幸村の祈念碑銅像が建つ。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 静かで落ち着いた緑の多い境内は、都会の中のオアシス的な場所となっている。真田幸村ゆかりの地として、豊臣時代の大阪をめぐる上では欠かせない場所である。

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一心寺三千佛堂(いっしんじさんぜんぶつどう)

天王寺区都市景観資源(一心寺三千佛堂)

所在地

天王寺区逢阪2丁目6番13号

概要

 一心寺に参詣される善男善女のために開かれた講堂として、平成14年(2002年)5月に建立された。この内部、大回廊に、千躰の佛様―「千躰佛(せんたいぶつ)」を21世紀中かけて順次造立奉安されていく予定である。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 一心寺シアターと一体となって、景観を構成している。ひろく市民に開放されているのもよい。歴史・文化を継承しつつ新しい景観づくりに貢献している。

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清寿院(関帝廟)(せいじゅいん[かんていびょう])

天王寺区都市景観資源(清寿院(関帝廟))

所在地

天王寺区勝山2丁目6番15号

概要

「三国志」の英雄関羽を祀り、正式には黄檗(おうばく)宗白駒山清寿院と言われる。中国との縁が深いため南京寺と通称されている。明和元年(1764年)12月、浄土宗住職宗円より黄檗僧大肩和尚が譲り受け、中国僧大成和尚を中興開山となし、本堂を再建して黄檗宗の末寺となった。「摂津名所図会大成」には、藁葺きの表門や一対の摩伽羅(想像上の大魚)を載せた入母屋の本堂などをうかがうことができる。明治18年(1885年)に、長崎から来阪した広東華商の利興成(りこうせい)・同孚泰(どうふたい)の両貿易商が発起人となり、日本人取引業者を含めた篤志家(とくしか)とともに本堂・拝所・表門等が中国風に改築された。大坂の文化人木村蒹葭堂との交流が盛んであったと、「蒹葭堂日記」に開山禅師をはじめとした交流が綴られている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 横浜や神戸の関帝廟よりも歴史は古く、由緒ある関帝廟である。珍しい中国風寺院が景観的に地域に上手く溶け込んでいる。

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真田山公園前の道(さなだやまこうえんまえのみち)

天王寺区都市景観資源(真田山公園前の道)

所在地

天王寺区真田山町、玉造本町付近

概要

真田山公園の北側の坂道は、真田山町と玉造本町との間の道を西へ入り、餌差町(えさしまち)の伝長寺前まで約330mつづいている。

真田山公園の地には、もと騎兵第四連隊があり、昭和7年(1932年)に移転した跡地が公園となった。公園北の坂道も騎兵隊移転後に整備されたものである。

上町台地に点在する文化遺産や貴重な史跡の景観を楽しみながら散策できるみちづくりの1つである「坂道」整備により、この石畳の道も昭和59年~60年(1984年~1985年)に整備された。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 何気ない道が石畳で美しく整備され良い雰囲気を醸し出している。真田山公園のスポーツ施設と一体となり、特色ある景観を形成している。

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真田山公園(さなだやまこうえん)

天王寺区都市景観資源(真田山公園)

所在地

天王寺区真田山町5番

概要

 騎兵第四連隊の跡地に、昭和14年(1939年)8月に開設した。戦後、占領軍に一時期接収されたが、昭和23年(1948年)に運動公園として再開園し、現在は、天王寺スポーツセンターや真田山プール(屋外50m、冬季はアイススケートリンク)、野球場、テニスコートなどの施設を備えた総合スポーツ公園として多くの市民に活用されている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 プール、野球場、アイススケート場、テニスコートなどが整備された市内有数の運動公園である。花壇等もよく手入れされており、近隣住民が日常的に利用し、親しまれている空間である。

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お寺のまち・下寺町と斜面緑地(おてらのまち・したでらまちとしゃめんりょくち)

天王寺区都市景観資源(お寺のまち・下寺町と斜面緑地)

所在地

天王寺区下寺町1丁目・2丁目付近

概要

 坂道や眺望点など、上町台地は大阪市内では珍しく地形変化を楽しめる場所であるが、なかでも延長2キロ近くの樹林帯が南北方向に連なっている「夕陽丘(ゆうひがおか)」は貴重である。
下寺町には、昭和4年(1929年)に建設され、国の登録有形文化財に指定されている心光寺の本堂や、天正19年(1550年)開基足利尊氏で、足利家の祈願所で近畿の名刹であったと言われている大蓮寺(だいれんじ)などがある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 上町台地の隆起がよく分かり、大阪の古代史を考える上でも重要である。集中した木々の緑に寺院の大きな屋根が見え隠れする風景は、この地域の歴史をよく示している。

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学園坂(がくえんざか)

天王寺区都市景観資源(学園坂)

所在地

天王寺区下寺町1丁目・2丁目付近

概要

 天王寺区下寺町・松屋町筋から谷町筋六万体へ通ずる坂は、上町台の中央を南北に分断するような大きな坂である。かつて小さな道を切り開いて自動車道路として造られたものである。その後、道沿いに大阪女子学園(現在大阪夕陽丘学園)ができて学園坂とよばれるようになった。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 自動車道として切り開かれた、比較的新しい道路。上町台地の上と下を結ぶ車道として、多くの市民に利用されており、市民にとっては親しみのある風景である。

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四天王寺西門前の参道(してんのうじさいもんまえのさんどう)

天王寺区都市景観資源(四天王寺西門前の参道)

所在地

天王寺区四天王寺1丁目11番

概要

四天王寺西門前の石畳の道であり、参道上に立つ西門前の石鳥居は国の重要文化財に指定されている。石鳥居から西門までの沿道には店舗や露店等が並んでいる。

四天王寺西門は、浄土信仰のうえで日想観の聖地として位置付けられる特別な土地であり、平安時代以降、様々な階層の人々から厚い信仰を集めてきた。石鳥居はその象徴的な存在で、現世から西方浄土への入口としての役割を負う建造物である。

なお、参道については、四天王寺の参道にふさわしい、にぎわいと雰囲気づくりを目的に大阪市の修景事業により整備が行われている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 彼岸には太陽が西門の延長上に沈む、日想観にも関連した場所である。現在は、四天王寺の主な参道としても使われており沿道も賑わう。都市景観としても観光素材としても価値がある。

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大阪市立大江幼稚園(おおさかしりつおおえようちえん)

天王寺区都市景観資源(大阪市立大江幼稚園)

所在地

天王寺区四天王寺1丁目11番108号

概要

 昭和5年(1930年)7月17日開設。平成22年(2010年)に、80周年を迎え、園舎は、戦災や災害に耐え、木造平屋建て瓦ぶき屋根の、歴史と伝統の重みと懐かしさを残している。園庭には、桜や藤などの樹木やブドウやミカン、モモ等の実のなる木があり、花壇には四季折々の花が咲く。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 築80年を超える昭和初期の木造平屋の昔懐かしい幼稚園。地域に愛されている経緯や、周辺の歴史的な雰囲気との調和が感じられ、大切に保存して欲しい。

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大阪ガス 実験集合住宅 NEXT21(おおさかガスじっけんしゅうごうじゅうたく ねくすと21)

天王寺区都市景観資源(大阪ガス 実験集合住宅 NEXT21)

所在地

天王寺区清水谷町6番16号

概要

「ゆとりある生活と省エネルギー・環境保全の両立」をテーマに、近未来の都市型集合住宅のあり方を提案することを目的として、大阪ガス(株)が平成5年(1993年)10月に建設した実験集合住宅である。竣工以来、平成6年(1994年)4月、平成12年(2000年)4月、平成19年(2007年)4月から各5年間にわたり、それぞれ時代を見通したテーマを設定し、大阪ガス社員とその家族が実際に居住しながら、計3回15年間の実証実験が取り組まれてきた。
 平成25年(2013年)6月からは「第4フェーズ」として、「環境にやさしい心豊かな暮らし」をテーマに、人と人のつながりの創出、人と自然の関係性の再構築、省エネ・スマートな暮らしの実現を満たすべき要件と捉え、それらを具現化する、「住まい」および「エネルギーシステム」の2分野の実証実験が実施されている。
 樹木も多く配置され、周辺の住民の方々からも親しまれている建物である。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 竣工から20年を経て、実験住宅も地域に馴染んだ観がある。緑の少ないまちなかにあって、オアシス的な景観を提供している。また、地域との交流にも熱心であることも評価できる。地域の良好なイメージを担うランドマークとなっている。

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U氏邸(ゆーしてい)

天王寺区都市景観資源((U氏邸)

所在地

天王寺区清水谷町7番9号

概要

 打ち放しの外観に、豊富な植栽が良く映える。昭和43年(1968年)に職住一体都市住宅のさきがけとして建築された。緑に被われたファサードは年月を重ねるごとに豊さを増している。
日本の現代建築に大きな影響を与えた建築家・西澤文隆による設計。平成19年(2007年)には、NPO法人屋上開発研究会大阪支部が主催する「第1回屋上開発・関西さきがけ賞」の大賞を受賞した。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 都市型緑化の先駆け。50年以上の年月を経て維持されてきた緑がまちに潤いを与えている。お寺やタワーといったモニュメンタルな性格を備えているものではなく、個人が創ることができる景観資源として重要である。

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鶴橋駅周辺の焼肉店の多い街並み(つるはしえきしゅうへんのやきにくてんのおおいまちなみ)

天王寺区都市景観資源(鶴橋駅周辺の焼肉店の多い街並み)

所在地

天王寺区下味原町1番~5番

概要

 天王寺区には鶴橋西商店街があり、ここ数年で焼き肉店が増えたことから“焼肉スクウェア”と呼ばれている。
 この商店街の風景は、焼肉店やキムチなどの食材を扱う店などが建ち並び、焼き肉の香ばしいかおりやキムチなどの独特なかおりが広範囲にわたって漂っていることから、環境省のかおり100選に選ばれている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 焼肉店の集積は全国的に見てもユニークであり、メディアで取り上げられることも多い。狭隘な通路に焼肉店がひしめく風景は、この地域の特徴であり、大阪の顔のひとつとして重要な景観資源である。

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楞嚴寺(りょうごんじ)

天王寺区都市景観資源(楞嚴寺)

所在地

天王寺区城南寺町1番26号

概要

 慶長2年(1597年)僧禅牛の開創である。楞嚴寺には織田作の名で親まれ、『夫婦善哉』のように大阪を舞台として、市井に生きる人びとをいきいきと描いた作品を数多く残した「織田作之助」の墓所がある。

 

講評〔大阪市都市景観委員会〕

それほど規模は大きくないが、立派な屋根や柱が維持されており、格式を感じさせる寺院である。また、この地域出身の作家、織田作之助の墓所があることで有名である。身近なお寺として親しまれている。

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總本家釣鐘屋(そうほんけつりがねや)

天王寺区都市景観資源(總本家釣鐘屋)

所在地

天王寺区大道1丁目5番2号

概要

 明治33年(1900年)、地元の有志から四天王寺に大梵鐘が奉納され、大阪商人の心意気を示す快挙として評判になった。その奉納記念として、釣鐘のかたちを模した饅頭を、四天王寺の門前で売り出したのが「釣鐘まんじゅう」のはじまりである。
 店舗の屋根につけられた鐘などレトロな外観が、100年以上つづく店舗の歴史を感じさせる。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 100年以上続く老舗の饅頭店。1階庇上の釣り鐘が一種のランドマークとなっており、2階の窓枠も釣り鐘の形を模していて独特の雰囲気のある建物である。大阪名物を昔ながらの店構えで守っている貴重な景観資源である。

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超願寺(竹本義太夫の墓)(ちょうがんじ[たけもとぎだゆうのはか])

天王寺区都市景観資源(超願寺(竹本義太夫の墓))

所在地

天王寺区大道1丁目14番1号

概要

 義太夫節浄瑠璃の元祖といわれ、慶安(けいあん)4年(1651年)この付近(堀越(ほりこし)神社南約100mの路上に、生誕地碑)に生まれた。若いころから研究熱心で小唄・俗謡から物売りの呼声まで身につけ、将来に備えた。その後京・大坂で修業を積み、延宝(えんぽう)5年(1677年)に独立、作者に近松門左衛門を迎え、その他、三味線・人形の名手、経済面での協力者を得て「曽根崎心中」で大当たりをとった。
 お墓は、超願寺境内にあり、お堂の状態で雨風から守られている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 一歩境内にはいると周辺とは別世界の趣がある。浄瑠璃の祖竹本義太夫の墓もあり、歴史ある天王寺らしい景観を形成している。また、ソメイヨシノは春には地域のシンボルとなっている。

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三光神社(さんこうじんじゃ)

天王寺区都市景観資源(三光神社)

所在地

天王寺区玉造本町14番90号

概要

 明治41年(1908年)境内の全国唯一の中風除けの神、三光宮を合祀してより三光神社と呼ばれるようになった。毎年6月1日から7日まで中風祈願大祭が行われ、全国各地から多くの参拝者が訪れる。
古くから三光神社の地に真田の抜け穴の話が伝えられている。慶長19年(1614年)の大坂の合戦の頃、真田幸村がこの地に偃月城(えんげつじょう)と名付ける塁を築き、大坂城まで通じる暗道を造ったと言い伝えられており、今も「真田の抜け穴」として保存されており、境内には昭和62年(1987年)に建立された真田幸村の銅像がある。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 真田丸の跡地に築かれた真田幸村ゆかりの歴史性に満ちた神社境内として評価できる。大阪の歴史の舞台としてとても重要な場所であり、景観としても守るべき場所である。

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天王寺公園・天王寺動物園(てんのうじこうえん・てんのうじどうぶつえん)

天王寺区都市景観資源(天王寺公園・天王寺動物園)

所在地

天王寺区茶臼山町

概要

明治36年(1903年)の第5回内国勧業博覧会の跡地利用として東半分を公園にしたもので、明治42年(1909年)に開設された長い歴史をもつ。平成27年(2015年)に民間事業者により南東のエントランスエリアが「てんしば」としてリニューアルされ、約7,000㎡の芝生広場を中心とした様々な施設が新たな魅力を創出している。

また、公園内には昭和8年(1933年)に大阪市に寄贈された旧黒田藩藏屋敷長屋門(大阪府有形文化財、大阪市顕彰史跡)や作品「めし」の一節を刻んだ林芙美子文学碑なども設置されている。
動物園に関しては、大正4年(1915年)1月に開園した。約11haの園内におよそ200種、1000点の動物が飼育されており、動物の生息地の景観を可能な限り再現したうえで、そこに暮らす動物の様子を紹介する「生態的展示」が人気を博し、多くの利用者で賑わっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

天王寺公園は庭園や美術館など、様々な見どころのある公園であり、大阪の中心部にありながら、緑のあふれる都会のオアシスとして、老若男女が楽しめる貴重な場となっている。天王寺動物園は由緒ある動物園であるが、生態的展示を進めるとともに、社会教育機能の向上を進めている。

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慶沢園(けいたくえん)

天王寺区都市景観資源(慶沢園)

所在地

天王寺区茶臼山町

概要

 もと住友本邸の庭で、美術館の敷地とともに大阪市へ寄贈されたものであり、10年余りの歳月を要して完成した純日本風の回遊式庭園である。明治41年(1908年)、庭師小川治兵衛(おがわじへえ)が作り、伏見宮貞愛親王(ふしみのみやさだなるしんのう)が慶沢園と命名した。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 著名な庭園師小川治兵衛の手により作庭された回遊式日本庭園であり、美しく造形されている。庭園の木々から望む中遠景も良く、都会の中のオアシスとして市民が憩える場所である。

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茶臼山・河底池・和気橋(ちゃうすやま・かわぞこいけ・わけばし)

天王寺区都市景観資源(茶臼山・河底池・和気橋)

所在地

天王寺区茶臼山町

概要

 大坂冬の陣で家康の本陣となり、夏の陣では幸村が布陣し激戦地となった茶臼山は、奈良時代に和気清麻呂(わけのきよまろ)が河内川の流水を南に引こうとした河底池とともに、天王寺公園の風景に取り入れられている。
 和気橋は、延暦7年(788年)和気清麻呂が旧大和川の流れを変えるために上町台地を開削した際、茶臼山古墳の濠を利用した名残が河底池であると伝えられていることから、「和気橋」と名付けられている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 大坂冬の陣、夏の陣に由来する、歴史的に由緒ある地である。地形的にも美しく、ランドマーク性もある。歴史的・文化的に加え、自然的資源として評価できる。

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堀越神社(ほりこしじんじゃ)

天王寺区都市景観資源(堀越神社)

所在地

天王寺区茶臼山町1番8号

概要

 聖徳太子が、叔父に当たる第32代崇峻天皇の徳を偲んで、四天王寺建立と同時に当社を創建したものである。
 古くより明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、堀越という名が付けられたといわれている。
 境内にかえる石が蹲(つくばい)のすぐ横に高さ50㎝ほど、三角錐の形で鎮座しており、無事帰る、福返ると伝えられている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 交通量の多い谷町筋沿いにありながら、境内に一歩入ると物静かで別世界の雰囲気である。特に、神社の社叢は立派であり、境内は手入れが良く行き届いている。

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大阪市立美術館(おおさかしりつびじゅつかん)

天王寺区都市景観資源(大阪市立美術館)

所在地

天王寺区茶臼山町1番82号

概要

 昭和11年(1936年)5月開館。美術館は天王寺公園の中に位置しているが、その敷地は住友家の本邸であったところで、美術館の建設を目的に庭園(慶沢園)とともに、大阪市に寄贈されたものである。美術館は設立当初の本館と、平成4年(1992年)に美術館正面地下に新設した地下展覧室からなり、本館陳列室では、特別展覧会や常設展示を開催している。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 天王寺公園を代表する建物であり、ランドマークとして機能している。また、8000点を超える収蔵品は主に市民の寄付により形成されており、戦前の大阪市民の高い志が感じられる。

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四天王寺庚申堂(してんのうじこうしんどう)

天王寺区都市景観資源(四天王寺庚申堂)

所在地

天王寺区堀越町2番15号

概要

 四天王寺の数百メートル南にある庚申堂の縁起は、今から1300余年前(飛鳥時代)、我が国に色々の疫病がはやり、四天王寺の民部(みんぶ)の郷僧都毫範(そうずごうはん)が、霊験を得て祈願をしたとき、庚申堂の本尊である青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)が、16歳くらいの童子の姿で現れ、毫範に除災無病の力を与え、それによって病は去っていったという言い伝えがあり、時は大宝元年(701年)正月7日、庚申の日とされる。以来、毫範の感得した青面金剛童子をこの地で祀られたのを開基とする。我が国の庚申信仰の始まりであり、以来庚申本尊を祀ろうとするものは、皆当寺に来て、免許を得、尊天の分身を勧請(かんじょう)するのを例としている。
 本堂は元和4年(1618年)建立されたお堂であったが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失し、現在の建物は、昭和45年(1970年)大阪万博に造られた休憩所・法輪閣を移築したものである。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 わが国の庚申信仰の始まりの場所ということで重要な場所である。周囲は住宅に囲まれ静かな雰囲気。開放されているのもよい。また、境内のクスノキが地域に緑景観を提供している。

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大正湯の煙突(たいしょうゆのえんとつ)

天王寺区都市景観資源(大正湯の煙突)

所在地

天王寺区松ケ鼻町3番16号

概要

 夕陽ケ丘高校の東側の道を北へ入った閑静な住宅街の中にある。狭い空間をうまく開放感と質感をもつ雰囲気に仕立てた設計(昭和56 年(1981 年))となっている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 銭湯が少なくなったことを踏まえると、現存する銭湯の煙突は、過ぎ去った時代を思い起こす手がかりとして貴重である。少し離れてみると地面から直接に突き出しているように見える煙突は、印象深い。

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伝藤原家隆墓(でんふじわらいえたかはか)

天王寺区都市景観資源(伝藤原家隆墓)

所在地

天王寺区夕陽丘町5番

概要

 藤原家隆(1158年~1237年)は、藤原時代末期の五代の天皇に仕えた有名な歌人で、79歳の時に官を辞して浄春寺の地に隠棲(いんせい)した。その翌年の春の彼岸に高台から西の海に落ちる夕日を見て、その荘厳さに心を打たれ直ぐに落髪して仏性と号し、その4月9日に消えるように一生を終えた。
 伝藤原家隆墓は、家隆の墓といわれ、その傍らには、御影石にこの歌が夕日とともに刻まれた歌碑がある。夕陽丘の地名は、この歌の「波の入日」からきている。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 夕陽丘の地名の由来である藤原家隆の歌碑があり、和歌に親しんでいる者にとっては重要なスポットである。市民の手によって維持保全されており、地域に親しまれている歴史・文化的資源である。

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愛染堂(愛染さん)(あいぜんどう[あいぜんさん])

天王寺区都市景観資源(愛染堂(愛染さん))

所在地

天王寺区夕陽丘町5番36号

概要

 推古天皇元年(593)、四天王寺の施薬院(せやくいん)として聖徳太子が建立し、その後、縁結びの神様として有名な愛染明王が本尊として祀られるようになったことから「愛染堂」と呼ばれるようになった。「愛染めの霊水」は飲むと愛が叶うと言われ、映画「愛染かつら」のモデルとなったことで知られる愛染かつらの霊木が境内にある。本堂(金堂)は大阪府の指定文化財、多宝塔は大阪市内最古の木造建築物で国の重要文化財の指定を受けている。
毎年6月30日~7月2日に行われる「愛染まつり」は、大阪三大夏祭りのひとつといわれ、大阪に夏の訪れを告げる風物詩として広く知られる。愛染明王のご開帳が行われ、夜店も立ち並ぶのでたくさんの参詣者で賑わう。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 「愛染かつら」や「愛染まつり」で多くの市民に親しまれている。また、多宝塔は、大阪市内最古の木造建築物であり、貴重な歴史・文化的資源であるとともに、上町台地上においてランドマークとしての役割も果たしている。

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大江神社(おおえじんじゃ)

天王寺区都市景観資源(大江神社)

所在地

天王寺区夕陽丘町5番40号

概要

 天王寺七宮の1つで、聖徳太子自らまつりごとを行ったこともあり四天王寺の鎮守といわれている。四天王寺の乾(いぬい 西北)に位置しているところから、江戸時代には「乾社」と呼ばれていた。当時は毘沙門天(びしゃもんてん)を祀っていたので、「毘沙門堂」とも呼ばれていた。その守護獣(おつかい)は虎なので、「狛犬」ならぬ「狛虎」が座し、阪神タイガースファンの参拝が後を絶たない。また、大江神社に向かう段丘崖の階段は、「百歳(ももとせ)の階段」と呼ばれている。
 「大江」の社号は慶応3年(1867年)に、この地は西側が傾斜地になっており、その昔大江の岸と称していたので、時の祀官(しかん)が改称した。当社は天王寺北村の産土神であり、祭社主神に豊受大神を祀り、稲荷神と同一神で五穀豊穣、食料保持の神である。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 広々とした境内にはすがすがしい風情がある。また、西側道路から境内に入るための石段を下から見上げると、この神社が上町台地の端に建っていることがよくわかり、大阪の地形を実感できる貴重なスポットの一つである。

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清水寺(きよみずでら)

天王寺区都市景観資源(清水寺)

所在地

天王寺区伶人町5番8号

概要

 かつては有栖寺(ありすでら)といってかなり古くからあったといわれる。寛永17年(1640年)に延海大阿闍梨(えんかいだいあじゃり)が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)のお告げをうけ、京都の清水寺から聖徳太子の作といわれる十一面千手観世音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)を遷して本尊として祀り、享保年間(1716年~1736年)に新清水寺に寺号を変えたとされている。
 墓地の西端には、もともとの眺望性を活かして京都の清水寺を模した「舞台」があり、市街地が展望でき、大阪南のシンボルである通天閣等も見える。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 境内が驚く程静かで、都会のオアシスとなっている。大阪市唯一の滝「玉出の滝」の物語(四天王寺から流れるといわれる)、舞台からの景色など都市景観資源に値する。

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吉祥寺(赤穂義士の寺)(きっしょうじ[あこうぎしのてら])

天王寺区都市景観資源(吉祥寺(赤穂義士の寺))

所在地

天王寺区六万体町1番20号

概要

 寛永7年(1630年)創建の曹洞宗の寺院であり、創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。義士討ち入りの翌年2月、大石内蔵助をはじめとする46士は切腹したが、足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼したもので、江戸や赤穂よりも先がけ、元文4年(1739年)建立されたという。しかし、昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲で義士の遺品など全て灰燼(かいじん)に帰し、残るのは墓石のみであった。
 この寺の山門は元は中之島常安橋北詰にあった赤穂藩蔵屋敷門を移築したものであったが、戦災で焼失したため再建された。

講評〔大阪市都市景観委員会〕

 赤穂義士の寺としての歴史性が評価できる。白黒の大胆な色使いの塀が義士のイメージを表現している。また、境内にある立派な赤穂義士の像は圧巻である。

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