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ひがしなり今昔マップ

2024年3月13日

ページ番号:338045

ひがしなり今昔マップ

 東成区では、区内に転入された方や希望される方に、「ひがしなり今昔マップ」を配布しています。
 東成区の歴史や今昔、名所や古跡などの説明と、それら名所などの場所が掲載された地図が一体となっており、地図面には、災害時の避難所・一時避難場所、公共施設なども掲載している便利な冊子です。
 ぜひご覧いただき、もっと東成区のことを知っていただければ幸いです!

郷土”ひがしなり”の歴史

 現在の東成区は大阪市内で2番目に小さい区ですが、大正14年(1925年)旧東成郡が東成区として大阪市に合併された時は、旭区・都島区・城東区・鶴見区・生野区もその中に含まれる大きな区でした。しかも、この地域は、地理的にも歴史的にも大阪の発展と大きなかかわりを持ち続けてきたため、区内のいたるところに古い歴史と文化を物語る遺跡や文化財や習俗がのこされています。

原始・古代の東成

 今から2~3000年前の大阪は、大阪湾へ指のように突き出した半島状の地形で、森の宮から東は大きな入り江となっていました。この入江に向かって淀川と大和川の2大水系が上流から土砂を運び、半島の東側に次第に陸地が広がっていきます。半島(上町台地)の東側に生まれた土地であることから東生(ひがしなり)と呼ばれ、それが東成の地名の始まりとなっています。

 それでも古墳時代の末ごろまでには、大今里あたりは入江であったことが昭和30年に大今里西1丁目で杭に繋がれた状態の丸太舟が発見されたことから知られます。

 飛鳥時代に入ると日本と大陸・朝鮮半島の交流が盛んになってきます。昭和45年町名変更が施行される以前、JR玉造駅の南側に「唐居(からい)町」という町名があって、ここは飛鳥から奈良時代の外交施設である三韓館(一種の迎賓館)が置かれた場所であり、日本の大陸に対する大事な玄関口であったとされています。(東小橋1丁目19番に碑あり)

 東成の土地は次第に東へ広がり、多くの人々によって開拓が進みましたが、ここに流れこむ水の出口は半島のずっと北の方にある狭い水路だけでしたので低湿地はしばしば洪水に見舞われていました。そこで5世紀の仁徳天皇の時代に上町台地に大がかりな放水路が開かれ、平野部にもある程度安定した土地が生み出されました。この放水路(難波堀江)が現在の大川であるとされています。

 こうした土木工事は、大陸や朝鮮半島の進んだ技術の助けをかりて行われたと思われますが、上町台地東側の東成の地はこうした人々の拠点であり、日本で最も進んだ文化・技術交流の先進地帯であったのです。東小橋3丁目の比売許曽(ひめこそ)神社の祭神が新羅の王子の妻であったとされる下照比売(姫)(したてるひめ)であることも、当時この地域に朝鮮半島からの渡来人が多く集まっていたことを物語っているのではないでしょうか。

 上町台地とその東と西に広がった土地は古くは難波(なにわ)と呼ばれ、東部を難波大郡、西部を難波小郡と称されていましたが、奈良時代の和銅6年(713年)の新しい群郷の制度により、難波大郡が東生郡に、難波小郡が西成郡に改められ、このとき以来東生(東成)の地名が現在まで続くことになります。東成とは実に1300年もの古い由緒をもった地名なのです。


河内湾の時代(約3~2000年前・縄文時代晩期から弥生時代前半)の古地理図

中世・近世の東成

 今からおよそ1200年前、延歴13年(794年)都が京都へ移されてからは日本と大陸との交渉も少なくなり、従って大陸との玄関口としての難波東成が歴史の舞台に華々しく登場することもなくなりました。しかし、この地が瀬戸内地方と京都・奈良・紀州などを結ぶ交通の大事な場所であり、古くからのさまざまな文化や技術が積み重ねられてきた場所であることに変わりはありません。東に広がる低湿地の開拓は次々と進み、南北朝の時代には現在の東成区域の大半が、「新開荘」として四天王寺の寺領に組み入れられるほどでした。また、深江には古代に大和笠縫邑(やまとかさぬいむら)から移り住んだという笠縫氏がおり代々の伊勢神宮や天皇家の大事な儀式に用いる菅笠、円座や翳(さしば・柄のついた日除け)を調進する他、一般用にも座(組合)を結成して、奈良・京都を中心とする近畿一円に専売権を獲得していました。

 桃山時代の豊臣秀吉の時代に新開荘の荘名が廃止されますが、江戸時代になると東成区域は深江村を除き大今里、東今里、西今里、本庄、中道、木野などの村々は大坂城代の松平領となり、後には幕府の直轄領またはそれに準ずる扱いを受けることになりました。東成の地は、大坂城の東を固め、米・麦・綿・菜種などの豊かな農産物を産し、平野川を通じて河内方面との水運に恵まれるほか、暗越奈良街道の出発点として大勢の人々が行き交い賑わいました。

近現代の東成

 やがて明治になると、廃藩置県によって大阪府が誕生し、当区内の11の村々は新しい土地制度の下に置かれ、明治22年に郡区市町村編成法が公布されて大阪市が東西南北の4区となって後、大正14年に大阪府東成郡の大半が大阪市東成区として編入されたのです。この時の東成区は、中本・鶴橋・鯰江・榎並の4町と神路・小路・生野・城東・榎本・城北・古市・清水の8村で編成され、上町台地の東側の大半を占める広大な面積を持っていました。そのため区役所も旧鶴橋町役場の本庁の他、今福と千林にも出張所を置かなければなりませんでした。昭和になると都市化が進み人口も増えてきたので、7年に旭区、18年に生野区・城東区が分区して現在に至ります。令和7年には区制100周年を迎えます。わが東成は大阪東部で最も古くから開けた土地として1300年のあいだ名を伝えているのです。


明治18年の測量図(大日本帝国陸地測量部発行)


昭和8年第二次東成区域図

東成区の今昔

平野川(百済(くだら)川)と猫間川(高麗(こま)川)

 古代から中世の間、百済郡が置かれその中央を蛇行し流れていたのが古名「百済川」「高麗川」で渡来文化の窓口の舞台として発展して来ました。

 近世の平野川は、河内の柏原と大坂の八軒屋間の輸送水路として柏原舟の往来が盛んで、玉津橋は玉造の津(港)として繁栄を極めました。

 大正12年からの改修で、蛇行していた平野川は無くなり、少し東側に今の平野川が付け替えられています。旧平野川に架かっていた「亀の橋」の碑を残すのみです。

 猫間川は、今は埋め立てられ道路になっています。高麗川がなまって“ねこまがわ”に変わったと伝えられています。今は、東小橋北公園に「ねこまがわ」の碑を見るのみです。



亀の橋の碑

千間川(せんげんがわ)と緑橋・深江橋

 千間川(千間堀川)は、江戸時代東大阪市高井田辺りを水源とし、平野川に合流していた約1.8kmの長さと川幅7mの区の北端を東西に一直線に開削された堀川で、当時は農村地帯であったところから、河内方面の農作物などを小舟に乗せて上下していました。当時、しばしば洪水被害があったため、昭和49年6月に埋め立てられています。 

 この川の長さがおよそ千間あるところから千間堀川を呼ばれ、生活道路とつながる橋梁が24橋架かっていて、現在地下鉄駅名として「緑橋」「深江橋」にその名が受け継がれています。

玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)

 豊臣時代、大坂城玉造門のあったところを黒門町(門が黒塗りであった)といい、近くを流れていた猫間川に架かっていた橋を黒門橋と言われていました。この黒門付近が黒門越瓜の発祥地であり、天保7年(1836年)の「名物名産略記」に記載があり当時の今里・片江・深江辺りでも栽培されていました。

 粕漬けにしておいしかったことから名産になりました。


玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)

今里ロータリー

 今里交差点は、ロータリーが無くなって半世紀に近い今日になっても今里ロータリーと呼ぶ人が多い。

 ロータリーは、昭和3年に設立された今里片江土地区画整理組合の事業のなかでの幹線道路事業として、都市計画街路が一点に集中し交差点を造ったのに始まります。昭和9年にロータリーは完成しています。当時は、信号も無く車は円を描くように流れていましたが、昭和30年に信号がつけられロータリーは無くなりました。今は、東成区を象徴する名称になっています。

 ロータリーから西に300m程のところにある「セルロイド会館」は、平成13年に国の登録文化財に登録されています。

楠の大樹

 大今里1丁目17番にある八王子神社御旅所内に繁茂する楠は、樹齢およそ1300年を数える大樹で、府下でも最も古い楠と思われます。この地域は、旧西今里村の氏神であった、八剣神社の跡地で、通称「楠さん」として区民に親しまれています。

 明治18年6月、折からの長雨で増水していた淀川の堤防が決壊し、大阪方面は空前の大洪水となり、当時の西今里村の村民40数名が、この楠の大樹に登り、かろうじて難をのがれたと伝えられています。


楠の大樹

”ひがしなり”の名所と古跡

区内の社寺

 区内には神社寺院がたくさんあり、それぞれの由緒をもち地域住民に古くから親しまれてきました。ここでは江戸時代以前創建のものについて簡単に紹介します。

比売許曽(ひめこそ)神社(東小橋3丁目8番)

 下照比売命(したてるひめのみこと)ほか五柱をおまつりする延喜式内明神大社で、垂仁天皇2年愛久目山(現在の天王寺区小橋東之町一帯の丘陵地)に下照比売命をおまつりしたのを起源とする大変古い神社です。「古事記」に、下照比売命(赤留比売(あかるひめ))は新羅の王子の妻であったが、夫をきらって日本に来たとある渡来神とされる。推古天皇15年の正遷宮の際に天皇の行幸があり、貞観元年(859年)に神階を従四位に進められた歴史的にも有名な神社です。天正年間(1580年頃)の、石山合戦で兵火にあい現在地に移り、後に旧小橋村の氏神となる。今も多数の文化財を有しています。

八阪神社(中道4丁目8番)

 素盞嗚尊(すさのおのみこと)・菊理姫命(きくりひめのみこと)の二柱をおまつりする旧中道村の氏神で、延喜9年(909年)に藤原道長がこの地に別荘と設け、牛頭天皇(ぎゅうとうてんのう)・白山権現(はくさんごんげん)をおまつりされたのに始まるとされています。仁安元年(1166年)里人が社殿を再興し、天正12年(1584年)現在地に移転したと伝えられています。もと牛頭天皇白山権現と称していたが、明治5年(1872年)八阪神社と改称しています。伊勢神宮参拝のおりには、旅の無事を祈り詣でたとされています。

八王子神社(中本4丁目2番)

 八王子大神(はちおうじおおかみ)ほか四柱をおまつりする旧本庄村の氏神で、応神天皇3年の創建と伝えられ、幸徳天皇より高麗狗(こまいぬ)一対の献納があったと伝えられています。明治の初めの頃は“椿の宮”として知られ賑わっていましたが、今は枯死してなくなっています。明治5年(1872年)に八王子稲荷大明神から百済神社と改称し、明治42年(1909年)に旧西今里村の氏神八剣神社を合併し、明治43年八王子神社と改称しています。

熊野大神宮(大今里4丁目16番)

 伊弉冊尊(いざなみのみこと)ほか五柱をおまつりする旧大今里村の氏神で、用明天皇2年の創建と伝えられています。元亀元年(1570年)石山本願寺と織田信長の合戦の際、兵火にあったがすぐに再建されています。元和(1615年~24年)以降、大坂城代就任と領内巡視の時は、必ず参詣するのを常とした社で、熊野権現と称し、明治5年に熊野大神宮と改称しています。明治44年には、旧東今里の氏神八剣神社を合併しています。

深江稲荷神社(深江南3丁目16番)

 宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)、下照姫命ほか三柱をおまつりする旧深江村の氏神で、垂仁天皇の時代、笠縫氏(かさぬいし)の祖が笠縫島の地に居を定め、下照姫命をおまつりしたのを始としています。慶長8年(1603年)には豊臣秀頼が社殿を改造したと伝えられています。慶長19年(1614年)兵火にて焼失、宝暦10年(1760年)再興された。笠縫部との関係が深い。

妙法寺と契沖(けいちゅう)遺跡(大今里4丁目16番)

 妙法寺は聖徳太子の創建と伝えられ、寺域も広かったようであるが、往時の詳細は不明です。天正年間(1580年頃)の石山合戦でほとんど焼失したが、享保年間(1716年頃)に再建された本堂が昔を偲ばせています。この寺には、近世国学の祖といわれる契沖が、延宝7年(1679年)から約10年間住職として滞在し、「万葉代匠記」など多くの著作を生み出しています。境内には契沖阿闍梨(けいちゅうあじゃり)供養塔と契沖の母の墓があります。

契沖(1640~1701年)・・・尼崎藩士の子で11歳のとき出家して妙法寺に入り、高野山で修業した後、40歳のとき妙法寺の住職となり約10年間在職し、この間に主著「万葉代匠記」20巻を著しました。はじめ下河辺長流が徳川光圀から命じられて筆を進めていたが、病気のため契沖が代わりました。“代匠記”と名付けたのは師の長流に代わって著述したところからきています。「万葉代匠記」が成って徳川光圀から褒賞金と三足の香炉が贈られています。元禄3年(1690年)のとき、円珠庵(現在の天王寺区空清町)にこもって学問に専念し、その講義や学風は後の賀茂真淵(かものまぶち)や本居宣長(もとおりのりなが)らにひきつがれています。

葵紋三足香炉(あおいもんさんそくこうろ)・・・妙法寺に伝えられる大型の香炉、仏前に置いて香を燻くための道具。白い京焼系統の作で正面に三つ葉葵の紋をつけ、この部分に青い上薬がかけられています。

法明寺と雁塚(かりつか)(深江南3丁目16番)

 寺伝によると、創建は文保2年(1318年)法明上人の創建とされる。上人は深江に生まれ12歳で出家し、高野山や比叡山で修行して郷里のこの地で草庵を営んだのが起源です。また、平野の大念仏寺を再興した僧でさまざまな逸話を残しています。

 寺の境内には、鎌倉末期と南北朝期の大小2基の立派な四重の石塔があり、狩人に射ち落とされた雁の夫婦愛にまつわる説話が伝わっ ています。

  • 雁塚…ある猟師が雁を射落としたところ首がなかった。そのあとに一羽の雁を射落としたところ別の首を抱いていた。これは夫婦か親子の雁だろうとあわれんで、2基の石塔を建てたものと伝えられています。

雁塚

江戸時代までに創建された寺

 大今里にある観光寺(かんこうじ)は永徳年間(14世紀後期)、西蓮寺(さいれんじ)は元禄5年(1692年)、良念寺(りょうねんじ)は天明2年(1782年)に創建された融通大念仏宗のお寺です。

 深江にある真行寺(しんぎょうじ)は慶長16年(1611年)、東今里にある光照寺(こうしょうじ)は寛文7年(1667年)の創建、東小橋の安楽寺(あんらくじ)は正徳年間(18世紀前期)の再興で、浄土真宗本願寺派のお寺です。

 中道の浄琳寺(じょうりんじ)は天文5年(1536年)、中本にある誓立寺(せいりゅうじ)は慶長年間(17世紀前後)、深江の光栄寺(こうえいじ)と長龍寺(ちょうりゅうじ)は延宝5年(1677年)以前に創建された真宗大谷派のお寺です。

 大今里にある常善寺(じょうぜんじ)は寛延元年(1748年)に創建された本門法華宗のお寺です。

暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)

 大阪から奈良へ通じる旧街道として、5百年程度前に開けた街道である。江戸時代、奈良への最短コースをとる街道として大変賑わったといわれています。

 この暗越奈良街道が開けていなかった頃、難波から大和に行くには日本最古の国道といわれる竹内街道が利用され、また奈良時代には、難波から大和(平城京)に通じる最短の道があり「日下の直越(ただごえ)道」といわれていたが、後の暗越奈良街道と一部重複する箇所もあると考えられています。近世になって、豊臣秀吉の天下統一と、弟、秀長の郡山城での大和支配など奈良との関係で重視されたと伝えられています。

 起点は高麗橋とされ、東成区の玉造より西から東へと通じ、暗越と呼ばれるように生駒山系の暗峠を越えて奈良に往っていたので、この名称の由来があります。

 現在も大今里辺りは、昔の街道を偲ばせるところがあります。江戸時代中頃から、全国的にお伊勢参りが盛んとなり、多いときで一日7~8万人の旅人で賑わったといわれています。

 明治時代に入ると交通機関の発達に伴い、この街道は殆ど利用されなくなりました。


暗越奈良街道(くらがりならかいどう)の道標

道標

 奈良街道に沿って古い道標(道しるべ)が残されています。

 中道4丁目16番先に「暗越奈良街道・距高麗橋元標壱里」と記されています。これは、高麗橋の道路元標からここが一里(約4Km)にあたります。現在道路元標は、梅田新道交差点に移されています。

 大今里西1丁目5番先に「これより左三丁 常善寺」と記された道標があるが、これは江戸時代に大阪の芝居興業と大変深いかかわりをもつ常善寺への道が示されたものと思われます。

 大今里4丁目27番先に「右 志ぎ山、八尾久宝寺道 左 いせ、なら道」と記された、上部を四角にくりぬいて“火袋”とし、上に笠をのせた珍しい道標があります。文化3年(1806年)に建てられ、夜間明かりを入れて旅人の便をはかったものといわれています。

 深江南3丁目21番先に「法明上人…雁塚…」と記された法明寺への道標も寛政年代(1789~1801年)のものです。また、新しい道標として街道に沿って高麗橋元標から「3.6Km」「4.1Km」「4.6Km」「4.7Km」「4.9Km」に設置し、今里筋には「いまざとならみち」道標を、深江南2丁目20番先には「暗越奈良街道」道標を設置しています。


常善寺(じょうぜんじ)への道標


火袋式道標


法明寺(ほうみょうじ)への道標

松下幸之助起業の地 顕彰碑

 松下幸之助氏は、大正6年(1917年)に22歳で独立。当時の東成郡鶴橋町大字猪飼野1399-1400番地(現在の玉津2丁目)の借家で、改良ソケット作りを始めました。その後、松下氏は福島区に移り、「松下電気器具製作所」を立ち上げ世界的な企業に発展させることになります。

 その起業の地が東成区にあったことが明らかになり、平成16年に顕彰碑が建立されました。碑文には東成の地がものづくり文化の風土を培ってきたことが記されています。

四代目桂米團治(かつらよねだんじ)顕彰碑

  四段目桂米團治は、現在の東成区役所駐車場にあたる地に住んで「中濱代書事務所」を開業し、その代書業の体験を元に後に上方落語の傑作といわれる「代書」を生み出しました。

 平成21年は落語「代書」の初演70周年にもあたり、「中濱代書事務所」の地に顕彰碑が建立されました。

「芸人の町・片江」顕彰板

 昭和初期、五代目笑福亭松鶴は、横山エンタツ、花菱アチャコらの漫才に押され凋落傾向にあった落語を憂い、大阪市東成区片江町内にあった自宅を「楽語荘」と名づけ、上方落語の保存と新人落語家の養成に乗り出しました。

 五代目松鶴は、「楽語荘」において、私財を投じて雑誌「上方はなし」を発刊、当時の四代目松鶴の松翁、桂米團治、花団治などが同人として集い、「上方はなしを聴く会」を催すなど、上方落語の再興に尽力しました。

 多くの芸人が住んだ「片江」の歴史を後世に伝えるために平成22年顕彰板が設置されました。

二軒茶屋・石橋(東小橋1丁目1番)

 江戸時代から暗越奈良街道は人の往来も盛んとなり、この街道沿いの玉造に「鶴屋」「枡屋」という二軒の茶屋が建てられ、旅人などの休息の場として繁盛したと伝えられています。

 当時の玉造は旧市街のはずれで、旅人はここで旅装を整え、家族・友人の見送りを受けていた。茶屋が二軒あったところから二軒茶屋といわれ世に広く知れわたりました。

 この二軒茶屋のそばを流れていた猫間川に慶安3年(1650年)に幕府の命によって橋が架けられ、宝永8年(1711年)には石橋に架け替えられました。正式には黒門橋というが、大坂城の玉造門がこの付近にあり、それが黒かったことから黒門の名がつけられたとのことで、その黒門は天王寺の一心寺の寺門として移築されたと伝えられています。当時珍しく石で造られたので通称“石橋”と呼ばれていたが、その後大正13年に石橋は撤去された。石橋の廃石を現在、八阪神社で境内の狛犬や石灯籠の台石、記念碑に、また八王子神社では記念碑に転用しています。

 現在、JR玉造駅の東路上に玉造名所 二軒茶屋・石橋旧跡の碑が建っており、大阪市の顕彰史跡に指定されています。


二軒茶屋(にけんじゃや)・石橋(いしばし)の碑

深江稲荷神社と菅笠(深江南3丁目16番)

 「大阪はなれて早玉造、笠を買うなら深江が名所」と伊勢音頭の一節にあるように、深江は菅笠の産地として有名でした。

 本居宣長の玉勝間の中に「笠縫島は今摂津國東生郡(現東成区)の深江村といえる所なるべし・・・」と書かれています。

 古代垂仁天皇のこと、笠を縫うことを職業とした笠縫氏の一族が、大和の笠縫邑から良質の菅の生い茂った深江の地に集団移住して、代々菅笠をつくったことから笠縫島の地名がうまれた。その歴史は2千年程になります。

 古くは全戸が笠造りに従事し、明治の初めには外国にも輸出され、また歴代天皇の御即位式や、伊勢神宮の式年遷宮(20年に一度)に用いられる儀式用の大きな菅笠は、代々この地から調達されていました。江戸時代中頃からは、伊勢参りが盛んとなり一般道中用の菅笠が世に知られるようになりました。

 深江稲荷神社の別名、鋳物御祖神社とある。11月28日夜、火焚祭があり深江や東大阪の布施などが鋳物工業の発達した地帯であることを示しているようです。

 現在、深江稲荷神社内が「笠縫邑跡」として大阪府史跡に指定されています。また、大阪市の顕彰碑「深江菅笠ゆかりの地」が建てられています。

 現在も菅細工の保存活動を続けている「深江菅細工保存会」別ウィンドウで開くが、平成11年から始まった“大阪市指定文化財”の最初に指定を受けています。


深江菅笠ゆかりの地・笠縫邑跡の碑

胞衣塚(えなつか)(東小橋3丁目9番)

 垂仁天皇2年に創建されたとされる比売許曽(ひめこそ)神社にまつられている、大小橋命(おおおばせのみこと)の胞衣を納めた塚と伝えられている。大小橋命は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)の13世の裔孫、神功(じんぐう)皇后の近親雷大臣の子で、藤原鎌足は大小橋命10世の孫であるといわれています。

 後世、この塚に植えられた柳が子どもの夜泣き封じに効能があると伝承されてから、“胞衣塚”“よな塚”と呼ばれ広く知れわたった。

 昔、平野川がこの“胞衣塚”のすぐ横を流れていたので、柳が植えられよく育ったことと想像されます。


胞衣塚(えなづか)

安堵の辻(あんどのつじ)(深江南3丁目7番)

 深江の法明寺に残されている安堵の御影縁起(法明上人の弟の西願が、沙弥教信と法明上人がお話されているところを描いた図)によると、貞和4年(1348)の春突如として空中に紫の雲が現れ、その雲から尊い僧、沙弥教信が姿を現し法明上人に向かって「あなたは永年念仏を唱えながら、人々を助けてこられました。おかげで来年の6月16日の朝、極楽へ安らかに旅立つことができるでしょう」と。上人はよいお告げを聞いたと喜びお告げどおり、その日に亡くなった。

 その尊い僧に法明上人が出会ったところが辻だったので、この辻を“安堵の辻”と呼ぶようになったと伝えられています。


安堵の辻(あんどのつじ)

歳の神(さいのかみ)(大今里1丁目34番)

 悪霊の侵入を防ぐため村境・辻などにまつられる神で、塞の神・障の神(道祖神)ともいう。

 一般には道祖神と呼ばれ、疫病や災禍を防ぐ神とされています。ここにおまつりする歳の神は、天正11年(1583年)豊臣秀吉が大坂城の築城に際し、その護り神として城を囲む周辺におまつりしたものの一つとして伝えられています。


歳の神(さいのかみ)

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