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圓光寺真宗関係史料 一括(18点)

2019年1月9日

ページ番号:8865

圓光寺真宗関係史料

えんこうじしんしゅうかんけいしりょう

絹本著色九字名号1幅・絹本著色和朝高僧並聖徳太子連坐像1幅・絹本著色蓮如画像2幅・紙本墨書六字名号1幅・紙本墨書御本書御文1幅・絹本著色方便法身阿弥陀如来画像3幅・紙本墨書松浦守書状2通・紙本墨書祐心遺言状1巻・絹本著色圓光寺歴代画像4幅・紺地金泥十字名号旗章1枚・木造阿弥陀如来立像1躯

分野/部門

有形文化財/歴史資料

所有者

宗教法人 圓光寺

所在地

大阪市天王寺区玉造本町

紹介

圓光寺真宗関係史料 絹本著色圓光寺歴代画像(6世了雲) 写真

 圓光寺は近世大坂の有力な真宗寺院のひとつであり、もとは船場の唐物町1丁目に所在した。この寺は堺の舳松で創建され、永禄年間(1558~70)に大坂天満に移転した。その後市中で何度か移転し、唐物町に寺地を定めたのが寛文6年(1666)である。
 
 圓光寺3世の空誓は『天文日記』に登場する人物である。また、五世祐心は東派の大坂御坊の草創期に大きな役割を果たした。船場での交流関係も広く、連歌に長じており、淀屋个庵の連歌の師でもあった。
 
 中世の大坂及びその周辺の地域と、真宗勢力の関連は非常に深いものがある。鎌倉時代から室町時代前期には、当時大きな勢力となっていた仏光寺派が浸透し、多くの末寺・道場が置かれ、在地土豪層の結集の拠点となっていた。その後、蓮如によって本願寺派が真宗における最大勢力となると、さらに大坂とのかかわりは強まる。蓮如による大坂坊舎の創建を経て、証如による大坂(石山)本願寺の建立によって、周囲に寺内町が発達し、これが現在の大阪の町の出発点となった。
 
 しかし、中世の真宗勢力の1次史料は、限られている。圓光寺に伝来する史料は、仏光寺系列の名号・画像本尊から、蓮如裏書の寿像、16世紀代の方便法身阿弥陀如来画像と、各時代を特色付ける画像を含んでおり、市内に残る中世絵画として高い価値を有するだけでなく、真宗勢力の時代的な変遷を物語る貴重な史料である。
 
 絹本著色の九字名号は全国的に見ても遺例が少なく、圓光寺本は14世紀代まで制作が遡ると見られる古いものである。和朝高僧並聖徳太子連坐像は典型的な仏光寺系の本尊であり、この作例は少なく、市内ではおそらく唯一のもので、制作は15世紀代末頃と思われる。蓮如画像は、明応7年(1498)に、晩年の蓮如が圓光寺2世の圓誓あてに下付したことを示す裏書を同伴し、蓮如の時代の1次史料である。この他16世紀代の制作と見られる方便法身阿弥陀如来画像3 幅や、蓮如筆と伝える六字名号、実如筆と伝える御本書御文、3世空誓の所領関連の松浦守書状、十字名号旗章といった室町~戦国時代の史料が多く残っている。5世祐心の遺言状は、圓光寺の寺史を前半に、後半には祐心自身の関わった出来事を徒然に書き留めた形をとり、末尾には祐心辞世の句を記す。特に興味深いのは後半部分で、大坂御坊草創期の様々な出来事を記すだけでなく、淀屋个庵や半井卜養など著名な人物も登場し、16世紀代前半の大坂における、船場商人や真宗僧侶を含んだサロン的な交流の様子を如実にうかがわせる。
 
 寺史に関する史料として、祐心遺言状に加えて、6世了雲の墨書銘を伴う本尊の木造阿弥陀如来立像、寛文8年(1668)筆の縁起を裏書した7世祐賢画像をはじめとする圓光寺歴代の画像4幅といった江戸時代前期のものが伝わっている。これらは、真宗関係史料として貴重であるだけでなく、大阪の歴史を考える上でも重要なものである。

参考文献

摂津国寺院史料研究会『圓光寺所蔵 祐心遺言状について』(『寺内町研究』3号 1998年)

『大阪市内所在の真宗関係史料 天王寺区所在史料について(1)』(大阪市教育委員会2000年)

 

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