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浪速区の歴史ピックアップ

2026年4月8日

ページ番号:650887

浪速区の歴史ピックアップ

1925(大正14)年、大阪市第2次市域拡張に伴い、南区(現在の中央区)から分かれて浪速区は誕生しました。浪速区には現在たくさんの鉄道が通っていますが、いつからあるのでしょう?浪速区には昔は川がいっぱいあった?

浪速区の歴史をピックアップしてご紹介します!

目次

浪速区内の鉄道・駅の歴史について

 浪速区は昔から鉄道が発達し、交通至便なまちとして知られています。現在、区内には5つの鉄道会社が乗り入れ、あわせて16の駅があります。

南海電気鉄道(南海本線・高野線)

浪速区内の駅

難波(案内上の表記は「なんば」)、今宮戎、新今宮、汐見橋、芦原町

歴史

  • 1885(明治18)年、前身である阪堺鉄道により、関西における私鉄第1号として難波駅・大和川駅間が開通しました。 
  • 南海鉄道が1907(明治40)年、恵美須町駅を開設しました。その後、駅名は1915(大正4)年、今宮戎駅に改称されました。
  • 1964(昭和39)年、国鉄(後のJR)新今宮駅が新設され、大阪環状線の列車が停車するようになり、その2年後の1966(昭和41)年、南海電鉄の新今宮駅が開業して乗換駅になりました。
  • 1885(明治18)年の阪堺鉄道(現 南海電鉄)による難波駅・大和川駅間の開通、1889(明治22)年の大阪鉄道(現 JR関西本線)による湊町駅・柏原駅間の開通に続き、1900(明治33)年、高野鉄道(現 南海電鉄)により、西道頓堀駅・堺東駅間が開通しました。駅名は翌年、駅の北側にある西道頓堀川に架かっている橋の名にちなんで汐見橋駅と改称されました。
  • 1925(大正14)年に汐見橋駅・高野下駅間が結ばれ、高野登山に多大な便宜を与えたほか、昭和の頃の汐見橋駅は貨物取扱量が南海全線のなかで、最も多く、戦前は繊維類や食料品など、戦後は鉄鋼類や木材などが運ばれました。その後の市内の交通事情の変化に伴い、現在は岸里玉出駅までの折り返し運転のみとなっています。
  • 芦原町駅は大正元(1912)年に高野鉄道により開設されました。

西日本旅客鉄道(JR西日本)(関西本線・大阪環状線)

浪速区内の駅

難波、芦原橋、今宮、新今宮

歴史

  • 1885(明治18)年の阪堺鉄道(現 南海電鉄)による難波駅・大和川駅間の開通に続き、1889(明治22)年、前身である大阪鉄道により、湊町駅(現 難波駅)・柏原駅間が開通しました。湊町駅は1907(明治40)年に国鉄の駅となり、名古屋まで開通した関西本線の一等駅として運転事務所・機関車・修理工場もあり、貨物、乗客ともに全盛時代に入りました。特に貨物の大半は木材で、駅構内の堀割(ほりわり:地面を掘って水を通したところ)から道頓堀川に出て幸町通りの木材業者に運ばれました。かつて湊町駅は「湊町リバープレイス」と現在の千日前通の場所にありましたが、1989(平成元)年に南へ200メートル移転し、1994(平成6)年の関西国際空港開港を機に「JR難波駅」と改称され、1996(平成8)年にOCAT誕生とともに地下化しました。

  • 今宮駅は大阪鉄道の駅として、1890(明治23)年に開業しました。かつての今宮駅は関西本線と環状線が合流し、盛土構造の広大な鉄道敷がエリアを分断していました。そこで、今宮駅と湊町駅(現 難波駅)の間の鉄道立体化事業の実施を契機に、駅前が整備されることになりました。1994(平成6)年に環状内回り線の立体化が、1996(平成8)年には関西本線今宮駅・難波駅間の立体化が完成し、翌年、環状外回り線の立体化と今宮駅の大阪環状線ホームの使用が開始されました。

  • 芦原橋駅は、境川信号場-今宮駅間が1961(昭和36)年に大阪環状線として旅客線化された5年後の1966(昭和41)年に開設されました。

  • 新今宮駅は、国鉄により大阪環状線の環状運転が開始された1964(昭和39)年に新設されました。2年後に南海電鉄が新今宮駅を開業したのち、1972(昭和47)年には関西本線の列車も停車するようになりました。また、2025(令和7)年12月4日に日本で初めて「#(ハッシュタグ)」のつく副駅名「#まいど通天閣」が導入されました。

阪堺電気軌道(阪堺線)

浪速区内の駅

恵美須町

歴史

 1911(明治44)年、恵美須町駅・大小路駅間が開通しました。浜寺駅前駅までの現在の路線が完成したのはその2年後のことです。停留場のホームは2020(令和2)年に100メートル南に移設され、副駅名を「通天閣前」と名付けられました。

阪神電気鉄道(阪神なんば線)

浪速区内の駅

桜川

歴史

 2009(平成21)年、阪神なんば線が開通し、大阪・難波を経由して神戸・三宮方面と奈良などの近鉄沿線を直接結ぶ関西の広域な鉄道アクセスルートが形成され、そのルート上に新たに桜川駅が開設されました。

大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)(御堂筋線・四つ橋線・堺筋線・千日前線)

浪速区内の駅

難波、大国町、動物園前、恵美須町、桜川

歴史

  • 御堂筋線の「大国町駅」は1938(昭和13)年、難波駅・天王寺駅間延伸時に開業しました。
  • 四つ橋線の「大国町駅」は1942(昭和17)年の四つ橋線の開業に伴い、花園町駅までの起点駅として設置され、1965(昭和40)年、四つ橋線が西梅田駅まで延伸されたことにより途中駅となりました。

  • 1965(昭和40)年、四つ橋線の西梅田-大国町駅間延伸時に、「難波元町駅」が開業しました。駅は1970(昭和45)年に千日前線が開通した際、「難波駅」に統合されました。

  • 千日前線「桜川駅」は1969(昭和44)年、千日前線の開業に伴い、野田阪神駅からの終着駅として設置され、1970(昭和45)年、谷町九丁目駅まで延伸して途中駅となりました。

  • 堺筋線の「恵美須町駅」も1969(昭和44)年の堺筋線の開業に伴い設置されました。

  • 千日前線の「難波駅」は1970(昭和45)年、桜川駅・谷町九丁目駅間開通に伴い設置され、同時に四つ橋線「難波元町駅」を「難波駅」に統合しました。駅の正式名称は現在も「難波駅」ですが、案内上の表記は「なんば駅」とひらがなに統一されています。

今後の鉄道の発展

 現在、2023(令和5)年3月に開業した大阪駅(うめきたエリア)と、JR難波駅及び南海本線の新今宮駅をつなぐ新たな鉄道路線「なにわ筋線」の整備が進められています。2031年春の開業をめざし、2021(令和3)年10月に工事が着手されました。開業にあたっては、「(仮称)南海新難波駅」の設置が予定されています。

浪速区内の市電の歴史について

 市電は第5回内国勧業博覧会開催の1903(明治36)年に花園橋・築港間に初めて開通しましたが、これは築港の利用や埋立地の繁栄を目的としたものでした。大衆輸送機関としての真の活用は次の東西線、南北線の開通により始まりました。

 1908(明治41)年に開通した梅田・四ツ橋・難波・恵美須町を結ぶ南北線(全線開業はその2年後)は、その日から3日間、5両の花電車が運転されました。停留所前など7か所にはアーチが造られ、夜はイルミネーションが点けられました。

 その利便性の高さに市民の間で路線網の必要性が認識され、その後、いわゆる第三期線、第四期線、期外線が相次いで敷設されました。

 第三期線として1912(明治45)年、大江橋・北浜二丁目・日本橋筋三丁目間の堺筋線が開通し、1913(大正2)年、恵美須町から霞町までの霞町線が敷設され、南北線及び堺筋線とつながりました。そして1915(大正4)年には桜川二丁目より芦原町・大国町・恵美須町を経て天王寺西門前に至る西道頓堀天王寺線と、安治川二丁目渡より玉船橋・汐見橋・桜川二丁目・湊町駅前・千日前を経て上本町六丁目に至る九条高津線が開通、さらにその翌年には賑橋より八阪神社前を経て大国町に至る難波木津線が開通しました。 

 当時、堺筋線を敷設するにあたっては、電車の道路幅が広いため、沿道の繁栄を阻害するとして大きな反対がありました。また九条高津線は当初、道頓堀川北岸の西道頓堀高津線として宗右衛門町を通ることとなっていたため、楼主は八千代姐さんを先頭に市の当局に陳情に差し向けるなどのことがありましたが、明治45年の南の大火で、むしろ焼け跡の南岸を通り、かつ桜川を埋め立てれば費用も安くなるとの議論が出て、湊町駅を大きく迂回する線ができました。

 九条高津線は、初めは湊町から賑橋までは南北線を通っていましたが、1920(大正9)年に難波新川の東岸を走る線(九条高津連絡線)が設けられました。 

 第四期線では、霞町と阿部野橋を結ぶ市電が1918(大正7)年に開通(霞町玉造線の全線開業は3年後)し、1921(大正10)年には桜川二丁目から立売堀北通五丁目、堂島大橋に至る桜川中之島線が開通した結果、ほぼ区内の路線網が完成し、あとは芦原橋から出島に至る阪堺線(1927(昭和2)年に阪堺電鉄が芦原橋―三宝間を開通、1944(昭和19)年に路線を市電に買収)を残すのみとなりました。

 明治、大正、昭和と市民になくてはならない交通手段として活躍してきた市電でしたが、戦争で中断されていた地下鉄工事が1950(昭和25)年ごろから再開され、市電に代わる並行路線の地下鉄工事が進み、1960(昭和35)年には市電が初めて走った築港線の一部が廃止されました。

 高度成長による自転車の急激な増加によってモータリゼーションの波が押し寄せ、市電のスピードが低下して運転効率の悪化は深刻となる中で、市民の足を確保するために「路面電車から地下鉄へ」の方針が打ち出されました。地下鉄建設などに見合って順次市電路線の廃止が進み、1969(昭和44)年41日、市電は完全にその姿を消しました。
市電の廃止(浪速区内に関する区間)
できごと
 1963(昭和38)年  難波木津線(賑橋―大国町)廃止
 1966(昭和41)年南北線のうち日本橋筋三丁目―恵美須町間廃止
霞町玉造線(霞町―阿倍野橋)廃止
堺筋線のうち北浜二丁目―日本橋筋三丁目間廃止
霞町線(恵美須町―霞町)廃止
 1968(昭和43)年桜川中之島線(桜川二丁目―堂島大橋)廃止
西道頓堀天王寺線(桜川二丁目―天王寺西門前)廃止
阪堺線(芦原橋―出島)廃止
 1969(昭和44)年九条高津線のうち玉船橋―上本町六丁目間廃止(全線廃止)

阪神高速道路の歴史について

 1966(昭和41)年5月、日本万国博覧会の開催が正式に決定し、巨大な道路整備事業が実施されることになりました。開催当日までに整備すべき関連公共事業として計上された事業費(6500億円)のうち、道路関係の事業費が全事業費の51.4パーセントを占め、この事業費で建設整備される道路の中に「阪神高速道路」がありました。

 緊急整備が必要と認められたのは、大阪池田線、大阪守口線、大阪東大阪線、大阪堺筋線、森小路線、西大阪線、神戸西宮線の7路線で、道路関係全事業費の約3分の1が投入されることになりました。工事は1967(昭和42)年から3年間にわたって急ピッチで進められ、ほぼ予定に近い形で整備が行われました。

 博覧会の入場者数は当初予想の2倍以上の64218,770人を記録。参加国数、入場者数ともに、それまでの万博博覧会史上最高のものとなりましたが、道路整備事業が会場への円滑な車両通行に大きく寄与し、観客輸送の功績が万博大成功の一翼を担いました。そして博覧会を契機に、阪神都市圏の本格的な都市高速道路時代が幕を開けました。

 浪速区内には、1号環状線、14号松原線(えびすJCT-松原JCT)、15号堺筋線(高津入口-堺出入口)が走っています。

阪神高速道路の開通(浪速区内に関する区間)
年月  できごと
 1964(昭和39)年6月1号環状線の土佐堀・湊町間が最初の区間として開通
 1967(昭和42)年3月1号環状線の道頓堀・湊町間が開通し、環状線が完成
1970(昭和45)年3月4号松原線の日本橋東付近(現在のえびすJCT)・阿倍野間が開通(全線開通は1980年)
15号堺筋線の湊町・堺間が開通。
この時、えびすJCT、湊町JCTを共用開始
1972(昭和47)年4月15号堺線の高津・湊町間が開通(全線開通は1976年)

阪神高速道路の施設(浪速区内)

  • 1号環状線:夕陽丘出入口、えびすJCT、えびす町入口、なんば出口、湊町JCT、湊町出口
  • 14号松原線:えびすJCT
  • 15号堺線:湊町JCT、湊町出口/PA、汐見橋入口、芦原出口
 なお、急ピッチでの高速道路の整備にあたっては、都市部の用地取得の困難が見込まれたために、堀川の上空での建設が進められました。浪速区内を走る高速道路の下には、かつて難波入堀川高津入堀川十三間堀川が流れていました。

埋め立てられた川の歴史について【難波入堀川・高津入堀川・十三間堀川】

難波入堀川

 難波入堀川は難波新川ともいわれ、また極貧掘の異名を残す有名な川でした。

 1732(享保17)年11月、難波御蔵を築造した翌年の5月に開削されました。すなわち道頓堀川より新蔵に至る443間半(約806メートル)、幅8間(約15メートル)、船入掘20間(約36メートル)四方をうがって新蔵と連絡したもので、開削に際し貧民に土砂を運搬させ、同時に労銀を交付し貧民救済に努めたところから貧民堀の名前があります。

 新川は徳川時代、新田会所等から米蔵に収納される年貢米などの運搬路として使用されましたが、明治維新後は川が汚れ、南側を流れる鼬(いたち)川もまた悪水停滞して衛生上悪影響があったため、難波村の小野弥左衛門、津守新田の江上田米助の両名が両川の連絡工事を自費で行い、通船料を徴収して工事の償却に当てることについて大阪府の許可を得ました。1878(明治11)年に起工し、翌年5月に工事を完成、あわせて4か所の架橋も行いました。これにより、沿道の田んぼに養水を導くことができ、また交通路としても便利になりました。

 戦後、川に土砂や瓦礫が堆積して舟運の便が悪くなり、また悪水が停滞して衛生上からも美観上からも放置できなくなったため、埋め立てられることとなりました。1954(昭和29)年度までに入堀橋から賑橋までの約500メートルの埋立てが完了し、翌年度に入って、賑橋から道頓堀川までの埋立てが行われ、1958(昭和33)年には姿を消しました。かつて川が存在した場所には阪神高速道路1号環状線が走っています。

高津入堀川

 高津入堀川は、左岸は二ツ井戸町から難波新川、右岸は高津町から鼬川(いたちがわ)合流点までの、長さ2,730メートル、川幅の平均は10メートルある川でした。

 1734(享保19)年に開削されたときは、長さ439(798メートル)、幅9間(約16メートル)の運河でした。すなわち日本橋筋の隆盛に伴って、1733(享保18)年に福島屋市郎右衛門、備前屋善兵衛が長町より東、下寺町より西の土地を買い入れ、高津新地として新市街とすることを願い入れ、南組に編入された際に両名によって開削されたものです。

 その後1752(宝暦2)年3月、新地の南天王寺領に幕府が米蔵(天王寺御蔵または高津新地御蔵という)を設けた際、この川の南端に東西16間(約29メートル)、南北20間(約36メートル)の船入堀が穿たれ、運河と連絡されるに至りました。

 しかし、道頓堀川に通ずるだけではしばしば停水して衛生の害もあったことから、その終点字堀止を起点として南は天王寺字水田に至り、直角に西に屈曲し、また北折して清水橋に出て鼬川に接続する開削の計画をなし、1896(明治29)年2月起工、1898(明治31)年2月これを竣工しました。これらの開削によって、沿道の田んぼにも養水を導くことができ、交通路としても便利になりました。 

 戦前、高津入堀川の川沿いの一部には、川の両側に貯木業者が並んでいました。木場には多くの筏が組まれていて、半纏姿の職人がたち働き、子どもたちの筏遊びにも絶好の場所でした。川の水も澄み、1940(昭和15)年頃までは魚釣りができ、夏の暮れなどは近所の人びとが縁台を出して夕涼みをとったそうです。 

 しかしその川も、戦後は戦災による焼土の捨て場となり、船出橋から南日東までが1957(昭和32)年から翌年にかけて、南日東から堀切橋までが1958(昭和33)年から1964(昭和39)年にかけて、堀切橋から道頓堀川合流点までが1958(昭和33)年から1962(昭和37)年にかけて埋め立てられ、橋も全て撤去されました。高津入堀川が埋め立てられた後には、阪神高速道路1号環状線が建設されました。

十三間堀川

 十三間堀川(または十三間川)は大阪市と堺市の市境を流れる大和川に架かる大和川大橋の東端で大和川から分岐し北流して木津川に注ぐ川で、従来の説では河村瑞軒の設計による運河であるといわれ、また十三間川の名はその幅員が十三間(約24m)あったからだとされています(津守村誌など)

 しかし津守新田の文書にある1702(元禄15)年の検地帳によると、「内川(十三間堀川のこと)嶋頭より中在家浦(粉浜村のこと)まで二千三百十二間(約4,203メートル)、拾間(約18メートル)」とあり、1747(延享4)年の新川願書控や津守新田願書控にも一様に川巾十間となっています。

 用水並びに屎尿船・通船のために中在家浦(粉浜村)まで地主の費用で開削し、さらに1704(宝永元)年、剣先船(江戸時代に荷物運送のために使われ、船首が軒先のように尖っている船)を通すために、住吉神前先から大和川まで開削され、津守新田の下作人たちは拾間堀と呼んでいたとあります。 

 現在、浪速区内の十三間堀川はすべて埋め立てられ、かつて川が存在した場所には阪神高速道路15号堺線が走っています。

埋め立てられた川の歴史について【鼬川・桜川】

鼬川

 鼬(いたち)川の開削の年代は不明ですが、1703(元禄16)年の古地図によると、下難波村と木津村との境界に鼬川の名があり、上流は現在の阪神高速道路1号環状線「えびす町」入口、恵美須町付近に伸びています。したがって同川は徳川時代、今宮、木津、難波の田畑の水路として利用されていましたが、難波入堀川とともに濁水停滞して衛生上、害を及ぼすことが多かったため、難波村の小野弥左衛門及び津守新田の江上田米助の2人が船の通行をよくするとともに、汚水を排除して耕地灌漑の用に供するために両川の貫通工事を計画し、1878(明治11)年5月に工事着手し、翌年5月、遊連橋と清水橋の間の連絡工事を完成させました。その後は工費の償還に充てるため、通船料及び渡橋賃が徴収されましたが、1898(明治31)年2月以降は市営となり廃止されました。

 なお、高津入堀川の延長工事が行われ、1898(明治31)年2月には高津入堀川とも連絡することとなりました。

 鼬川の名については、願泉寺の記録によると、聖徳太子の四天王寺を建立するにあたり、諸国から集めた良材がこの地に住む多嘉丸の宅前に到着し、その運搬に苦しんでいたところ、1匹の老いた鼬が海浜より出てきて、荒陵(四天王寺のあたりのこと)と海浜との間を行ったり来たりし、民衆たちは皆これを怪しんでいましたが、多嘉丸の夢に鼬のお告げがあり、この川を開削し、容易に木材を運ぶことができたとの話から、この川の名前ができたという伝説があります。このほかにも、江戸時代に編纂された畿内5か所の地誌である「摂津志」には、この川の本名は河内川といい、延暦年間に和気清麻呂が開削した河道の跡としていますが、いずれも信じがたい説です。

 なお戦前にこの川は大部分が埋め立てられ、わずかに残された芦原橋の下流も埋め立てられ、JR「芦原橋」の駅名にその名残をとどめるのみとなっています。

桜川

 桜川の開削の年代は不詳ですが、1703(元禄16)年の古地図には七瀬川とともに存在し、桜川は下難波村の用水路としてありました。幸町の南端を西に流れ、木津川に注いでいましたが、1915(大正4)年、市電開通の際、東端の一部(湊町駅構内)を残して埋め立てられました。

浪速区内の橋の歴史について

 現在、浪速区には木津川と道頓堀川に計10の橋が架けられています。

木津川

大浪橋

 大浪橋は、木津川筋で戦前に架けられた橋としては最下流にあたります。大きな帆船が頻繁に上り下りするため、橋脚を無くして、川幅を一跨ぎする橋が1937(昭和12)年3月に架けられました。大浪橋の名は大正区と浪速区を結ぶ新橋ということで区名の1字ずつをとって付けられ、現在に至っています。

大正橋

 大正橋の架橋にあたっては、上流にある大阪ガス株式会社が石炭を運搬するのに、橋がかかると機帆船が直接会社に横付けできないとして大いに反対し、当時の市長が辞職する事態となりました。1915(大正4)年8月にようやく架設されました。

 初代の大正橋は当時の日本では最も長いアーチ橋でした。都市化が進むなか、渡し以外に川を渡る手段がなかった地域住民は、架橋とともに市電の敷設拡充を強く望みました。その要望から生まれた大正橋は、市電の軌道分も含めて幅員が19メートル、支間長が91.4メートルという破格のサイズでした。このような大スパンになったのは、大阪ガスの事情に配慮をしたためでした。

 橋は戦後、地盤沈下や荷重増加に伴い、変形と揺れがひどくなり、徐々に危険な状態となっていきました。1966(昭和41)年から、都市計画道路泉尾今里線の拡張整備に伴い、大正橋の架け替えが2分割で施工され、1974(昭和49)年3月に完成しました。新しい大正橋長は約80メートル、幅員は41メートルで、1977(昭和52)年10月に全面開通し、現在に至っています。 

道頓堀川

 道頓堀川の東側沿岸部は早くから開けましたが、西側の本格的な開発は1698(元禄11)年に始まります。堀江新地と幸町新地の開発を機に道頓堀に住吉橋、幸橋、汐見橋、日吉橋の4橋が架けられました。西道頓堀川の沿岸は、土佐や薩摩などからの入港船の荷揚げ場となり、多くの銅吹屋(精錬所)も営業していました。

住吉橋

 住吉橋は、橋の上に立つと、はるか南に住吉の高燈篭を望むことができたためこの名が付けられたといいます。1724(享保9)年に発生した大坂最大の火災であった妙智焼では、住吉橋も被害を受けました。また、1707(宝永4)年と1854(嘉永7)年の津波によって、道頓堀川の橋は破壊されました。住吉橋が近代橋になったのは1925(大正14)年11月のことで、それが今日の橋です。

幸橋

 幸橋は1698(元禄11)年に架けられたもので、命名の理由は分かりませんが現在まで踏襲されています。普通の木橋でしたので火事や洪水などの災害には弱く、大坂最大の火災であった妙智焼(1724(享保9)年)で被害を受けました。

1924(大正13)年10月に橋長53.3メートル、幅員9.4メートルの橋が架けられ、1968(昭和43)年、橋長46メートル、幅員9.4メートルの橋に架け替えられ、現在に至っています。

汐見橋

 汐見橋はこの場所で潮の干満が観察できるためこの名が付けられたと考えられます。また別名を唐金橋(とうがねばし)といいますが、この由来としては南側に唐金屋という掛屋(幕府・諸藩の公金出納を扱った商人のこと)があり、この人が橋を架けたという話が伝えられています。

 1925(大正14)年12月、幅員9.3メートルの橋が架けられましたが、1964(昭和39)年に幅員32メートルの橋になり、現在に至っています。

日吉橋

 日吉橋の周辺は材木問屋が多く、川岸には木津川口から入港する船の船着場があり、廻船問屋や茶屋を兼ねた宿屋などが建ち並んでいました。「米商旧記」によると、橋長は31間(約61メートル)で、幅員は2間(約4メートル)となっていますが、1791(寛政3)年、南堀江から出火した火事で焼けています。1935(昭和10)年12月 に橋の長さ57.4メートル、幅員12.7メートルの橋となり、現在に至っています。

 西道頓堀川の橋は、木津川の川口に近いことから津波の被害を受けやすく、1707(宝永4)年の地震による津波は市内の橋31橋を破壊しました。このとき、道頓堀川筋の被害も大きく、日本橋より下流の橋はことごとく落橋したといいます。また1854(嘉永7)年の津波でも西道頓堀川の橋は4橋とも押し流され、それが大黒橋に堰き止められた形となり、周辺の民家に大きな被害を与えました。

 明治の終わりから対象にかけて、市電の敷設事業によって西道頓堀に深里橋と幸西橋の2橋が増えました。

深里橋(ふかりばし)

 道頓堀川と西横堀川合流点のすぐ西側に市電南北線の開通とともに、1908(明治41)年、橋長54.5メートル、幅員15.5メートルの深里橋が完成しました。昭和に入ってから西横堀線(四つ橋筋)の拡張にともなって、1930(昭和5)年に橋長53.2メートル、幅員23.7メートルの現在の橋となりました。深里橋は、四つ橋筋において道頓堀川をまたいでおり、湊町リバープレイスがすぐ近くにあります。北行一方通行の橋ですが、橋の南側に千日前通、JR難波駅があり、大阪キタに向かう交通量の多い橋です。

幸西橋

 堂島大橋から南へ到達する路線に幸西橋が1919(大正8)年4月に架けられました。1970(昭和45)年、橋長52.7メートル、幅員20メートルの橋に架け替えされ、現在に至っています。

西道頓堀橋

 戦後、新しい都市計画道路事業によって橋の新設や架け替えが行われました。西道頓堀橋は1959(昭和34)年、加島天下茶屋線(なにわ筋)の拡幅工事にともなって架けられた橋長44.6メートル、幅員22.0メートルの橋です。

浮庭橋

 水の都大阪を再生する道頓堀川水辺整備事業の一環として、湊町リバープレイスと南堀江地区を結ぶ新しい人道橋「浮庭橋」が、2008(平成20)年12月に開通しました。本橋は、デザインコンペにより「浮かぶはらっぱ」をコンセプトとした吊橋形式の作品が採用されました。メインデッキを浮かせるために、2本のメインケーブルにより斜め45度に河川を横断するメインデッキを吊り、横揺れを防止するために河川と直交するサブデッキをメインデッキに剛結させています。

 また、橋の上には芝生や低木、両端にシンボルツリーを配置するとともに、側面にツタをはわせ、緑あふれる「はらっぱ」をイメージしています。橋の名前は一般公募で選ばれました。

昔あった橋について

 浪速区内には以前、もっと多くの川とそれに架かる橋がありました。

 今はありませんが、浪速区史(昭和322月発行)には、「現河川に架かる橋」として以下の橋の名前が掲載されています。

浪速区史(昭和32年2月発行)時点で浪速区に架かっていた橋
川の名前橋の名前 
湊町掘割幸栄橋、湊町橋
難波新川浪芳橋、賑橋、新川橋、叶橋、浪華橋、入堀橋、大倉橋、柳井橋
高津入堀川船出橋、高岸橋、星池橋、廣田橋、夕日橋、名呉橋、玉水橋、増井橋、愛染橋、雲井橋、薗坪橋、深田橋、堀初橋、琴江橋 
十三間(堀)川 月正橋、浜津橋、豊津橋、陸橋
鼬川 五百井端、楠橋 

 また、浪速区史には、以前あった橋として、以下の橋の名前が記載されています。

浪速区史(昭和32年2月発行)時点で消滅していた橋(浪速区史より)
川の名前 橋の名前 
旧桜川幸栄橋、桜橋、建弘橋(住吉橋筋)、楠橋、幸勇橋、幸小橋(幸橋筋)、松の橋、せいとう橋(桜川交差点のあたり)、汐見小橋、四海橋、難幸橋(日吉橋筋)、幸福橋、西留橋 
旧鼬川 吉柳橋、市場橋、大黒橋、鷗橋、勘助橋、芦原橋
(いずれも1939(昭和14)・1940(同15)年度の埋め立てにより撤去)

昔あった渡船場について

 古来数多くの川が流れ、水の都と呼ばれた大阪には、人々の往来のための渡船場が各所にありました。

 その昔、渡し守として世襲の家業で、遠く万治・貞享の頃(16581688年)から続けられていましたが、1907(明治40)年、市内の全渡船場が市営となり、請負に付して経営されることとなりました。1920(大正9)年、旧道路法の施行により渡船は無料となり、1932(昭和7)年4月以降はそれまでの請負制を直営とすることに改めました。当区と大正区との境界をなす木津川は原則として無橋地帯で渡船によって結ばれ、4カ所の渡船場を有していました。

 このうち瀬ノ渡は交通量の減少などによって1931(昭和6)年に廃止され、下ノ渡は大浪橋の架設に伴い渡船価値を失うに至ったので、1937(昭和12)年に廃止されました。難波島渡と今木渡は、1945(昭和20)年3月の戦災のため、施設の消失と交通量の激減により運行を休止。難波島渡は付近の諸工場の復興に伴い1948(昭和23)年に復活しましたが、1982(昭和57)年5月末日で廃止となりました。

戦災復興土地区画整理事業について

 戦災復興土地区画整理事業は、浪速区では「湊町工区「汐見橋工区」「大国町南部工区」「東部工区」「栄町工区」の5つの工区において実施されました。

 幹線道路は中央10メートル、その他街路は中央5メートル50センチメートル幅で施行され、幅広い道路が整備されました。区内の道路は、整理前は約574,719平方メートルだったのが、整理後は約2倍の1135,064平方メートルに増えました。

 公園は、整理前はわずか1,382平方メートルだったのが、整理後は10倍近い134,604平方メートルになりました。整理前は区内に公園は1か所しかありませんでしたが、この事業で20か所が整備されました。

 整備された公園は以下の通りです。

東部工区(7か所)

 関谷町公園、日東公園、愛染公園、新川公園、高岸公園、恵美公園

 (注)日本橋公園はこの事業により拡張

大国町南部工区(3か所)

 大国町北公園、戎公園、大国町南公園

湊町工区(5か所)

 浪速公園、鴎町公園、元町中公園、稲荷町公園、塩草公園

汐見橋工区(2か所)

 桜川公園、立葉町公園

栄町工区(3か所)

 浪速北公園、浪速中公園、浪速南公園

 5つの工区の事業計画は1947(昭和22)年12月~1950(同25)年11月の3か年で順次認可され、事業に着手しましたが、事業の対象区域が大変広く、事業内容が多様で、施行が長い期間に及ぶため、区域内外の道路・交通事情や社会情勢の変化に対応して必要のつど、事業計画の変更が行われました。

 5つの工区のうち「大国町南部工区」は1960(昭和35)年3月に事業が完了しましたが、対象面積の大きな「東部工区」と「湊町工区」の事業が完了したのは1991(平成3)年3月のことでした。

戦災復興土地区画整理事業各工区の面積、当初設計認可、換地処分について
 工区名 面積(平方メートル) 当初設計認可  換地処分 
 東部工区 1,296,954 昭和24年6月29日 日東:昭和37年5月30日

 関谷・恵美須・新川:平成 3年3月31日

 大国町南部工区    343,893 昭和24年1月5日昭和35年3月30日
 湊町工区  1,172,511昭和22年12月27日平成3年3月31日
 汐見橋工区    450,574昭和23年11月6日昭和42年6月30日
 栄町工区    372,627昭和25年11月21日昭和37年3月30日

戦災復興土地区画整理事業後の湊町地区の開発について

 戦災復興土地区画整理事業により、浪速区内では道路や公園等の公共施設の整備が進められてきましたが、1985(昭和60)年3月、旧国鉄「湊町駅」の貨物取扱いが廃止され、当跡地を含む約17.5ヘクタールの広大な開発用地が大阪都心「ミナミ」に生み出されることとなりました。

 同年12月に定められた「関西国際空港関連施設整備大鋼」に連続立体交差事業や阪神高速道路公団の湊町ランプ等の事業が位置づけられ、湊町地区は交通結節点としての機能を十分に生かし、関西国際空港と直結した路線の新しい交通拠点として整備が進められることとなりました。

 JR関西本線の連続立体交差事業と複合交通センタービル(OCATビル)建設事業はこのような基本構想に沿った湊町地区の基盤施設整備の中核事業となるもので、旧国鉄「湊町駅」(現 JR難波駅)を地下化し、その上に交通センターバスターミナル、阪神高速のランプを含む大阪シティエアターミナル(愛称: OCAT)ビルの建設が進められました。

 かつて湊町駅は現在の「湊町リバープレイス」と千日前通りの場所にありました。1989(平成元)年に南へ200メートル移転し、1994(平成6)年の関西国際空港開港を機に「JR難波駅」と改称され、1996(平成8)年にOCAT誕生とともに地下化しました。 

 OCATは1996(平成8)年3月にオープンしました。オープン当初は、1階に空港で行っていたチェックインや手荷物預けなどができるCAT機能や、インターネットなどで海外の情報を提供する高度情報センターなどもありましたが、現在は廃止されています。

 さらに既存の地下鉄や近鉄の難波駅及び地下街とも直結する地下歩行者専用道路も併せて整備されました。

 JR難波駅の跡地を含む湊町地区は、湊町土地区画整理事業によって基盤整備を行うとともに、21世紀の都市づくりを展望した基本構想に基づく整備が進められました。湊町地区のまちの愛称は公募により「ルネッサなんば」とされ、エリアを「ウォーターフロントゾーン」「ニューターミナルゾーン」「ニューシティゾーン」「アメニティゾーン」の4つのゾーンに分けて開発が進められ、ウォーターフロントゾーンでは2002(平成14)年、湊町リバープレイスがオープンしています。

湊町地区の再開発の歩み

年表(湊町地区の再開発の歩み)
年月 できごと 
1989(平成元)年 12月 JR関西本線「湊町駅」移転工事完成
1994(平成 6)年6月 「大阪市湊町土地区画整理事業」事業認可
1994(平成 6)年 9月 JR関西本線「湊町駅」を「JR難波駅」に名称変更
1996(平成 8)年 3月 阪神高速湊町オフランプオープン
JR関西本線今宮駅・難波駅間高架化・地下化使用開始
OCATビルオープン
2000(平成12)年10月 「大阪市湊町土地区画整理事業」換地処分
2001(平成13)年3月 近鉄新難波ビル(事務所、店舗など)完成
2001(平成13)年6月ローレルコート難波(共同住宅)完成
2002(平成14)年7月湊町リバープレイス(音楽ホールなど)完成
2003(平成15)年 3月アーベインなんば(共同住宅)完成
2004(平成16)年8月マックスバリュ難波湊町店(店舗)完成
2005(平成17)年 3月アーベインなんばウエスト(共同住宅)完成
2005(平成17)年 7月難波サンケイビル(事務所、店舗)完成
2005(平成17)年 11月ローレルタワー難波(共同住宅)完成
2006(平成18)年 2月ルネッサ難波タワー、ロイヤルパークスなんば(いすれも共同住宅)完成
2006(平成18)年9月
ルネッサ難波ビル(ショールーム、結婚式場、事務所)完成
2006(平成18)年10月オンテックス難波ビル(事務所、ショールーム)完成
2009(平成21)年 6月マルイト難波ビル(店舗、事務所、ホテル)完成
2014(平成26)年 9月なんばセントラルプラザリバーガーデン(共同住宅1期)完成
2015(平成27)年 8月なんばセントラルプラザリバーガーデン(共同住宅2期)完成
2024(令和6 )年12月アパホテル&リゾート大阪なんば駅前タワー(ホテル)完成

区画整理事業後の難波地区の開発について

 東部工区の戦災復興土地区画整理事業がようやく収束に差し掛かった1984(昭和59)年、泉州沖での国際空港建設が国のプロジェクトとして決定されました。

 関西国際空港建設を機に、新空港の表玄関として難波地区を再開発し、新しい都市づくりを行うため、大阪スタジアム興業株式会社、株式会社クボタ、株式会社高島屋、南海電気鉄道株式会社、株式会社ニッピの5社により「難波地区再開発事業研究会」が発足して活動が開始され、アメニティ性の高い都市環境整備を行い、人・情報・文化が交流し発信するまちづくりを進めるべく、土地の高度利用と合わせて公共施設の整備改善を図ることを目的に「大阪市難波土地区画整理事業」が実施されることになりました。

 そして、南海なんば駅から国道25号に至る一帯14.5ヘクタールについて、幹線道路等の公共施設の整備や土地の高度利用が進められ、大阪球場の跡地に建設された「なんばパークス」などの商業機能をはじめ、業務や文化、アミューズメント、居住など、新しいミナミを形成する重要拠点にふさわしい多様な機能が整備されていきました。

 また、株式会社ニッピが所有する工場跡地は、ゴルフセンターから住宅展示場、駐車場へと利用された後、西側半分は売却され、東半分は2023(令和5)年、インバウンド需要に対応する宿泊機能や、オフィス機能、飲食などの機能を備えた「なんばパークス サウス」が開業しました。

難波地区の再開発の歩み

年表(難波地区の再開発の歩み)
年月  できごと
 1945(昭和20)年3月 大阪第一煙草製造所が戦災により焼失
 1949(昭和24)年6月 戦災復興土地区画整理事業(東部工区)設計認可
 1950(昭和25)年9月 大阪第一煙草製造所跡地に大阪球場完成
 1965(昭和40)年4月 ニッピ大阪工場移転
 1970(昭和45)年9月 ニッピ工場跡地にナンバゴルフセンター開場
 1973(昭和48)年9月 クボタ船出町工場移転
1984(昭和59)年泉州沖での国際空港建設が国のプロジェクトとして決定
1987(昭和62)年5月大阪スタジアム興業株式会社、株式会社クボタ、株式会社髙島屋、南海電気鉄道株式会社及び株式会社ニッピの5社による「難波地区再開発事業研究会」発足
1988(昭和63)年10月南海ホークス球団の経営権を株式会社ダイエーに譲渡、球団が福岡市に移転
1989(平成元)年7月「難波地区開発協議会」発足
1991(平成 3)年3月戦災復興土地区画整理事業(東部工区)完了
1995(平成 7)年11月大阪市難波土地区画整理組合設立認可
1996(平成 8)年 8月難波地区再開発地区計画の都市計画決定
1997(平成 9)年 3月高岸公園整備完了
1997(平成 9)年 10月ナンバゴルフセンター跡地に住宅展示場オープン
1998(平成10)11月大阪球場の解体撤去工事開始
2002(平成14)年9月ウインズ難波先行オープン
2003(平成15)年10月

なんばパークス(店舗、事務所等)第1期オープン

住宅展示場終了
2006(平成18)年 3月LABI 1なんば(店舗)オープン
2007(平成19)年 4月なんばパークス全館グランドオープン
2007(平成19)年 8月ザ・なんばタワー(共同住宅)完成
2010(平成22)年3月関谷町公園整備完了
2010(平成22)年5月なんばグランドマスターズタワー(共同住宅)完成
2010(平成22)年10月木津卸売市場リニューアルオープン
2012(平成24)年 3月大阪市難波土地区画整理組合解散
2012(平成24)年4月Zepp Namba(音楽ホール)オープン
2013(平成25)年 1月南海なんば第1ビル(大学、事務所)完成
2023(令和 5)年 3月ホテル京阪なんばグランデオープン
2023(令和 5)年 7月なんばパークスサウスグランドオープン
(センタラグランドホテル、パークスサウススクエアオープン)

戦後の今宮駅前地区の基盤整備について

 今宮駅周辺市街地は「大阪ミナミ」に近接し、利便性に優れた立地条件を有していましたが、関西本線と大阪環状線が合流し、盛土構造の広大な鉄道敷が地域を分断するなど、まちの発展が著しく妨げられていました。このため、JR今宮駅・難波駅 (旧湊町駅)間の鉄道立体化事業の施行を契機に、土地区画整理事業によって駅前にふさわしい基盤整備が実施されることになりました。

 1994(平成6)年6月に環状内回り線の立体化が完成し、1996(平成8)年3月にはJR関西本線今宮駅・難波駅(旧湊町)間の立体化が完成(連続立体交差事業)し、翌年3月に環状外回り線の立体化及び今宮駅の整備が完了して、大阪環状線と関西本線相互の乗り換えがスムーズにできるようになりました。

 鉄道線路の移設後、盛土を取り除いて道路や公園等の基盤整備が行われました。

今宮駅の変遷

年表(今宮駅の変遷)
年月 できごと
1889(明治22)年5月 大阪鉄道(現 JR)が湊町駅・柏原駅間鉄道開通(単線)
1899(明治23)年1月 大阪鉄道が今宮駅を開設
1961(昭和36)年4月 大阪環状線暫定開通(西九条で折り返し運転、昭和39年3月完全環状運転開始)
1990(平成 2)年8月 JR関西本線今宮駅・難波駅(旧湊町駅)間の連続立体交差事業着手
1993(平成5)年 1月 「今宮駅前地区土地区画整理事業」事業認可
1994(平成6)年 6月 大阪環状線内回り線路を高架化
1996(平成8)年 3月  関西本線ホームを高架化、新駅舎の使用を開始。
それまでの関西本線ホームは大阪環状線の外回り線と内回り線に挟まれた相対式ホーム(地上駅)で、線路は駅のすぐ西側(湊町方)で内回り線の下をくぐっていた
1997(平成 9)年3月
大阪環状線外回り線路を高架化、大阪環状線ホームを使用開始
2001(平成13)年11月「今宮駅前地区土地区画整理事業」換地処分

戦後の新世界南部(霞町)の開発について

 新世界の通天閣より南側、現在の恵美須東二丁目、三丁目は昔、霞町と呼ばれていました。

 この地区は、1903(明治36)年に開催された「第5回内国勧業博覧会」の終了後、1912(大正元)年より市電の車庫として使用されていましたが、1967(昭和42)年に廃止された後は、大部分の土地が遊休地となりました。

 当地区は、地下鉄やJR、南海電鉄、阪堺電軌鉄道、主要幹線道路などが集中する、交通アクセスに優れた立地条件にあり、大阪の文化、娯楽の中心として発展してきた新世界の雰囲気を継承しつつ、都心機能を補完する斬新で独自性の高い施設群の導入を図ることで新世界一帯の再開発の核となる開発を行うこととし、「交通局霞町車庫跡地開発プロジェクト」として1989(平成元)年、信託銀行4行連合体による「フェスティバルゲート構想」の提案を採用し、土地信託事業による開発が進められることになりました。

 地区の西側には都市型立体遊園地を中心として商業施設や映画館等が建設され、東側には、温泉を利用した世界各国の風呂等の大浴場や各種プール等を配置した「スパワールド」が建設され、1997(平成9)年7月にオープンしました。

 しかしながら「フェスティバルゲート」は来場者の減少等により経営が悪化して2007(平成19)年7月に閉園し、マルハンが閉鎖後の跡地を2009(平成21)年に購入しました。ボウリング場などの施設や「韓流テーマパーク」などの計画が発表されましたが、それらの計画はいずれも見直され、2014(平成7)年12月に「マルハン新世界店」が、翌年2月に「MEGAドン・キホーテ新世界店」がマルハン2階にオープンしました。

新今宮駅北側のまちづくりについて

 新今宮駅と動物園前駅は、南海本線、南海高野線、JR関西本線(大和路線)、JR大阪環状線、大阪メトロ御堂筋線、大阪メトロ堺筋線、阪堺線の計7路線が乗り入れる、大阪市内でも有数の交通結節点となりました。大阪・梅田やなんば、天王寺・阿倍野に加え、広域交通の拠点である新大阪や関西空港にも直結し、奈良や大阪南部・和歌山方面へのアクセスにも優れています。2031年に開業予定のなにわ筋線が乗り入れることにより交通結節性のさらなる強化も期待されています。

 また、新今宮駅北側では近年のインバウンドを始めとした来街者の増加に伴い、宿泊施設等の建設・開業が進んでいます。2022(令和4)年4月には、以前、化粧品会社や金属会社の工場で、大阪市が取得したものの長い間、使用されずにあった土地に「OMO7大阪 by 星野リゾート」が開業しました。

かつて生活困窮者等のための宿泊施設であった「馬淵生活館」の跡地には、2019(令和元年)年9月に日本初の外国人向け就労トレーニング施設として「YOLO BASE」が開業し、外国人の就労支援や暮らしのサポートをワンストップで提供しています。2024(令和6)年には「YOLO BASE」に隣接して、エール学園ICT校が開校し、海外からの留学生の受け入れを積極的に行っています。

 浪速区では、2020(令和2)年9月、まちの変化が進む新今宮駅北側エリアにおける、観光やにぎわいづくりの視点を踏まえた、概ね5年から10年のまちづくりのビジョン「新今宮駅北側まちづくりビジョン」を策定しました。このまちの特性や課題、地域の方々の思いを踏まえ、「新たな大阪の玄関口となる「訪れてよし・住んでよし」のまちに」をめざして、快適な歩行者空間の創出や玄関口にふさわしいおもてなし環境づくり、賑わい・憩い空間の創出、乗り換え導線の強化等に向けた駅改修の方向性の決定、駅周辺における適正な放置自転車対策などに官民連携で取り組んでいます。

浪速区役所の歴史について

 浪速区は1925(大正14)年4月に南区から分区しました。区の位置ははじめ南区役所に置かれましたが、同年9月、現在の位置に木造2階建ての庁舎が竣工し移転しました。その場所には以前、難波病院がありました。

 1868(明治元)年7月、大阪港が開港し、西区川口に外国人居留地が設けられ,12月に松島遊郭が設置されました。開港に伴って梅毒の問題も生じ、1871(明治4)年10月、松島、堀江、難波新地、曽根崎新地の4か所に仮施薬院が設置され、遊女芸者の疾病を診療することとなりましたが、翌年3月、施薬院を改称して駆黴院(くばいいん)とし、大阪府下の娼妓を悉く駆黴院に集め、罹患している者はこの院内に仮住まいさせ、健康な者には健全保証の鑑札を渡すこととしました。駆黴院ははじめ松島松ヶ鼻におかれましたが、1883(明治16)年 2月、現在の区役所の地に新築移転し、1889(明治22)年4月、大阪府駆黴病院と改称し、1924(大正13)年6月に住吉区に移るまで長くその地にあり、難波病院の名は全国的に著名でした。当時道路は不十分でしたので、道頓堀川より難波新川に入り、鼬(いたち)川(現在の区役所のすぐ南側を流れていた)から船で娼妓は往来したそうです。

 1925(大正14)年に建てられた初代の区役所庁舎は、急激な区勢の発展で拡張改築が必要となり、1939(昭和14)年5月、鉄筋コンクリート3階建ての庁舎が竣工しました、

 その後1945(昭和20)年3月13から14日の空襲により庁舎は全焼となり、同じく戦禍により休校中であった敷津小学校に区役所を移転し事務を続けましたが、1949(昭和24)年2月、一部を残して庁舎の改修を終わりようやく復帰することとなりました。この際、1階、2階は完全に修理を終えましたが、3階は窓のみの修理で焼けた姿のままでした。1965(昭和30)年、区制30周年を迎えるに際し、その記念事業の一端として庁舎の一部改修が行われ、3階の講堂、その他諸施設の完成をみるに至りました。

 松本清張の代表作の1つに、1945(昭和20)年3月の大空襲で浪速区役所の戸籍原本が焼失したことに乗じて新たな戸籍を作成し別人として生きてきた犯人が、自身の過去を知る人間を殺害する長編推理小説「砂の器」(すなのうつわ)があります。

確かに実際のところ、その空襲で区役所庁舎は全焼しましたが、戸籍係の倉庫のみは災いを逃れ、戸籍原簿の焼失はありませんでした。

庁舎はその後、老朽化に伴う建替えを行うこととなり、1999(平成11)年3月から難波中公園に設置した仮庁舎で業務を行い、2002(平成14)年6 月から、完成した7階建ての新庁舎での業務を開始しました。1階はロビーのみで、2階、3階とエスカレーターで連絡されており、3階、4階、7階は建物外壁をセットバックし、屋上庭園としての使用が可能なユニークな構造となっています。

浪速区内の重要文化財について

 浪速区には現在、2つの重要文化財があります。

髙島屋東別館(旧松坂屋)

 髙島屋東別館は旧松坂屋大阪店として1937(昭和12)年に完成しました。地上7階建(一部8階)の建物は当時、周辺の民家や工場がせいぜい2階建ての中、ひときわ偉容を誇っていました。

 1928(昭和3)年に第1期工事が落成し、その後1937(昭和12)年まで3期にわたって(4期は中断)増築が行われました。戦時中は高射砲陣地が設けられ、日立造船や国民厚生金庫、住友金属の製作工場などに使用されましたが、1945(昭和20)年3月の空襲では幸いにも延焼を逃れ、近隣の避難者約1,000名を地下室に収容しました。1966(昭和41)年に松坂屋が天満橋に移転した後、1968(昭和43)年からは髙島屋の東別館となり、売場、事務所、髙島屋史料館等として利用されてきました。2020(令和2)年に改修工事が完了し、現在は宿泊中心に、飲食や展示スペースを併設する複合施設となっています。2021(令和3)8月、国の重要文化財(建造物)に指定されました。

 設計は鈴木禎次(18701941)。建物全体はヨーロッパ歴史様式にアール・デコ調の装飾デザインが取り入れられ、特に堺筋に沿って続く11連アーチのアーケードや所どころに施されたアカンサス (キッネノマゴ科の大形多年草で古代ギリシア・ローマの建築ではこの葉を柱頭文様とした)の葉をモチーフにしたテラコッタの装飾、内部のエレベーターや階段まわりの細やかな装飾など、建築的に価値のある見どころが随所に残っています。

建物の特徴

11連アーチ

1階から2階にかけての下層部には 11連のアーチを並べ、半円部分にテラコッタ彫刻を施しており、堺筋側を豊かに装飾しています。

アーケード

2階分の高さを有し、堺筋に面して約67メートルの長さで設けられています。内側には細やかな装飾を施したショーウィンドウが並び、柱梁に黒大理石を張り、床は3色のテラゾー仕上げの壮麗な歩廊になっています。

大階段・エレベーターホール

 南北の大階段(1階)は、親柱に装飾された照明とともにデザインが施され、エレベーターは黒大理石で縁取るとともに欄間や柱飾りにホワイトブロンズを配しています。また大階段、エレベーターホールともに黄色大理石が多く用いられ、豪奢な空間になっています。 

建物の変遷
 年 できごと
1923(大正12)年 松坂屋大阪店、開店(木造、現在の地)
1928(昭和 3)年第1期工事落成(南側)
1934(昭和9)年第2期工事落成(北側)
1937(昭和12)年第3期工事落成(中央部連結、現在の姿)
1940(昭和15)年第4期工事落成(地下3階地上1階)
1966(昭和41)年松坂屋大阪店、天満橋に移転開店
1968(昭和43)年髙島屋東別館、開設
2020(令和 2)年髙島屋東別館、リノベーション・オープン
2021(令和3)年国の重要文化財(建造物)に指定される

大乗坊の毘沙門天王立像

 大乗坊は、もとは四天王寺の東北の方角にあった牛崎(筆ヶ崎)に位置し、崑崙山寳満寺の三十七院坊の一寺として四天王寺守護寺院の一端を担っていました。

 天文(15321555年)、天正(15731592年)の頃、織田信長の石山本願寺攻め合戦の巻き添えで再三兵火に遭い、大乗坊の当時の住職秀言律師が本尊毘沙門天の仏頭を奉じて、難波村名呉街(現在の日本橋筋)に逃れて草庵を起こし、大乗坊のみ再興されました。

 宝暦年間(17511764年)、備前の国の池田侯の帰依により大いに興隆し、灰屋善兵衛その他船場島ノ内の商店主の帰依により境内地の拡大その他の整備が行われ、さらに堂島の米問屋二川家の帰依寄進により寺勢大いに上がり、摂津名所図絵等に浪速名所の1つとして長町毘沙門堂の名があげられ、数少ない浪速の毘沙門天として信仰されてきました。明治に年号が変わるまで、境内千坪(約3.3平方キロメートル)、寺領域外周一里(約3.9キロメートル)を有し、浪速の富くじの発行勧進寺院として賑わっていました。

 御前立の本尊毘沙門天王は鎌倉時代中期の造像で、戦前は国宝、現在は国の重要文化財として指定されています。第二次世界大戦の戦禍により、堂宇は全焼しましたが、ご本尊は焼失を免れ、本堂再建と共にご本尊修理落慶の記念として、毎年春秋の2回に秘仏本尊御開帳法要が行われています。

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