大阪港の景観特性をとらえる要素・歴史(大阪港景観形成への参考資料)
2020年10月1日
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2.大阪港の景観特性をとらえる要素
2-2.大阪港の歴史
古代(4世紀後半~)

堀江開削(「海と大阪(なにわの海の時空館)」より)
難波津と難波宮(「千年都市大阪」より)
中世~近世(10~19世紀後半(平安時代~江戸時代))
近代都市大阪の母体となるまちづくりは、豊臣秀吉による大坂城の築城と城下町の建設が始まりでした。江戸時代には淀川・大和川の堤防決壊を教訓に河村瑞賢が計画した安治川開削によって新たな水運体系が形成され、大坂川口から舟運に便利な堂島川や堀川沿いに蔵屋敷が集中するようになりました。また同時期に進められた町人による新田開発とも相まって大阪は繁栄を極め、わが国の生産・流通・金融の中心として「天下の台所」と呼ばれるようになりました。
まちと舟運の発展により、北海道や日本海沿岸の地域との間を結ぶ北前船、江戸との間を結ぶ菱垣廻船をはじめ、京都との間を結ぶ三十石船や伏見船など多くの船が往来し、出船千艘入船千艘の活況を呈していました。「菱垣新綿番船川口出帆之図」では、安治川沿いに建ち並ぶ 蔵の白壁、吹流しと昇り旗を掲げた小舟や水夫達の華やかな風景が描かれています。
菱垣新綿番船川口出帆之図(「なにわの海の時空間展示総合図録」より)
天保山から見る築港(「千年都市大阪」より)
近代(19世紀後半~20世紀前半(明治時代~第二次世界大戦))
慶応4年(1868年)に川口運上所が開設され、大阪は諸外国に対して開港されました。川口には居留地がつくられ、異国の文化香る文明開化の中心として賑わうなど、大阪港は、当時は安治川を主とする河川港でした。
明治時代になると綿花の輸入や綿糸、綿織物の輸出が増加し、大型外航船舶が入港できる近代港湾の建設が求められるようになり、政府がオランダから招聘した技師ヨハネス・デ・レーケの計画を基にした築港計画がつくられました。
大阪築港計画(「大坂築港誌図譜」より)
現代(第二次世界大戦~)
大阪港の「内港化」計画(大阪港修築十ヵ年計画図」より)
昭和33年からは、臨海工業用地の造成をめざして南港の造成が始まり、再び大阪港の「外港化」が進められました。以降、昭和44年には大阪港コンテナ埠頭第一号岸壁が供用開始、昭和46年には大阪港フェリー埠頭に第一船が就航、昭和40年代後半から50年代前半には環境整備への要請の高まりなどに応じて、南港野鳥園、北港ヨットハーバーが整備されるなど利用を多岐に広げてきました。
新規の埋め立て地の整備が進展する一方で、在来臨海部の更新が大きな課題となり、これまでに海遊館などの施設整備を中心とする天保山地区の再開発(平成2年)や、ユニバーサルスタジオジャパン(平成13年開業)を核とする大規模な集客エリアを整備する此花地区の再開発などが行われました。
大阪港天保山岸壁周辺
また、平成以降に竣功した舞洲及び夢洲では、広大な用地を活用して、物流機能の強化、大規模事業用地の確保、スポーツ・レクリエーション機能の導入、業務・研究開発機能の導入などを図り、大阪の経済発展を支えるまちづくりに取り組んでいるところです。夢洲においては、平成29年8月に策定された「夢洲まちづくり構想」に基づき、新たな国際観光拠点の形成に向けても取り組んでいます。
こうした経緯により、臨海部では、現在の入り組んだ海岸線が形成され、対岸の建物が見渡せるなど、大阪港ならではの景観が形成されるとともに、多様な表情を持つ海辺のまちなみが生み出されました。

大坂港年代別竣功認可位置図(「大坂景観計画」より)
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